第5話 回顧

 雨のにおいがする。


 目を覚まして体を起こした葵は最初に聞いたのは、木製のシングルベッドが軋む音だった。カーテンの隙間から見える空は灰色をしているが、まだ降ってはいないらしい。昨日まではからからの快晴だったが、ようやく六月らしくなってきた。


 喉をさすり、踏みつけられた猫のような呻き声を上げながら、ゆっくりと瞼を上げる。視界に映る薄汚れたタイルと、埃の積もった蛍光灯。いつ見ても汚れている見慣れた自室の天井。

 葵は首を回すついでにぐるりと周囲を見渡した。箪笥、冷蔵庫、PC、それと葵の寝ているベッド以外に家具のない殺風景な部屋。PDAに手を伸ばして現在時刻を確認。AM7:44。


 顔を洗って洗面所で歯を磨く。目の前の鏡に映っているのは、色素のウルフヘアの眠たげな目をした女だ。母親いわく、父親に似ているらしい。そのせいでよく物を投げつけられた。痛くも痒くもなかった。


 山本修一。元自衛官。自分の父親と目される男。白髪に聞かされるまで、その存在を知りもしなかった人物。


 自衛隊に試験的に導入されたキメラ手術の被施術者のひとりだったが、禁止条項であった異性との性的接触を行った結果、投獄された。頻繁に営舎を抜け出していたことを不審に思った同隊の人間が尾行したことによって発覚したらしい。その後は強制的なノックダウン処置の副作用で急死したとのことだった。


 関係を持った相手は長らく不明。葵が白髪に保護されるまで、発覚におよそ十五年かかったことになる。


 山本某が頑なに口をつぐんだ理由は単純明快、その女性──葵の母を強姦したからだ。恐らくは余罪が増える事を恐れてのことで、重無期刑──ともすれば死刑──を免れた後は緩い監視を受けながら娑婆で暮らすつもりだったに違いないと愁が語っていた。


 葵も異論は唱えなかった。長年、母の言動を目の当たりにしていたからだ。


 父について語るとき、そこには必ずといっていいほど怨嗟がまとわりついていた。家族にも友人にも相談することができず、回りに発覚したときにはすでに手遅れ、堕胎することができなくなっていた。

 不義の子。口をつぐんだ母に実家は勘当を言い渡したらしく、母はその後、過労による脳血管の疾患で死ぬまで、数年間を葵と二人で暮らした。


 うがいの後、洗面台に常備している栄養剤を兼ねた安定薬の錠剤を口の中に放り込み、バスタオルを掴んで着ていた物を全て洗濯機に投げ入れた。ユニットバスの水栓のレバーをシャワーに切り替える。


 熱い湯を頭から浴びて意識が覚醒してきた葵は、今日の授業についてあれこれ考えた。化学、物理、数学、英語。それから半分ほどしか課題に手をつけていないことに気付いて陰鬱な気分になり、学生というのは恐ろしく大変なのだなという思いを新たにした。


 母が死んだのも今日のような天気の日だった。狭苦しい1Kの部屋の玄関で倒れた母の姿。放射状に広がる黒髪。おかあさん、と体を揺すってもぴくりともしない。布団を敷き、靴を脱がせ、母を中まで抱え込んで横たえ、毛布をかけて学校へ行った。帰ってきたときには、母の体はすっかり冷たくなってしまっていた。


 どうしていいのか皆目検討のつかなかった葵は、次の日、学校の教室で担任に相談した。その時の先生の青ざめた顔は今でも鮮明に思い出すことができる。


 警察による死体の処理のあと、質問攻めにされた。父親について──不明。母の親族について──不明。母の仕事について──不明。何一つまともに答えることはできず、そのままなし崩し的に児童養護施設へと入れられることになったが、運の悪いことに、そこはお世辞にも良い環境とは言えなかった。外出の制限、厳格にスケジュール化された生活、外部への連絡禁止、体罰を伴う指導。


 葵はすぐに施設を飛び出し、それから三年以上も宿無しの生活を続けた。頻繁に利用したのはネカフェと映画館。とくに映画館は巡回の目を盗んで消灯後まで中に隠れ潜んでよく寝泊りをしたものだ。


 収入源は、窃盗と空き巣とスリ。その頃には、自分の体がどうやら普通とは違うようだと理解できるようになっていた。


 そういった生活のおかげで、葵は一般的な学力というものをほとんど備えていなかった。二年前に保護の名目で青海総合警備会社の所属となってから、自由な時間を全て小中学校で教える知識についての学習に費やしたことにより、ようやく年齢相応の学校へ通える程度になったが、それでもあくまで高校生としては最低限のレベルであり、よりによって編入したのが進学校並みの学力を必要とする高校であるため苦労はいまだ続いている。


 寝汗を流してシャワーの栓を捻る。バスタオルで乱雑に髪と体を拭いて箪笥の下着を物色していると、ベッドの脇に放り捨ててあったPDAが振動し始めた。画面も見ずに通話ボタンを押して頭と肩で挟む。


「もしもし?」

『おはよう』深山秋の涼やかな声。

「おはよう」

『もうすぐ着くけど、準備できてる?』


 会社から葵に貸し与えられたマンションの一室が通学途中にあるためか、毎日こうやって秋は電話をかけてくれる。目覚まし代わりになることも多々あった。


「できる。いま着替えてる」取り出した白のショーツ足を通し、揃いのブラに手を掛ける。「ああ、そうそう、昨日のやつ聞いといた」

『昨日?』

「進路のやつだけど」


 通話口の向こうから息の漏れる音──苦笑。


『見た目は、その……曲者なのに、素直よね、葵は』

「? そうなの?」

『お礼は言わなきゃね。ありがとう』


 通話の切られたPDAをベッドの上に放り投げ、葵はフローリングの上に無造作に横たえられたドライヤーとヘアブラシを掴んだ。

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