第11話 君は君の道を

 ブルーを振り払いたかったのか、ブルーに後押しされたのかはわからない。あるいは、どちらも同じことであるのかもしれない。いずれにせよ、歩く以外にはなかったのだ。到達するまでには、いくつもの風景を通り過ぎなければならなかった。同じ名のコンビニ、おなじみの整骨院、おかしな名の歯科医、店先に足並みを揃えた靴屋、モス、ステップ、エントランス、ダンススクール、産地直送の野菜を並べた八百屋さん。無に近づいたように疲れからは解き放たれ、歩いているという感覚さえも、ほとんど失われていた。ただ自分の周りの風景の方が、穏やかな速度で流れすぎていくのだ。誰かが天界に引き上げようとしているかのように、身が軽くなっている。距離も時間もない。歩き終わることが虚しいために、先へ進む他なくなっている。徐々に身を削り取られていくのだとしても、自分ではやめることができない。一歩、一歩、右足、左足。もはや地面を蹴っているという意識はなく、動いているのは手でも足でも変わりはなかった。虫の声。夏の終わり。雨。陽射し。雨。虫の歌。ざわざわ。年の瀬。粉雪。少し痩せて。

(ちょっとそこまで)始まりの頃がそうだった。いつか出発点も思い出せなくなる。すれ違う人の影が、獣やサンプル画像に見える。まだ大丈夫、自分だけは大丈夫、いつだって引き返せる。根拠のない自信を保ちながら。また三月が四月になる五月になる。まだ六月か。半分残っているじゃない。七月が八月になる十月になる。九月はどこに行ったの。妙に風が冷たくて十一月に思い当たる。もうここまで来たら、同じじゃないの。何が同じだ。もう踏み越えてしまっている。「現実を捨てるの?」現実なんて何も魅力はない。ずっと十二月ならいいのに。

 いる、いない、いる、いない、いる、いない、いる、いない……。

 一歩一歩、心が揺れている。終わるのはまだ早い。けれども、足が何かを主張している。夢が醒めていくように、ゆっくりと頼りなく減速していく。いなかった。やっぱり君はいなかった。「幻滅だって喪失に違いない」歩みの中では心だって更新される。冷たい現実が目の前に広がる。足下から弱くなっていく自分。あなたが強く思い描いた幻の方が、私よりも遙かに存在しているのかもしれない。それは私の足を止めさせて、しばしば私の手を煩わせるもの。

 歩むための努力なんてしたことはなかった。猫が狭きを行くように、抜け出すことのできない執着の中を、ずっと歩いていた。他に道はない。だから私がここにいる。




「この花は何だね?」

 真っ暗な部屋の中で、量り売りをしていた。針がどこを指しているかなんて、関係ない。僕は名ばかりの売り手だった。

(時計の針が間もなく明後日の方角に曲がります)

 それはハリネズミが時を刻み出した証拠。闇が、シンデレラを舞踏会の中に閉じ込めようとしていた。彼女から約束を奪ったら、何が残るのだろう。

「どうしてお菓子はいくつになってもうまいのだろう?」

「そうかね。君だけだろう」

「違うね。そう思わないのが君だけだよ」

「漫画はいくつになっても面白いよね」

「そうだろうか。子供の頃の方が面白かったようだが」

「それは好きな漫画家がいたからでは?」

「そうだろうか」

「それもあるんじゃない」

「少しはあるだろうけど」

「でも子供の頃の方がおいしかったかも」

「いくつになったの?」

「人間の歳で言うと70歳くらいか」

「そうは見えないけど」

「見かけは関係ないでしょ」

「好きなだけ食べられなかったからでは?」

「そんなんじゃないよ」

「仮縫いの時間だったからかな」

 今度も星は流れていったけれど、いつまでも見上げているほどのゆとりはなかった。今というのは、ずっと昔のことかもしれない。ここで何かがあったこと。それだけがわかることだった。

「見てごらん」

 いつも花がある。枯れもしない花。

「今も誰かが、誰かを思っているのさ」




 無意味な言葉は全部消してしまえ。うそはいつだってきれいに消してしまうことが正解だ。

 きれいになって、真っ白になって、またゼロから、葱を切ろう。ありあまるほど、葱を切って、葱を切って、切って、切って……。それでも終わることはない。葱はまたなくなって、そうして、またこの場所に戻ってきて、ゼロから、葱を切り始める。それが私の生活。それだけが、私にできる人生の営みだ。そうする以外に道はない。そうすること以外に何もない。それを必要とする、私がいる限り、私はここに生きている。ああ、なんて気楽なことだろうか。トントントン……。トントントントントントントントントントントントントントントントントントン……。


「またおまえか!」

「誰ですか? あなたは」

「俺の大切なタブレットの上で、葱なんか切りやがって!」

 とうとう、まな板の中からリアルな人間が現れて、野蛮な声を上げ始めた。

 タブレットだって?

「俺はずっと人生の素晴らしさについて書いているんだ! 神聖な俺のフィールドを汚すのは、もうやめにしてくれ!」

 男は怒りを露わにしていた。自分の正義を信じて疑わない者に抵抗するのは、とても気が引ける。どこか見覚えのあるような顔、聞き覚えのあるような声だった。守るべき場所の前で、私は何も主張することができない。突然の出来事に、すっかり打ちのめされていた。私は私のまな板の上を明け渡して、逃げ出した。当面の葱には困らない。まだたっぷりと残っているはず。記憶を信じられるなら、確かに。確信はすぐに揺らいだ。小さな風に盗まれてしまったようだ。もしも、彼の言う通りだったとしたら……。どうなってしまうのだ。恐ろしいのは世界が崩壊していくことか。それとも、自分だけが置いていかれることか。

 一刻も早く離れたかった。

 人生が素晴らしいだって?

 だから、こんなに足下が暗いのだろうか。ずっと頼りなく歩いている。進んでいる感触は、遠い場所に置き忘れてきた。行き先も帰る場所も不確かなので、それも悪くない。引き返すことのできない逃げ道を。このままいっそ、恐竜時代までたどっても構わない。崩れたアルファベットが刻まれた風船が、宙をさまよっている。いったい何だったのだろう。廃墟と化したビルの前に、傾いたオルガン。白い鍵盤を寝台にして、猫は寝息を立てている。

「君は君の道を行け」

 縁に腰掛けた少年が、ギターを弾きながら歌っている。青いスニーカーの紐が、片方だけ解けて下に長く垂れていた。向こうの方は明るいのに。ずっと、向こうの方には明るい光が見えるのに、私の体はそこに近づいてはいけない。

 時空が交わっているせいで、どこまで歩いても渡り切ることができない。そんな橋の上を、私はいつまでも歩いていた。



(完)


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