第13話 鳴瀬巴美の回想(その1)

 

 最近、僕の周りの環境は目まぐるしく動き回り、過ぎてゆく。それはグルグルと回る回転木馬なのか、出発すれば戻らないジェットコースターなのか、早すぎて僕には分からない。けれど、それに乗るまでに来た道のりを辿ることは簡単だ。それは、僕の中で完結していた世界であったからである。

 

 

 この一年、僕の中の世界には、音町紫弦という偶像しかいなかった。

 僕の生活に彼女が入り込んだのは一年前の新歓ライブの時で、彼女は僕の崇拝する対象となった。僕の中には常に彼女の像がいて、ライブで見る度にその像は、神聖さを帯び、僕は心酔していったのである。彼女の創りだす音楽を、僕は、摂取し嚥下して血肉にするかのごとく、聴いて、覚えて、それでも聴いて、彼女の真似ごとでギターを弾き、再現した。

 僕にとって、ギターを弾くという行為は、精神世界の彼女と繋がるための厳粛な儀式で、ギターによってのみ、僕は彼女へ近づくことが出来た。

 この一年間は幸福であったといえるだろう。

 何も余計な事を思い煩う必要がなく、ただ一心に信じられるものがある。翼が生え、身体が軽くなったような心地であった。母達は、一心不乱にギターに打ち込む僕を見て、何やら心配していた様だが、そんな母達の視線も気にならなかった。

 僕はこのままでいいと思えた。男なのに女の振りをする半端野郎だけれど、彼女を思うことに重心をおいた生活には、憧れる彼女の存在があるだけで良くて、それ以外のことなど何も必要がないと感じた。だから僕は、自分が抱える悩みなど、どうでもいいと思うことが出来、今もこれからも僕に襲いかかるであろう苦難に、絶望的になって悩む必要はなかった。僕はそこそこ勉強が出来ると自負しているから、将来は仕事が選べられるだろうし、もしこの性癖で疎まれるのであれば、その需要がある仕事に就けば良い。結婚したいのであれば、僕のことを認めてくれる相手を探せば良い。外の世界は広いのだ。こんな僕でも、真面目にすれば、人並みに生きていけるはずだ。彼女さえ僕の中に生き続けてくれれば、後は些細なことである。何にだって悲観的にならず、耐えてみせるさ。


 そう思っていたんだ。彼女と実際会うまでは。


 それは、あの新歓ライブから一年後、行きつけの楽器店へギターを弾きにやって来た僕に、店員が教えてくれたのがきっかけだった。

「今さっき、Dead Heatsが練習スタジオを借りて上にいったぜ。坊主、ファンなんだから会ってこいよ。あいつらは、ここら辺では有名でお高く見えるかもしれないが、実際のところは、めっちゃ気さくな奴らなんだぜ。特に音町だな。俺はな、奴らのファンだっていうだけでこういうことは言わねえんだ。音町なら絶対坊主を気に入ると思って言っているんだ。なんせ今の坊主のギターはあいつよりうまいし、坊主にはインパクトがあるからな。さっ、行ってこいよ」

 そう言って、彼は僕の背中を叩いた。

 彼は、こんな僕にも分け隔てなく接してくれる人物であった。僕はよく彼にギターに関する相談を持ちかけていた。Sex HeadsやDead Heatsのギターサウンドはどうしたら再現できるのか、とか、ギターの弾き方だったり、とか。彼はいつも親身になって僕に教えてくれた。彼にDead Heatsと太い繋がりがあるというのも僕の中では大きかった。僕がギターを始めたきっかけを知る彼は、善意で僕にDead Heatsに会ってこいと、言ったのであった。

 最初、それを言われた時、僕は恐れに似た感情を抱いた。けれど後から止めようもない程の好奇心がそれを覆い隠した。実際に近付けないと思っていた彼女に会える。そう思っただけで心臓が今までにないほど高まり、身体が奥のほうから震えだした。この膨れすぎた興奮を諦めで冷ますのは、あまりに、今の僕には耐えられないと思った。今の僕がすべきことは、このチャンスに彼女に会う、それ以外はないように思われた。その他の判断が出来ぬほどに、僕は地に足がつかずに浮ついた。背中を叩いた彼の手を推進力に、僕の身体はDead Heatsが練習しているというスタジオへ向かって行ったのである。

 階段を上りニ階へ行くと、十部屋ある練習スタジオの内、何部屋かは埋まっていた。僕の目の前を走る二階の廊下は、防音設備された部屋越しにも、ギター、ベース、ドラム、ヴォーカルの音が漏れ、あらゆる音が、雑然と、混沌に満ちていた。彼にどこの部屋かは聞いていなかった。けれど、僕はすぐに、どこの部屋に彼女がいるのかが分かった。彼女の音楽が身体の一部となっている僕は、その部屋へと、自然と息を殺して近付いた。

 部屋の前に着いた時、扉の覗き窓から見える彼女は、ライブでの神々しいほどの輝きはなりを潜め、普通にただギターを弾いて歌っている少女に見えた。僕と彼女の距離がグッと縮んだように錯覚する。

 彼女は、僕の手が届く、すぐ目の前にいた。

 

 僕の中にいた彼女が、受肉した瞬間だった。

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