第6話 将来の展望について

「デモの最中に乱闘騒ぎだってさ」


 葵が眉をひそめてノートに落としていた視線を上げた。隣に座った秋が、操作していた私物のタブレットの画面をこちらに向ける。


 液晶にはニュースサイトが映っている。遺伝子操作に関する規制法案の緩和を訴える集会についての報道。


 記事の続きは剣呑だった。集会にひとりの男が飛び込み、演説をしていた男性に罵声を浴びせると、胸倉を掴み上げてあわや殴りあいまで発展するところだったと書いてある。


 警察の事情聴取によれば、男がそのような行動をとった理由は医療事故が原因らしい。先天性の病気の治療のために医者から薦められた遺伝子操作で、妻と、そのお腹の中の子供を同時に亡くしたことが動機だったと語ったそうだ。


 医療目的の遺伝子のカスタマイズが民間に開放されてから数十年は経つ。しかし、技術の水準が上がっても、こういった人為的な事故はどうやってもゼロにはならない。


 避けられない不幸。だからこそありふれてもいる。葵は秋から借りたノートに視線を戻した。マウスを操作して目の前のPCに表示された参考書のページをめくる。


 二人がいるのは図書室にある個室のひとつだった。他と同じく、この施設もやたらと大きい。長机ではなく防音の個室が並んでおり、生徒はそこに備え付けられたPCを使って学内に設置されたサーバ上のデータベースにアクセス、そこにアーカイブされた各種の教本を電子書籍として閲覧する。


 それでも紙の需要自体は無くなっていない。図書室の三分の一はそれら蔵書の保管庫も兼ねていて、申請すれば借用が可能になっている。葵としても、電子書籍よりは紙派だった。確かに電子版ならではの利便性はある。嵩張らず、全文検索も便利だ。だが、紙にはレスポンスの速さという利点がある。

 マウスやタッチパネルでちまちまとページを送るよりも、紙をぱらぱらとめくった方がストレスが無い。手続きが面倒であるためこうやってPCを使っているが、ノートも然りだ。


「進路に関して色々調べるんじゃなかったの?」葵が尋ねた。

「その最中だったんだけど、SNSのタイムラインに流れてきたから」

「よくある話だと思うんだけど」


 秋がもう一度こちらにタブレットを向けて、わざわざ口に出した理由を説明する。


「場所が近くだから」


 記事を再び、今度は注意深く読む。確かに最寄の──青海駅だと書いてある。緩和を求める団体の名称にも覚えがあった。「あんまり行儀のいい人たちじゃないし、帰りは気を付けたほうがいいかもね。確か使ってたでしょ、ここ」


 秋がへえ、と目を丸くした。


「詳しいんだ?」

「まあ、叩き込まれたというか」葵が勉強に戻る。秋から借りたノートはようやく半分を写し終えたところだ。「立ち位置上、敏感にならざるを得ないからって」


 遺伝子操作に対する人々のスタンスは様々だ。大別すれば許容と拒絶だが、当然ながらそのラインは個々人で異なる。純粋に治療目的であれば許せるが美容やスポーツでの記録狙いでの肉体改造に使うのは許せない、仁術としてならともかく金儲けや軍事利用されることには忌避感を覚える、そもそも人体に人為的に手を加える事など論外──そういった具合に。無関心は、年々増え続ける遺伝子治療の実例を鑑みれば、潜在的な賛成派と見なせなくもない。


 葵のベースになった軍事利用に関しては、未だ反対の声が大きい。一番の原因は不祥事だ。


 キメラ化というエンハンスメントをされた人間は精神が変質する。肉体と精神は不可分──白髪の台詞だが、ある種の的は射ているらしかった。手術を受けて身体強化されたことにより大らかになる者もいれば、攻撃性が高まる人物もいる。


 特に顕著なのは感覚器官をブーストした場合で、聴覚や嗅覚の鋭敏化によって今まで気にならなかった音や臭いに悩まされ、ストレスから日常生活に支障をきたすケースが少なくない。

 そこから事件性のある問題に発展すれば遺伝子操作にその原因を求めることは至極当然であり、それが100のうちの1でしかなかったとしても、その手術は完全な失敗扱いを受ける。


 だからこそ四宮製薬は日向葵を保護し、メンテナンスを行っている。


 葵は手術による変質とは無縁だった。なにしろ、生まれたときからすでに強化されていた状態だったのだから。葵はドアの隙間から防音壁に囲まれたこの部屋の外の話し声を聞くことができるし、進路についての朗報をもたらしてから秋が澄ました表情の裏で実のところ浮き立っていることを察する事もできる。


 物心がついたときから既にそうだった。


 視覚、聴覚、嗅覚、筋肉、骨格全てが満遍なく強化された上で社会に溶け込めているというのは、企業からすれば格好の研究素材らしかった。愁の理論が正しいのであれば、肉体に相応しい精神が成長と共に形成されていったから──そういうことになるのだろう。


 このように懸念事項はあるが、それでも事は国防、ひいては国内の治安の問題であり、他国に技術で遅れをとるのは国家の安危にかかわる。法律の細かな改定や、解釈による抜け道の模索によって軍事利用の研究は進められていた。


 葵が娑婆で生活を送れているのはそれが理由だった。人倫に反するどころか保護の名目で人体実験が行えるとなれば、金を出さないという選択肢は無い。


「秋はさ、何で研究者になりたいの?」葵がなんとなしに聞いた。

 秋はタブレットでキメラ研究のレポートサイトを見ている。「聞きたいの?」

「言いたくないなら別にいいよ。話のついでに口に出してみただけだから」

「暇だから教えてあげる。私には弟がいるの。生まれつき足が不自由だったけど。主治医は神経管の異常だって言ってたわ。それで再建手術に遺伝子治療を選んだんだけど、それがものの見事に失敗。下半身がほとんどなくなって、介護がなければまともに生活できなくなった。恨まれたわ。なにしろ手術を受けようかどうか迷ってる弟に、手術の内容なんてさっぱり分からないくせに何も考えないで受けたらどうって私が言ったから。よくある話よね?」

「両親がとっくに死んでホームレス生活を強いられてる子供くらいには、まあ、そうかも」


 秋がはにかんだ。葵は喉を鳴らした。


「弟を治せるのは私だけだ──なんて思いあがったことはもちろん考えてないけど、できればどういう形であれ落とし前をつけたいとは思ってる。まずは、自分がどういうことをやったのかちゃんと知りたい」


 葵は何も言わず、目を伏せ、その意思と目的を尊重した。お互いに無言で自分のやらなければならないことに没頭する。


「そっちは何か夢とか無いの?」


 秋がそう言ったのは、出席できなかった授業のノートを写し終わり、その内容をなんとか理解できた気になって清清しい気分に浸っていたときだった。


「このままずっと屋根のあるところで過ごせたらいいなと思ってる」

「なにそれ」

「いや笑ってるけどね、結構きついんだって、野宿は」

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