第8話 危機感

 

 気に食わねえ・・・。


 鳴瀬巴美のバンドDead Heatsへの加入が決まった。

 時刻は午前2時。窓から覗く月は真ん丸く、あたりを漂う雲を歯牙にも掛けない程大きいそれは、一面暗い空にぽっかりと空いた穴のようで、常夜灯というには過剰なほど、煌々と辺りを照らし、普段見えないものまで見えてしまいそうなほど、不吉に輝いていた。

 新曲の音合わせをしていた練習スタジオから抜けだし、帰宅した後の自室にて、猪原悟志は音町紫弦からのラインで、その結果を知った。

 彼があの場で「好きにしろ」と言った時点で、そうなるとは分かっていたことで、諦めていた。ギターの腕前といい、Dead Heatsの曲を全て弾けることといい、バンドにとっては申し分のない人材であったけれど、彼が密かに抱える実際の立場からいわせてもらえるならば、鳴瀬巴美は歓迎すべき人物ではなかった。


 その理由を説明するには、彼のこれまでの轍を辿らねばならない。


 彼はバンドや音楽など一切興味がなかった。バンドを組むまでは音楽と無縁の生活を送っていた。そんな彼が、バンドDead Heatsで活動するのは、音町紫弦がいるからにすぎない。彼と彼女は幼稚園から続く幼馴染である。これまで関係が途切れたことは一度もなかった。関係が続いたのは、小学校、中学校、高校とずっと同じ学校に通っていたこともあるが、それより彼が、小さいころからずっと、ひたすらに、生活する上で、常に彼女だけを念頭に置き、最優先にしてきたからである。

 

 幼稚園児の時、彼女が鬼ごっこやかくれんぼをするといえば、それに付き合った。

 小学校の時、彼女がバスケットボールを始めたいと言ったから、自分もバスケットボールを買って練習したし、地元の同じバスケットボールチームにも参加した。

 中学校の時、彼女がバスケ部に所属したから、自分もバスケ部に入部して、レギュラーを勝ち取り、全国大会にも出場した。

 高校に入学した時、彼女がバンドを組みたいと言ったので、楽器を始めた。彼女がギターを弾くというので、彼はベースを担当した。

 

 そう、全ては彼女を自分のものにするためである。こんな回りくどい事をするのは、彼女がこれまで彼を異性として認めたことがないからだ。彼女は夢中になると、それ以外には全く関心を示さず、そればかりに気を取られる様になる。小、中学校の時はバスケ、今はバンドである。そんな彼女には、恋愛という、時間や労力がかかる得体のしれない遊びに割けられる余裕がなかった。愛だの恋だのと「青春」っぽい歌も歌う彼女だったが、やりたいことがある自分には無縁と考えていた。彼は小さい頃から、そんな彼女の考えを知っていた。だから彼は、どんなに思いこがれようとも彼女に直接、告白などはしなかった。

 彼はいつしかこう考えるようになっていた。

 いつかは彼女に、となりには猪原悟志がいるのが当たり前で、彼なしでは生きていけない、と思わせるのだ、と。そのために、彼はこれまで献身的に彼女の傍に仕え、尽した。これからも、そのはずである。

 今までに、彼の計画に害を為そうする者はいた。けれど、彼が何の手を打たなくとも、彼女が無関心をもって、それを黙殺し、彼の単なる杞憂に終わらせてきた。もちろん、万全を期すために彼が手を加えることもあった。彼女が気づかないように細心の注意を払って。



 今回はどうであろうか、俺は心配を募らせる。鳴瀬巴美。紫弦があんなに他人に興味を示すのはめったにないことである。しかも男だ。海原真と出会った時もそうであったが、こいつに関しては問題外であると、後々判明した。海原真は女だとか、男だとかに一切興味を持っておらず、音楽だけが全てだった。海原は、自分を構成するのは音楽で、それ以外を不必要と考えていた。共にバンド活動を通して、密に関わっていく中で気づいたことだ。俺と同じ人種であった。違うことといえば、その対象が、音楽か、一人の女かではあるが、しかし、この違いは平行線が交わらないほどのものなのかもしれない。

 紫弦も海原のことは、音楽をするだけのパートナーという認識だろう(現時点の俺もその立場は変わらないであろうが)。

 しかし、鳴瀬巴美は違う。巴美は間違いなく、紫弦のことが好きであった。今は尊敬だとか、憧れとかの気持ちであると、本人は思っているだろうが、そんなものはきっかけ次第で、あらゆる感情と混ざり合い、巴美の心を蝕むだろう。そうして苦しみに喘いだ時、巴美はそれを世間一般的な定規で測り、「好き」という言葉に落とし込むのだ。プロセスは大体こんな感じだ。偏見でものを言ってしまえば、奴は女装して、女になりきっているようなコスプレ野郎以上に、なにか俺では理解できない心の構造をもつ、気違いではないかとふんでいる。もし、そうであるならば、「好き」と落とし込んだ気持ちが、どれだけ狂気に満ちていようとも、奴がそれを「偽りのない本当の気持ち」だと思ったが最後、最悪とんでもない暴走を起こすかもしれない。紫弦も巴美の影響を受けてしまうだろう。紫弦はエキセントリックな女に見えるが、ただ、憧れのバンドを真似て悦に浸る普通の女の子なのだ。鳴瀬巴美が異常者であった場合、奴が本性を見せた時、紫弦に為す術はないだろう。これもまた、俺の考え過ぎなのであろうか?いつもの杞憂に終われば良いんだけどな・・・。



 そして、俺は気分を落ち着けるため、今日紫弦が飲んで、捨てた後のペットボトルを手に取って、いつもの「習慣」を始めた。

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