第10話 ポップコーンの夜
木々の隙間から店の中をのぞき込めば、するすると細い麺を啜る人の姿勢を見つけるこができる。その出汁の本質は鰹か昆布か。猫は木の上からほのかな関心を寄せる。ちょうど下りてきた鳥の方に、すぐに興味は移行する。
移ろう猫の関心が街をかけていく。煉瓦作りの焼き肉屋。子豚たちが作り込んだ頑丈なお店。冬の嵐にも長引くデフレにもびくともしない。暖かな壁触りは人々を引きつけてやまない。冷めもせず、焦げ付きもせず、草食の唇を一夜限りは肉食にする。
湿った駄菓子屋さん。飴玉は手にくっついて離れず、口元までもたどり着かない。幸運を包み込んだクジは、ひねくれた貝のように開かず、喜びも失望も届けられない。濁ったビー玉はべったりと地面についたまま、どこにも転げていかない。「そんなの常識よ」湿った煎餅をかじりながら、お婆さんの口元からは厳しい人生への教えがとめどもなくあふれる。噛みきれない煎餅の残骸が、ぽろぽろと薄汚れた地面に落ちて。湿った床を意気揚々と這っていく無数の黒い影が、菓子屑を拾って、僅かに開いた湿った扉の隙間を通って、外へ出て行く。カウンターの高い喫茶店。ロビーの広い歯科医。ショーケースの眩しいケーキ屋。点滅の止まらない交差点。取り壊されたコンビニ。眼科の下の精神科医。細身のマンション。蟻たちを足止めできる道など、一つとしてなかった。たどり着いたところは、パン葛だらけのパン屋さん。
「焼きたてのパンをどうぞ!」
パンを運ぶほどにパン屑が落ちる。待っていましたと絶え間なく零れ落ちるパン屑を熱心に運んでいくのは、働き者の蟻たち。ちょっと君たち。調子よく触角に近づくノンフィクションライター。
「よくぶつからずに歩けるものだね」
「ふん。好きに書いてな」
笑い声が膨らむ酒場。透明な眼鏡屋。何人も通さない改札口。天井にまで本の積み上がった書店。迷走する台車。境界線の消えた駐車場。
謎を含んだアイコンを張り付けたテーブル。禁止されているのは、黒い煙を吐くことではなく、もっと腹黒く勉強することだ。くつろぎなさい。落ち着きなさい。どうぞごゆっくり。わからないように妄想するのはよし。さあやるぞと表明するはなし。熱心に打ち込んで、自分だけ偉くなってはいけません。みんな一緒に、まったりとしなければ。我先にと逸ってはいけません。
(学びの一切を禁じる)
学んではならないので、仕方なく葱を切ろう。
また、誰かがまな板の上で、言葉遊びをしていた。美しく緑を広げるために、まな板の上を綺麗にしなければ。カウンターで布巾を借りて、言葉にまみれたまな板の上を、何度も滑らせねばならなかった。全くしつこい奴だ。あるいは、しつこい連中だ。こんなごっこがいつまで続けられるの。どうせ消えてしまうというのに。その熱意を、こんな儚い場所ではない、もっと確かな場所で使えばいいのにな。さよなら、さよなら、どこかの君のための物語。
トントントンと葱を切るとさっと葱が香った。コーヒーの強い香りにも負けない、香り。ブラックの横に、鮮やかな緑。ここしばらくは、薬味に困らない日々を手にした実感が、胸を少し温かくする。手を動かしている時には何も感じなかったのに、手を止めた瞬間、指先は微かに震えていた。手首には確かに熱が感じられた。刻まれた新鮮な素材を、機密性の高い器に移した。顔を上げた私を驚かせたのは、人々の仕草だった。みんな熱心に学びの中に没頭している。アイコンを真に受けた私に比べ、ここの人々は逞しく意志を貫き通している。
足音の絶えない通路。向こうには陽気な人々が身を寄せ合う場所がある。意中の魚を皿に載せ、好みの酒を酌み交わし、談笑に沸き乱れ。なのにここの人たちはどうしたというのだろう。警告さえも無視して、テーブルの上にノートや電子的な書類を開いて、熱心に打ち込んでいる。まるで何かに追われるように。スイーツを口にする一瞬の暇さえも惜しいというように、視線を下に落とし続けている。どちら側にも、私はなれそうにない。葱だけを大事に抱えて、逃げ出してしまう。
曇り硝子のクリーニング屋さん。開かずの扉の向こうでは、人形のお婆さんが番をしている。スーツもコートもとっくの昔に仕上がっているのに、錆び付いてしまった扉に阻まれて誰も足を踏み入れることができない。冬の布団を抱えた旅人。取っ手にかかった手が、扉の重さを知って放れる。軒下をさまよう視線。第二の選択、翼の生えた助言者はどこにも見えない。去っていく旅人の後姿を見送る人形のお婆さん。埃を被った長い髪。瞼は少しも震えない。
終末時計は振れてしまった。僕はスクリーンの前にいた。
遙かに遠いところから流れ着いた数字は、地球に落ちてあらゆる人にくっつき始める。無邪気に眺めている場合ではないのに、理屈を宿した脳はまだ筋書きを追いかけるという習性を捨て切れないでいた。人を経て、数字は木になった。一つとして同じ木はなくて、それぞれの木にはそれぞれの特徴があって、語る言葉は何も持たなかったけれど、猫を引きつける力があった。メッセージの発信は、猫が一手に引き受けていた。ミュージカルの要素が濃く染みた枝が、雲の下に広がる。落ち葉と共に、魔王の野望は散った。救うこともなくなった後で主人公はすっかり憔悴し切っていて、重い足取りで歩き始めた。
「こんなにさびしいのはない」
少し先を行っているアンドロイドに追いつかないように、歩く。掲示板を見つめるように、アンドロイドを見つめている。今日も更新なし。
「虫は秋、アンドロイドに魂を」
小声で少し歌のまねごとをしてみる。
「遅かったじゃないか」
すっかり遅い時間になっていた。あと少しのところで、希望も尽きてしまうところだった。
「開発に時間がかかってね」
人工知能を設置すると人類はもう出発の準備に入っていた。
「見届けていかないのですか?」
他にも回るところがあると人類は言った。
「最後の日に、答え(解決策)が出ます」
ポップコーンの香りが満ちる。横殴りに窓を叩き続けている。上映の終わり、葱が切られるべき場所では、高速でエンドロールが流れ去る。友情出演、遠い星のエキストラたち。幕が下りれば、英雄たちも名もなき虫も異星人もみんな消え去ってしまう。充実の終わりが死ならば、少し寂しくても仕方がない。私は疲れているのだろう。本当は何もなかったのに、幻の生が見えてしまうのは、観客が身を乗り出したせいなのだ。慌ただしさも、切羽詰まった時間も、束の間の幻想に過ぎない。
現実に沿って葱を切らなければ。夢に惹かれすぎていたのか、いつもの場所に布巾は見当たらない。どこにも見当たらなかった。明日にしよう。明日からは正しくしよう。いつまでもこんな「いたちごっこ」が続くものか。やがては落ち着く日が訪れるに違いない。もうすぐ、きっともうすぐ……。あきらめが救いになる。そんな夜だって、あってもいいでしょう。
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