第7話 アーネスト社にて
スチールのドア。味気ない銀色のノブ。
伸ばしかけた手を引っ込め、廊下に他にだれも通りかかっていないことを確認して黄緑紅青はスーツの襟を引っ張った。
白いシャツの襟元を正して明るい色のネクタイを軽く締め直し、シルバーフレームの伊達眼鏡を指で押し上げながら髪を整える。身だしなみに気を使うのは悪い事ではない。なにしろ、これから会うのは自分の給料を払ってくれている人物だ。
久しぶりの文明人気分を味わった紅青は今度こそドアを開けた。廊下とアーネスト社パートナーの執務室を隔てる秘書室は、明るいベージュの髪の美人が叩くキーボードの音に支配されていた。そのうえ、PCのマイクに向かって仕事のスケジュールについてなにやら捲くしたてている。数ヶ月前に見たときにもこうやって多忙そうにしていた。
入室者に気付いたエミリーが片目を瞑った。紅青はピエロのように両手を振って執務室側のドアを指差す。エミリーは勝手に通ってくれとばかりに形のいい顎をそちらに向けた。
執務室へのドアは、秘書室のものとはうって変わって暖かな色合いをしたオーク材だ。黒ずんだ黄金色のノブの下にはドアノッカーまでついている。いい趣味だが、コンクリートのビル内ではこれだけ過去からやってきたような異物感がある。
二度のノック。「どうぞ。開いているよ」許可を得て中へ。
「失礼します」
スーツの前を開けた白人の大男が手に持った本を机の上に置いてにこやかに紅青を迎えた。白いものが混じったブロンドは短く刈り込まれ、眼光には強烈な意思が宿っている。年を食った鷹のようだ。
一見して40代にも見えるが、これでも50の半ばを過ぎていた筈だ。年齢に不相応の肉体は、退役するまで各地を駆け回った名残――とは大分酒の入った本人の弁だ。
「随分と久しぶりのような気がするな、コーセイ」
「まあ、数ヶ月ぶりですからね」
ジェフ・ウォーカーが差し出した手を握り返すと、ぐいと引っ張られて肩を叩かれた。
「帰国早々呼び出して済まないな。アフリカの様子はどうだった?」
「報告書の通りですよ」
「なに、感想程度でいい」
紅青はみっしりと勲章の詰まった壁の額に目をやって、つい先日までのことを思い返しながら口を開いた。
「稼ぎ場ですね。国境付近どころか部族の支配地の境目でもガンガン小競り合いをやっていますから、うちのスタッフは引っ張りだこですよ。私がダイヤモンドの鉱山で働いていたっていうのもあるんでしょうが、いやに太っ腹な印象がありますね。ただ、まあ、商売熱心と言うべきか、強欲な人間が多いので、武器の仲買をやるなら気を付けたほうがいいと思います。国際法がどうのこうのといちゃもんをつけて押収なんて日常茶飯事でしたよ」
アーネスト社は戦地やそれに近い地域での警備、兵站、訓練、要人の警護といったサービスを提供している。山ほどあるPMCの一社──ただひとつだけ特色を挙げるなら、遺伝子操作の方面に明るいという点だ。
現地で活動する社員にはキメラが多く、雇用の代金だけでなく運用のノウハウやその指導についても実に高く売れる。主戦場は東欧だったが、顧客の新規開拓のためにアフリカまで飛ばされ、ようやく戻ってこれたのがつい先日、というわけだった。
「君がそう言うならそうなんだろうな。まあ、まずはかけてくれ」
いま言ったことは先だって伝えてある。ジェフが目を通していないということはありえない。世間話は終わりということだろう。
紅青は言われるままソファに腰を落とした。帰国早々の呼び出しの時点で大体は想像がついている。様子見のジャブが終わり、これから本命が飛んでくる。フックか、ストレートか、アッパーか。
「コーセイは、確か日本人だったな?」
ジェフは何やらデスクの上の書類を険しい顔で眺めている。
「ええ、まあ。とはいっても、昔飛び出したっきりですがね」
紅青の向かいに座ったジェフが身を乗り出して小声で言った。「次は日本に飛んでもらいたいんだ」
紅青も真似をして声を潜める。「日本? 中国じゃなく? あそこは主に海と空でしょう、そっちは全然経験がありませんよ。内戦が起きてるなんて話も聞いたことはありませんし……ああ、民間の警備会社か警察にでも売り込みを?」
「いや、これは社用じゃなく、個人的な頼みだ」
まったく珍しい──紅青は目を丸くしておどけてみせた。
「いったい、どういう話なんです?」
「かなり特殊な事情だ」
「かなり?」
「かなり。正直なところ、急な話で少し立て込んでいる」
「危険な話ですか?」
ジェフは足し算の出来ない学生を目の当たりにした大学教授のように大口を開けた。
「いまさら何を言う。うちは何の会社だ? 危険ではない仕事を今まで振ったことがあるか?」
「まあ、そうなんですがね。言いなおします。合法ですか? 違法ですか?」
いらぬ心配だとばかりにジェフが手を振る。
「ボディーガードだよ。誰はばかることない立派な仕事だろう? 移動も飛行機一本で十分だ。もちろん、公共機関の」
「それで?」紅青は続きを促した。
「頼みたいのは、とある人物の護衛兼付き添いだ。行き先はさっき言ったように日本。現地での滞在期間は未定だが、そう長くはかからないはずだ。そして、クライアントと共に無事帰還する。君からすればある意味いつも通りではあるわけだ」
無事に帰還──まるで一波乱ありそうな言い方だ。
「まさか、犯罪者でも運ぶんですか?」
半分冗談のつもりだったが、ジェフは何も言わず微笑を浮かべた。紅青も曖昧に笑った。
「帰りたくなってきましたよ」
「まあ慌てるな。彼女はれっきとした医者だ。免許も持っている。もちろんビザもだ。思想的に剣呑なものに染まっているわけではないし、カルトを信仰してもいない」
そう発言したきり、ジェフは紅青を見据えたまま口をつぐんだ。二人の間に睨み合いにも似た沈黙が流れる。
これから先を聞くなら、受けたと見なされる。紅青は面倒な話を天秤の片側に乗せた。もう片方には、今の給与と待遇、それから僅かばかりの恩義。裏街道から引き上げてもらったことには感謝をしている。
「その”彼女”は、日本に何をしに? 医者ってことですが、国外から招聘されるほどの凄腕なんですか?」
ジェフは読んでいた資料を紅青に渡した。
「本業は研究職だがな。だが、外科の手術にも長けている。腕前で言うなら彼女のそれはまさに神業だ。しかもそれを鼻にかけることなく謙虚で誠実な人柄をしている。知る人ぞ知るといった女性で、金持ちの年寄りにはファンも多い。今回はそれとはまったくの別件で、日本へは整形をしにいく」
資料に目を落とすと、クライアントの名はマリア・ソトと記してあった。
ヨーロッパで生まれ育ち、大学の医学部を卒業した後に外科医になっている。数年前に勤務していた病院を辞め、生まれ故郷で診療所を個人経営しているとあった。
ざっと見る限り経歴に怪しいところはなかったが、30と書かれた年齢の欄で紅青の目が止まった。
若すぎる。世界に名が轟くゴッドハンドには少々マッチしない。医者の世界については知らないが、まだまだ若造の部類であるはずだ。
「10万払おう」ジェフが紅青の背中を押す。「もちろんドルだ。半分は前金で、残り半分は仕事が完了してからになる」
「いやに太っ腹ですね」ジェフが高級取りであることなど百も承知しているが、それでもぽんと他人にくれてやれる金額ではない。「依頼人からはどれくらいふんだくったんです?」
「ボランティアだよ。私から申し出たんだ。彼女の近況を偶然知る機会があってね」
「まさか、会社の金をちょろまかすつもりですか?」
「滅多な事を言うな。私費に決まっている」
「余計に怪しく感じてきましたよ」
ジェフは顎を撫でて大きく息を吐いた。ブラウスを捲くり上げて腹をさらす。そこには蜘蛛の巣のように広がる大きな傷跡があった。
「この通り、私には彼女に返しきれない借りがある。よくもまああんな碌な設備もないところでこれだけの手術が出来たと今でも思う」
ジェフ自身がそのファンのひとりだったというわけだ。紅青は腕を組んで天井を仰ぎ、いかにも悩んでいるという素振りを見せる。そうまでして恩を返したいのか、それとも何か落とし穴があるのか。
そういう小賢しい駆け引きとは別に、紅青は少しだけこの話に興味が沸いていた。もちろん、その女医に対してだ。軽率だと本能が自戒する反面、好奇心は生きる糧だと理性が囁く。
「人員はどれくらい使ってもいいんです?」紅青が尋ねる。
「君ひとりでやってもらいたい。この件にはできるだけ他の人間を関わらせたくない」
紅青が思わずうめいた。「それはまた随分無茶な話ですね?」
「詳しい話はここではできない。とにかく、会えば分かる。事情は彼女に聞いてほしい」ジェフの声は懇願に近かった。
「30万ドル。前金の割合はさっきと同じで」
ジェフがにんまり笑って立ち上がった。執務机に戻って小切手に躊躇うことなく言われた通りの金額を記入する。
手渡された紙切れを眺め、紅青はもっと吹っかけるべきだったかと後悔した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます