第10話 海からひっそりと

 マリアが落ち着くのをまって紅青はゆっくりと距離をとった。消毒をしなければならないなと考えていることはおくびにも出さない。「事情は分かりました、ミズ。整形というのは逃げ回るためなのですね?」

「すみません、お見苦しいところを」マリアがハンカチを取り出して目元を拭う。「仕事で飛び回っていたこともあり、幸いにも様々な国で友人に恵まれました。その、彼らを頼って定期的に顔や体型を……」

「体型まで?」

「はい。腕や足の骨を削って身長を縮めたり、逆に樹脂を入れて伸ばしたり、と」


 マリアが肘から先を曲げ、伸ばす。動きに不自然なところは見られない。


「整形と言うよりは、まるで工事ですね」紅青が思わず眉をひそめる。「ジェフからはそう長くない日程だと伺っているのですが、手術して傷が塞がるまで入院となると、快復まで数週間はみておく必要があるのでは?」

「それに関してはご心配には及びません。あくまで若返りは副作用でして、この遺伝子改造が元々目標としていた効果自体は正常に表れているのです」

「もしかして、切られた腕がまた生えてくる?」

 マリアが苦笑する。「自分で試したことが事がないので断言は出来ませんが、理論上は。そのせいか傷の治りが早く、裂傷程度であれば縫ってさえしまえば数時間で完全に塞がります。全身の整形でも今までの経験からいけば一両日中には自由に動けるようになるはずです」


 紅青は間抜け面で溜息をついた。狼男も大概馬鹿げた話だと思っていたが、世の中は想像を遥かに超えておぞましく変化し続けている。


「となると、残りは貴女の残骸の問題ですか」


 彼女の僅かな血液を巡って争いが起こったのだから、それに加えて体組織ともなればなおさらだった。


「手術では当然血が出ますし、肉も──今の話では骨も削ることになるわけで。これらはどうされるのです?」


 紅青の疑問に、マリアは今までになくきっぱりと言った。


「友人に委ねます。処理をするのか、それとも研究に使うのかは様々ですが」

「つまり相手方も事情は承知の上だということですね? ドクターの希望としては、どちらなのです?」

「研究です。この体について理解が深まれば、現状を打破する糸口になるのではないか、と」

「なるほど。こう言っては失礼でしょうが、ご友人が手術で採取したベクターを貴女の望まない使い方をすると考えたことはないのですか? 例えばおおっぴらに公開したり、金儲けであったりと」

 マリアが唇を引き結んで目元を震わせる。「あります……それこそ何度も。ですが、彼らにならば、裏切られたとしても受け入れることができる、と、思います。それほどの恩がある方々です」

「覚悟がおありだと」

 マリアが頷こうとして──表情を強張らせた。俯いて頭を振る。「いえ、やはり私は自分の身が可愛いだけなのです。彼らであれば悪いようにはしないと、浅ましく考えている」

「正直ですね。ちなみに、発現した2割のうちの残りの方はどうされているのです? 連絡を取り合っているのですか?」

「私を除いて全員が亡くなりました。崇高な決意でもって自害をした方もいらっしゃれば、一緒に研究所を脱出しようとして警備に射殺された方もいました。そんな中で私だけがのうのうと生きていて、逃げ惑っている。無様な卑怯者だとお思いでしょう」

「ええ、多少は」紅青は口元を歪めた。「ですがまあ、お気になさらず。誰しも完全無欠とはいきませんし、それに卑怯具合で言ったら私のほうがよっぽど酷いわけですからね。なにしろ、意図して何人も殺しておきながら法に裁かれるのが嫌で出奔してきたわけでして」


 目を丸くするマリアに微笑んで、紅青は手をひとつ叩いた


「聞きたい事は以上です。話し難いこともあったでしょうに、答えていただき感謝します。申し訳ないとは思ったのですが、なにぶん仕事には納得ずくで挑みたいものでして」


 マリアが訳知り顔で頷いた。何しろ戦地で医者をやるような気骨のある人物──いまでこそこんな怯えきってやつれたなりをしているが、元々は我が強い人物なのだろうということは想像に難くなかった。他人との衝突を繰り返してきたに違いない。


「では話を戻しますか。前回はどうやって日本へ?」

「実は、この体になってからは初めてなのです。長期間他の方と接触するのはまずいと思い、今までは飛行機を多用していました」マリアがサマードレスの袖を捲くり上げて白い腕をさらす。「先ほども言ったとおり体には金属は入っていませんので空港のセンサーに引っかかったことはありません」

「つまり、必ずしも飛行機でなければならないということはないのですね?」紅青が念を押すように訊いた。

「はい。空路では何か不都合が? 日本の空港はセキュリティが特別に厳しいのでしょうか? 特にそうは見えなかったのですが」

 紅青がばつの悪そうな顔で両手を上げる。「ああ、いえ、こちらの問題です。私が過去に関わった事件は内々で処理されていますし、実を言うと顔も変えていますので、恐らくは大丈夫だと思うのですが……今の話を聞いて、備えておくに越したことはないと思い直しまして。なにせ、世の中がひっくり返るかもしれないわけでしょう?」

「全てお任せします」マリアが頷いた。「ジェフからは信頼のおける人物だと伺っています。私にはそれで十分です」


 謙遜の言葉を喉の奥に仕舞いこんで頭の中で日本までのルートを引いた。人の目につかずに入国する手段は多くない。


「では、海からこっそり行きますか。飛行機でタイを経由して挑戦半島まで飛んで、そこから高速艇を使って日本の沖まで行きましょう。そこで漁船に拾ってもらいます。なに、ご心配なく。実は仕事で密入国の手引きをやっていたことがありまして、一度も失敗した事がなくて評判だったんですよ」

「その、貴重な経験になりそうです」


 難しい顔で言葉を濁したマリアに、紅青は歯を見せて片目をつむった。


「どうかご勘弁を。その代わりではないですが、国内に入ってさえしまえば不便をおかけすることはないと思います。この手の事情に通じた人間がいるので、何かあれば彼に色々と骨を折ってもらうつもりです」


 得体のしれない人物の出現にマリアの表情が僅かに翳った。紅青はその不安を和らげるように低く笑った。


「いわゆる友人というやつですよ。貴女ほど多くはないでしょうが、一応は私にもいましてね、そういうものが。確か、今は警備会社なんぞをやっているはずです」

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