第8話 獣
ジェフから手渡されたメモ用紙を片手にハンドルを左へ切る。膝の上に広げた地図と見比べてミズ・マリアの滞在先まで。
紅青は電源の入っていない車載のカーナビをちらりと見て苦笑した。この時代に随分とアナログなことをやっている。だが、紙で渡されたということはそういうことだ。証拠を残しておくな──カーナビのログなどもってのほか。車は会社からの借り物だが、移動前する前にGPSどころかドライブレコーダーまで外した。
昼飯の生ハムとチーズを挟んだバゲットに被りつきながら紅青は周りの景色に目をやった。車は郊外にむけて進んでいる。人の影は減り、入れ替わりに生い茂る木々が視界を占領していく。市街地から外れた位置に存在する森林。恐らくは植林だろうが、あまり手入れはされてないようだった。枝葉は伸びるままになっている。
住所に間違いはない。ミズ・ソトはよほど人の目が嫌いだとみえる。
建物が見えた──観光客は見向きもしないだろうペンキのはげた平屋の安ホテル。バックパッカー向けだ。
駐車場などといった気のきいたものは見当たらない。道路脇の砂利に車を止めて飲み物の入ったプラスチックのカップを片手に外へ。ジェフから貰ったメモ用紙をちぎって口の中へ放り込み、バゲットの残りをかっ込んで、カフェオレで何もかもを胃の中へ流し込んだ。
風で吹き流しのように暴れるネクタイを上着の内ポケットへ入れ、小さなホテルのまわりを一周する。人の気配はほとんどない。もしかするとだが──貸切っているのかもしれない。
4号室の前へ。紅青が通りかかった際、カーテンの裏で誰かが動いた気配があった部屋。
軽いノックをして営業用の声で囁いた。「もしもし、ミズ・ソトでしょうか? 私、アーネスト社の黄緑紅青と申します。肩書きは一応、同社の技術指導部門のインストラクターということになっておりまして、あとはまあ、物資運搬の管理などもたまに。ここには私だけです。開けていただけないでしょうか?」
壁に手をついて、植物にでもなったつもりで気長に待つ。そうして自分からは踏み入らないことをアピールする。怯える獲物は追跡者の気配に殊のほか敏感だ。相手から近づいてもらう方が手っ取り早い。
カフェオレの氷が溶けきり、蒸発して水かさが目減りするくらいの時間が経ってからようやく鍵の開く音した。ノブが回り、僅かに開いた隙間の奥、ちらりと見えるドアガードの向こうから細い声。「……証拠を、見せてもらえないでしょうか」
紅青は思わず面食らった。久しぶりに聞いた日本語──もしかすると長らく使っていない自分より達者かもしれない。「証拠? 証拠ですか。いちおう、名刺なら持ち歩いてますが」
「手を、見せていただけますか?」
「なるほど」
紅青はスーツの上を脱いですぐそばの植え込みに引っかけ、ベルトにつけた革のホルダーの中からアンプルと注射器を取り出した。注射針の先端をアンプルに突っ込んでシリンジ内に薬液を吸い上げ、十分に空気を抜いてから右手の甲と手首付近に皮下注射を行う。
「少し失礼しますよ」紅青はドアの隙間から部屋の中に手を突っ込んだ。
すぐに変化が始まる。
右手が倍ほども膨れ上がり、ぎちぎちと音をたてて爪が伸びる。皮膚の下からは黒い体毛が急速に生え出て手首から先をびっしりと覆った。
獣の手。フォルムこそ人間のものに近いが、その見てくれから受ける凶悪な印象は明らかに肉食の猛獣のそれだ。
「ありがとうございます」ミズ・ソトが安堵の吐息混じりに言った。
「お安い御用ですよ」獣の手をひらひらと振りながら、紅青は堪え切れずに思わず含み笑いを漏らした。
「何か?」
「いえ、実は私の国にちょうどこういう童話があったものでして、つい」
「存じています。ごんぎつね、だったでしょうか?」
「惜しい。まあ作者が同じなので実質正解ということにしておきましょう。それにしてもずいぶんとお詳しいようですが、日本に滞在した事が?」
紅青が手を引っ込めると、部屋のドアが一旦閉められた。レバーが外されて再び開く。
「はい、何度も。どうぞお入りください」
歓迎の言葉とは裏腹に、両手を広げて招き入れるどころかドアは少しだけしか開かなかった。いったい中には何が待ちうけているのか期待しながら部屋の中へ滑り込む。
中は、外観から想像していたよりも狭かった。部屋にはベッドと机がひとつずつ。どこにでもありそうなホテルの一室だったが、床が書籍の山と、書類の束で埋め尽くされていて足の踏み場のない。
「すみません、すぐに片付けます」サマードレスを着た少女が、申し訳無さそうに散らばった資料をかき集める。
少女──少女だ。30ですらない。どう高く見積もっても20台の前半にしか見えない。顔だけではなく露出した手足の方へと視線を移したが、こちらも肌が若い。
内心の驚愕を笑顔で包み隠して紅青は尋ねた。「これは、一体何をやっていらしたんですか? 随分熱中されているように見受けられますが」
山積みになった部屋中の本のタイトルや書類の表題を流し見る。循環器病について。遺伝子学。外傷形成。硝酸塩が人体に及ぼす影響云々──途中で読むのを止めた。使われている言語も多彩で読めないものが多かった。
「論文です。その……気晴らしも兼ねて」
ミズ・ソトが気まずそうに服の裾を掴んだ。指の爪の先がぼろぼろになっている。噛み千切った跡だ。恐らくは自分で。紅青は安心させるためにゆっくり微笑んだ。
「論文ですか。それは凄い」その資料がネットではなく紙媒体──とことん痕跡を残したくないらしい。「大学中退でろくにレポートも書いたことのない私には縁遠い単語です」
部屋には明かりがなく、カーテンが閉め切られているのもあるのだろうが──それにしたって彼女の顔色はすこぶる悪いように思えた。碌に寝ていないのか目元にはくまがあり、それも相まって幽鬼が佇んでいるように思える。元が美形であるだけにホラー映画のワンシーンだ。
紅青は上半身を後ろにやって、彼女と距離をとるようにドアに背中をあずけた。
「ジェフからはボディーガードとだけ伺っています。詳しい話は貴女から、と。色々とお聞かせいただいても?」
ミズ・ソトは小さく頷いて資料の散乱するベッドに腰を下ろした。「まずは何から話しましょう?」
「とりあえずは仕事の話ですね。ミズ・ソト、日本へは整形とのことですが、希望のルートはありますか? それとも、もうお決めになられていたり? 空? それとも海? まさかの陸路?」
「理由を聞かないのでしょうか?」
紅青は首をすくめた。「聞きたいですね、もちろん。こう見えて人一倍出歯亀根性が強いもので。ですが、気が向いたらで構いませんよ」
ミズ・ソトは力なく首を振った。「いえ、お話します。私に関わるいじょう、貴方には全ての事情を伝えておかなければフェアではありません。それと、マリアで結構です」
「了解しました、ミズ・マリア。それでは最初の質問ですが、うちのジェフ・ウォーカーとはどういったご関係で? いえね、ぽんと数十万ドルを払うものですから、どうにも気になってしまって」
思わぬ質問だったのか、マリアが目を丸くした。紅青がにやりと笑うと、彼女は僅かに相好を崩した。
「ハイスクールで同じクラスでした。卒業してからは長いこと連絡をとっていなかったのですが、その、ふとした折に再会をして、それからは、たまに。その頃の私はNGOとして戦地で医療活動をしていて、彼は軍人で……」
「ははあ、なるほど」
まったくいい歳をして純情な親爺だ。初めからそう言えばいいものを。
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