第9話 ブルー&ブラック

 見通しのいい道が続いてブルーになった。安定の中で常に不安を抱かなければいられなかった。火曜日や水曜日は、特にブルーだった。明日も同じだと思い始めると今の意味が薄らいでいくようでブルーだった。まだ先が長くあると思うと前半は不安だった。日々が食われて土曜日に近づくと少し和らいだ。日曜日の前には日曜日の終わりが想像されてブルーだった。日曜日が始まると現実にブルーになった。日曜日がすり減っていくにつれて益々ブルーが募った。また始まりを迎える、また繰り返されるのだと思うとブルーだった。退屈に支配されていると思うとブルーは深まった。ブルーでない時間は短かった。夏休みも始まってしばらくするともう終わりに向かっていく止められない時間の流れを意識してはブルーだった。予想していた通りに進んでいくほどに、ブルーは深まった。もう一度、始まりの頃に戻りたかった。何も思わずに、気楽に過ごせる時間、もっと大切に、一秒一秒を有意義に、夢中になれることに打ち込める時間。戻れるならば全く違う時間を持てるはずだけど、決して叶わないことを思えばブルーだった。叶わないことを幾度も想像しては、失望を深める自身の思考回路を思い返しては、深くブルーだった。

 人がいないと不安だった。人が現れると不安だった。近くにいる人がずっと黙っていると不安だった。何を考えているのか考えていると不安で、恐ろしく悪意に満ちていると想像するとブルーだった。警戒していると警戒を解けない弱い自分がブルーだった。話しかけられると不安だった。共感を覚えると少し笑顔になって、少し不安は和らいだ。警戒を解いた自分は不安だった。話し続ける内に、不安は増していった。理解されているようで実際には少しも理解されておらず、一瞬近いものが通過したことを悟るとブルーだった。人に近づきすぎるとブルーになるとわかりブルーだった。

 人に囲まれているとブルーだった。左に壁があると少し安心だった。壁に肩を預けて、触れている間はそこから人が現れることはないと思うと少し強くなった。人よりも壁の方に自分が近づいて風景として溶け込んでしまえば、人の目には気づかれることもなくなるように思えれば、心強かった。何かを見つけなければ、何かを保つことは難しかった。辞書を手に取って、目的の単語がどこにも見つからない時は、ブルーだった。言葉はもっと広い場所で探すものかもしれない。ログインした時に、少しも人が増えていないことが不安だった。むしろ減っていることを理解して、ブルーだった。ダブルクリックが何も触れていないように扱われた時には、深くブルーだった。指先の感覚くらいは、誰かに伝えられるかもしれない。束の間の共感くらいは持ち合った人と道ですれ違った時、笑顔一つも見せてくれなかったので、やっぱりブルーだった。小さなブルーばかりが私の中に降り積もって、何か得体の知れない大きな力になっていく。それによって本来備わっているべき力の多くが奪い取られていってしまう。真っ直ぐ立っていられなくなって、ふらふらと歩き始めた。

 ブルーから逃れようと歩くほどに、空からブルーが離れていくようだった。遠く遠くの方だけは赤く染まって見えたけれど、少し歩くともう濃いブルーに呑み込まれてしまった。

 お店の人がどこか不機嫌な顔をしていたし、アップデートの中身は噂とはまるで違っていた。デモ隊の活動などまるで何事もなかったように、粛々と事が進む。何か劇的な変化を期待したというわけでもないけれど、あまりにも何も変わらなかった。傘を閉じて数歩歩くと、水たまりには目に見えてわかるほどの弾道が打ち付けられている。小さな失望が降り積もって、体内にブルーが蓄積されていく。耐えきれないブルーを振り払うために、歩く。歩くことしかできない。どこまでも、行こう。道が尽きるまで。

「よほど暇なんだね」

 一瞬だって、暇を持てた記憶はなかった。

「歩くことが、本当の目的だった場合はどうなるの?」

 わけもなく歩いているわけじゃない。歩かねばならないから、歩いているのだ。何気なく言った他人の言葉が脳裏から離れない。余計な記憶を振り払いたくて、私は歩く。この先の道が、どこまでも続くことだけを願っている。




「何をしているの。冷めない内に飲みなさい」

「先生は早く話を終わらせたいんですか?」

「言いたいことがあるなら聞いてあげるわ」

「僕は町を出ます。上京するんです」

「ちゃんと目的はあるの? どうせ帰ってくるのよ」

「戻りませんよ」

「あなたは小さなカップの中にいるのよ」

「僕はもう子供じゃありません」

「ほら。よく見てごらんなさい」

 コーヒーカップの中には川が流れていた。僕は橋の上を歩いて、いつもの道に出た。夕暮れには、もう暖簾が下がっている。店先に黒いバイク。上に猫が寝そべっている。今日はいない、と思った時には、バイクの下に隠れていたりする。大きく言えば猫は眠っているというだけだ。けれども、その姿勢の中には無限の微差が認められた。いつも同じ道を通った。昼間の猫を、僕は知らなかった。いつもは右に折れるところを、今日はそうしなかった。冒険のはじまり。

「ほー、ぼく。歩いてきたの? 地球から? 遠かったろう。そりゃあお腹空いたろう? こんなんしかないけど、ぼく、こんなん嫌いかの? よう、ぼく。話はわかるか?」

 山葵のようなものとキノコらしいものがタッグを組んで、調和を図ろうとしているのが見えた。僕はそのための調整役を申し出た。

「君たちにとっての豆腐に当たるんだよ」

 えっ……。君たちにはちょっと難解だったかな。いや、僕がいればもっとよくなると思うんだ。魅惑的になる。現代的になる。飛躍的に、圧倒的に。つまりだね……。

「おい、何だ。こいつ。さっきから何かごちゃごちゃ言ってるぜ」

「わかんないね。とりあえず潰しちゃえ!」

「おう!」

 戦えば勝てるところをあえて逃げることを選んだ。強さを見せるところはここではない。逃げるものを見て追ってくる勢力はあったが、僕より俊敏なものは存在しなかった。

「ここまでくればもう安心だ」

 無人島までたどり着くと自分を見つめ直した。もう安心だ。安心というよりも、寂しい。まあいいさ。地球はあんなに綺麗じゃないか。今度は、もっと準備をして来よう。

「どうせ。すぐに帰ってくるのよ」

 顔を上げると先生が山葵のような目で僕を見ていた。

「ちゃんと準備をしていくつもりです」

「無駄足にならなければいいけど……」

「いいんです。眠らなければ、おはようと言う機会は訪れないでしょう」




 おはようと起こす者はいなかったけれど、私は抱え込んだまな板の上で目を覚ました。どこへ行っていたのだろうか。消えていた自分自身をゆっくりと回復させる。見失うということは、見つけることだった。目の前に残った焦げ付いた珈琲かすのような傷跡の上に、手を伸ばさないと。私は不毛な会議の黒板消しだった。いつからだろう。ずっとそうしてきたような気がした。 

 ささやかな反復は、愚かさにも慣れが訪れることを学ばせてくれた。いつからか、不条理で邪な訪問者の到来を待ち望むようになっていたのかもしれない。突然、それが現れない日がやってきた時には、安堵の他にも失望の感情が湧いてくるのかもしれない。先生がどうした。関係ない。黒いバイクが、地球がどうしたって。キノコが。みんな馬鹿馬鹿しくてどうでもいいことだった。無意味であるはずの接触に、癒されていたのかもしれなかった。馬鹿だ馬鹿だと言いながら、安心していたのかもしれなかった。まるで価値が認められないものに、満たされていくのなら。自分はおかしくなっているのだろうか。

「くだらないね」

 それは私に何も与えてはくれない。

 仕方なく私は黒を白に塗り替えるための手を尽くさなければならない。私以外の誰も私のためにそれをしてくれないのだから。仕方なく、仕方なく……。走らせる手はどこか頼りないものだった。

(またきたの)

 どこかの猫の頬を撫でる手のようだ。


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