第8話 兎とマヤ

 交差点ではあらゆるものが信号を無視して先を急いでおり、それは突然地上に降り立った巨大怪獣のせいであることは間違いなかった。

(ウルトラマンを呼びに行こう)

 自身の使命はいつも突然生まれるけれど、時を稼ぐための車はもう私を置いて先の世界へと進んだ後だった。私はハンドルを放棄し、あるべき通りの歩き人になっていた。ブルーな上り坂が続いた。海が近づいていると若い鳥たちが教える。信号機は子守歌を奏でる。途絶えることのない不屈のメロディー。渡っていいの。誰だって、ずっと渡っていいの。過去と未練へと誘うメトロノーム。単調に街を打ち続けている。うとうと。見つめているのは自分の靴だった。

 時々目を開けてみるとカレーはまだ眠っている。安心して私も眠る。目覚めた時に誰もいなくなっている(世界が終わっている)不安にうなされている。再び目覚めた時、カレーは何も変わらない姿勢で寝ている。誰かが起こすのか、やがて自らの意思によって目を覚ますのか。眠るほどに熟成する才を自覚している。羨望の添い寝とブルーな寝返り。自分はきっとそういうわけにはいかない。同じ仕草をしているつもりでも、同じ方向に向かっているわけではない。また恐ろしい夢を見そうだ。(夢の中での愚かしい恐怖)もう何日もカレーの横で眠っている。微かな寝息だけが聞こえてくる。

 誰も気にしない。破壊も暴力も咎められるどころか、もてはやされている。そんな不条理が現実か。巨大化したのは怪獣ではなく、縮小されたのが世界だったら。跳ねているのは、みんなマシュマロの建造物のようでもあった。警戒されるのは怪獣のように目立つものではなく、今となっては私のような存在だ。

「どうにかなりそうだった」

 自分の声が聞こえたけれど、意味はわからなかった。おかしくなる、ブルーになる、どうにかなる、どっちにしても同じこと。大丈夫。どこにもたどり着けないから、私は歩いているのだろう。歩いている限り、きっと大丈夫なんだ。歩いている、歩いている、歩いている。何かが、小さな枝のような小さなものが踵に触れて、私はまだ歩いていることを思った。




「窓を閉めなさい」 

「どうして?」

「また兎が入ってくるじゃない」

「いいじゃない」

「また家が食べられてしまうわ」

「そんなことないよ」

「どうかしら」

「月と間違えるなんてかわいいじゃないの」

 兎は家なんて食べなかった。むしろ誰よりも前向きで、働き者だった。何事にも貪欲で、新しいことに率先して取り組んだ。ぴょんぴょんとはねながら、真夜中に在庫をチェックしていた。

めんつゆが残り1本

ポン酢が残り1本

オリーブ油が残り2本

マヨネーズが残り3ダース

 兎は熱心にページをめくった。物語の内容を理解しているのか、怪しかった。時々、相槌を打った。めくる仕草が気に入っているようだった。誰かが何かの拍子に焼きウナギの話をした時、兎は一瞬びくりとした。すぐに兎は気を取り直した。いつも前向きだった。時折、空を見上げてじっとしていた。

「そろそろ帰してあげないとね」

「ここが気に入ってるんじゃない」

「本当は帰りたいけど言い出せないのよ」

「そうかな」

「そうなのよ」

「でも、どうやってやるの?」

「マヤにお願いするの」

「頼めるの?」

「わからないけど、託すしかないのよ」

 コーナーフラッグが風になびいた後で、マヤは兎を抱いて高く跳躍した。誰よりも早く地を蹴り、誰よりも遠くへ飛んだ。ボールはキーパーがグーで弾いてクリアして、もう一度反対サイドから仕切り直しとなった。その時、前線にマヤの姿は見えなかった。作戦が上手くいったのかどうかはわからなかった。チームは互いに決定力を欠いていた。ハーフタイムに入った頃には、一際強く月が輝いて見えた。

「やっぱりマヤね」




 窓から兎が入ってくるように、文字の侵入を招いたのはまな板に鍵をかけていなかったせいだ。招いているのは、私かも知れない。新しい葱を切るために、兎とマヤの残骸をきれいに消去しなければならない。もしかすると、同じなのかも知れない。文字を書くということと、葱を切るという動作は、その単純さにおいてまるで同じなのかもしれないと、布巾をかけながら思った。私は鋭利な器具を扱いながら一時の反復の中に自身を入れ込む。葱という一時のエネルギーを生み出したことによって、自身の存在に少しの安らぎを与える。どれだけのものを生み出したようでも、すぐに尽きてしまうことは知っている。それにしても、同じようなものではないか。

「くだらない!」

 マヨネーズを数える兎の仕草が目に入って、悪態をつく。ひと拭きひと拭き、足跡は消えていく。私は繰り返し、終わらせることを、終わることを学んできた。私の目の前にあるのが、決して素敵なドラマなどではなくてよかったと思う。けれども、どんなにくだらないうそ話でも、一つしかない現実に比べれば自由に満ちているのかもしれない。彼らは逃げたかったのではないか。一つの逃げ場もない現実から逃げ出すために、偶然見つけた居場所が、このまな板の上だったのではないだろうか。

(くだらない)

 くだらない。私の声は、さっきよりもずっと小さくなっていた。みんな幻想だ。白く、ささやかな調理器具の上に、浮き上がった。

 私は何も描けやしない。葱を切ることの他に、一つのレシピさえも。



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