第9話 崩壊のトリガー

「それでは少しばかり失礼な質問をしますが、どうかお気を悪くしないでください」


 気を取り直すように紅青が言うと、マリアが体を強張らせて唇を引き結んだ。


「今しがたハイスクールとおっしゃいましたね? つまり、貴女はジェフと同年代?」

「はい」

「私の知る限り、彼はもう50を超えているはずですが──貴女はとてもそうは見えません。まるで少女のようですよ」お世辞ではなく本心からだ。「つまり、30歳というのは欺瞞情報というわけですか。まさか、整形は美容のためということですか?」


 マリアがかぶりをふった。身に纏った陰がいっそう濃くなったように見える。


「少し前までは私も年齢相応の外見をしていました。このような姿になってしまったのは、とある事故が原因なのです」

「事故ですか」

「人体の欠損部位の再建を目的としたプロジェクトにおける実験中のことでした」


 いわゆる再生医療──当然、耳にしたことはある。ただし、さほど目新しい技術でもなかったと記憶している。紅青が頷いたのを見てマリアは続ける。


「形成外科により外見を整えたり、腕の切断面にバイオドーム──特殊な器具をつけて、数年をかけて再び生やすといったものですね。私の携わったその研究は、遺伝子の組み換えを用いて人間の自然治癒能力を向上させることでそれを行おうとしていました。大掛かりな手術や設備を用いずとも、失われた部位がひとりでに元に戻るようにならないか、と」


 紅青はトカゲのしっぽをイメージした。千切れた腕や足がまたひとりでに生えてくるようになる──夢のある話だ。「その結果が若返りなのですか? ああ……事故ということは副産物ですか。まあ、いささか目的とは違ったのかもしれませんが、怪我の功名どころか世紀の大発見ではないですか。人類の悲願と言ってもいい。その、若返るのは見た目だけの話ですか?」

 マリアが俯いて力なく首を振った。「体が軽くなったことが実感できます。細胞のデータを取得したのですが、本当に若返っているようです」


 その話が本当なら、新しい技術であるため慎重に術後の経過を観察する必要があるとしても、目の色を変える人間は枚挙に暇がないはずだ。例えば、老衰で今にもくたばりそうな爺さん婆さん。金に糸目をつけないだろう。だというのに、彼女の顔は浮かない。


「若返りはいつまでもつのですか?」紅青が言った。

「分かりません。なにしろ、数年前に起こった話ですので。ただ、すぐに元通りということもないようです」


 マリアが両手を広げて自分の体を見下ろした。


「何かしらの副作用が?」

「適合しなかった場合は、そうです。免疫機能の著しい低下や細胞の癌化、崩壊といった事例が確認されています。成功した場合についてですが、少なくとも私自身には今のところ目だった弊害はありません」

「適合する、しないの割合は?」

「ケース数が少ないためはっきりとは言えませんが……これが発現したのは私を含めて2割、といったところでした」


 2割──それを多いと取るか少ないと取るかは人に、状況に因るだろう。8割の確率で取り返しがつかなくなるのであれば、いまとりあえずの健康があれば、博打に踏み切ろうとは思わないくらいの確率。ただ、見方を変えるとこの数値が恐ろしいものあることが分かる。


 人類を2対8の選ばれし者とそうでなかった者に分類するのだ。とびきりの火種になる。


「なるほど、こいつは確かに大事ですね。その、いま貴女に起きている変化が永続的なものだった場合、ですが。再現性のほどはどうなのですか? 莫大な費用や専門の施設が必要になるといったことは?」

「一番の問題はそこなのです」これまでにないほどのマリアの強い口調。軽い悲鳴のようでもあった。「ベクターについてはご存知でしょうか?」

「遺伝子工学での意味合いですか? ええ、一応は」


 ベクター。遺伝子の運び屋。対象に導入したい遺伝子を組み込まれたウイルス、あるいは細菌のことをいう。ウイルスの元々持っている細胞への侵入機構を利用──それらを人体に直接投与することで望む変化を起こすという遺伝子操作の手法がある。


「ベクターを用いない遺伝子操作の方法も多いのですが、それらに比べてベクターを使った場合は導入効率で勝ります。負の電荷をもつDNAを正電荷で取り囲み細胞の貪食作用によって取り込ませるリポフェクション法、極細のガラス針で直接細胞内に遺伝子を導入するマイクロインジェクション法、どちらも患者から一旦細胞を取り出して遺伝子を組み換え、培養したのちに人体へ戻しますが、ベクターは人体への直接の投与を想定しています」

 紅青が口を挟む。「確か、そのウイルスは安全のために自己増殖ができないようにしてあるんですよね? 特定の人物、それから部位にだけ効果が現れるように」

「理論上はそのはずでした。しかし、投与後に再び増殖性を取り戻すといったケースも皆無ではないのです。そもそも、あのベクターはまだ人体への導入予定すらなかったのですが、動物実験で使用したマウスを経由して──」


 汗が吹き出て、紅青の背筋が凍えた。組んだ腕に力がこもる。


「ちょっと、待ってください。もしかしてそれは感染するのですか?」

「幸いにも感染力は強くありません。空気はもちろんのこと、飛沫感染も無いと断言できます。単純な接触でも同様です」マリアが早口でまくし立てた。まるで言い訳をするように。「ただ……一定量の血液に触れるか取り込むかした場合は……」


 思わず腰が砕けそうになった──背中に壁でよかった。火種などという生易しいものではない。爆弾。とびきりの。核爆弾だ。


 遺伝子改造による能動的な進化こそ、これからの人類が歩むべき道だと声高に主張するラディカリストが存在する。もちろんのこと少数派だが、例えばもし、奴らがミズ・マリアの体液を手に入れたとしたらどうなるか。

 自分たちで試すだろう。そして成功した2割が自分の体内で培養し、さらにばら撒く。テロ──それからパンデミック。世界が一変する。


「いまさらこういうことを言うのはやや気が咎めるのですが、もはや個人の手に負えるものではないのでは?」紅青が言った。

「私もそう思い、一度は国家の庇護のもとで研究を行っていました。このベクターを正しく活用できるようにと」マリアがサマードレスの裾を握り締めて戦慄く。「厳重に警備された研究所で、思想や経歴に問題のない職員が揃っていたはずなのです。ところが、すぐに私の血液の窃盗事件が起きました。それも、立て続けに4度も。就寝中に忍び込まれて殺されそうになったこともあります。生きていてはいけない存在だと言われました。資産も権力も持った人間が若返りのベクターの話を聞きつけて秘密裏に交渉を持ちかけてきたこともありますが、そのルートはなんと警護のSPでした」


 むべなるかな。いくら清廉な目標、目的を持って作られたところで組織を構成しているのはひとりひとりの人間であり、生き死には個人の究極的な問題とも言える。紅青は行動に移した彼らのことを批難する気にはなれなかった。


 マリアが不健康な顔を両手で覆った。引きつり、泣きじゃくる。「本当にみっともない話ですが、私はまだ……しっ、死にたくないのです。この部屋を燃やして、何もかも焼き尽くしてしまうことが世の中にとって一番の選択肢だと分かっています。ですが──」


 紅青はよろけて膝から崩れ落ちそうになったマリアに駆け寄ってその体を支えた。彼女の顔色、まるで依存症の患者のような姿の理由はこれ以上ないほど明白だった。


 紅青は考える。何も聞かなかったことにして姿をくらますことはできるだろうか。


 もし自分が見捨てたせいで彼女がしくじって囚われの身になったとする。そこで自分の名前が出たとしたら。なし崩し的に巻き込まれるに決まっている。運が良かろうが悪かろうが行きつく先は口封じだ。裏切りを知ったジェフが報復に紅青の名前をリークする可能性もある。むしろ、そちらの方がおおいに有り得た。


 この部屋に鏡がなくてよかった。報酬に釣られ、好奇心がどうのこうのと地雷原に突っ込んだ大間抜けの面を殴って拳を痛めるところだった。

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