第4話 青海総合警備会社

 茹だるような暑さ。


 立ち読みしていた本屋から外へと足を踏み出した瞬間、強い日差しと熱気に不意打ちを食らった葵は、太陽から逃げるように大通りから脇道へと入った。


 建物の陰になった裏通りは涼しく、薄暗く、寂れていて、安心感がある。駅前にありがちな華やかな店やアミューズメントスポットは影も形もなく、看板の出ていない雑貨屋や古本屋、立て付けの悪そうな引き戸をした居酒屋などが並んでいる。


 体重の無い足取りでふらふらと北へ向かって歩く。やがて見えてきたのは、全体的に薄暗い建物の中にあって、場違いなほどに白い雑居ビルだ。清掃業者と契約しているため中も清潔感がある。


 葵は鞄からカードを取り出して自動ドアの横のリーダーに挿し込む。曇りガラスの自動ドアを抜けてすぐ脇にあるエレベーターを使って5階まで上がる。建物の中は冷房が効いており、ここに来るまでにかいた汗は既に乾いていた。


 目的の突き当たりの部屋にはこれといって目印になるようなものがなく、外からでは単なるビルの一室にしか見えない。警備の名を冠するにははなはだ心もとない門構えだったが、名前だけの偽物には、確かにこの程度が似つかわしくはあった。


 青海総合警備会社。名前に反して実際は警備業務など行っていない。四宮製薬の製品テストを行うための被験者を管理するために作られたダミー会社だった。


「どうも」


 ドアを開けて挨拶をする。会議室を思わせる長方形のテーブルの向こうにあるソファーに座った愁が、振り返りもせずに、よう、と簡単に返した。


 普段は本を読むかPCを弄っている白髪男が、珍しく備品のテレビでゲームをしていた。遊んでいるのは対戦ゲームのようで、隣に座った白衣姿の小柄な女性と勝負の最中らしかった。


「お邪魔してるよー」


 女性──伊住優侘佳も画面に目を向けたまま間延びした声を上げる。ただし手元はせわしなく動いていた。

 2人がやっているのは、いわゆる落ち物のパズルゲーム──グラフィックがやや古めかしい。ワゴンセールにでもあった一昔前のもの。


 見る限り、愁も下手ではなかったが、それ以上に優侘佳がこの手のものに慣れているのが明らかだった。ゲームは終始優侘佳の優勢で進み、すぐに決着もついた。


「クソゲーだな」愁がソファの上にコントローラーを放った。

「100円にしては遊べたね」


 振り返った優侘佳が改めておかえりと言った。


「検査ですよね?」

「うん。さくっと済ませるから、腕を出して」優侘佳がソファの脇に置いてあったバッグから注射、試験管、その他にも採血に必要な道具を手早く取り出す。「何か体の調子が悪いとか、逆に良すぎるとか、変わったところはない?」

「いえ、これといって」


 葵がブラウスの袖を捲くり上げて腕を突き出す。脱脂綿で消毒、ゴムで縛られて浮き上がった血管に注射針がつき刺される。採血管2本分を抜き終わった優侘佳が、はい終わりと針を抜いて絆創膏を貼った。


「私のノックダウン処置って、いつごろできそうなんですか?」葵が訊ねる。


 ノックダウン。特定の遺伝子の機能の発現の抑制──すなわち、キメラ化された遺伝子をノーマルに近づける処置。ベクターと呼ばれるDNAの運搬者を体内に導入し、特定の遺伝子の発現を抑止することで実現される。つまりは遺伝子操作の一種であり、改造されたものを再改造で元に戻ったように見せる技術。


 優侘佳は気を持たせるようなことはせず、きっぱりと言った。


「全然目処が立ってないね」

「私の同型って製品化されてもう大分経つんですよね? キメラ化も、元に戻すのも実績があるって言ってませんでしたっけ」

「もちろんあるよ。でも、それはあくまで施術された本人の話であって、その子供まで同じように処置できるかなんていうのは、はっきり言って未知数。それに既存の技術だといっても一般的な病気の治療に使われるものじゃなくて余分な機能のカスタマイズにあたるわけだから、これはもうまったくエビデンスが足りてない。前にも言ったと思うけどね」

 葵は頷いた。「もちろん覚えてます」

「そんなにノーマルになりたい?」


 優侘佳の童顔が下から見上げる。170cmの葵より頭ひとつ分は小さい。


 なりたいかどうか──判断に困るところだった。なにしろ生まれたときからこうなのだから、キメラでない状態というのがうまく想像できない。肉体的な面でなら、不便なのだろうなとは思う。ノーマルは鍛えもせずに建築用の空洞ブロックを殴り壊すこともできないし、数針を縫うような傷が一日かそこらで塞がるようなことはないということも知っている。


「どうなんでしょうね。ただ、法的に制限がないのは楽そうだな、とは思います。監視されなくてもいいし、検査や調査で余分な時間をとられませんし」

「少なくとも昨日今日で飛躍的に解決に向かって進むような話ではないね」


 優侘佳が頭を下げる。葵は両手をゆらゆらと振った。


「ああ、別に気にしないでください。もののついでに言ってみただけですから。それより、ちょっと聞きたい事があるんですけど」

「私に? なに?」

「四宮製薬の研究職につくのって、難しいんです?」


 四宮は製薬や医療機器において国内外で高いシェアを誇る大企業であり、特に遺伝子操作技術の人体への応用においては草分け的存在でもあった。

 人体改造の製品化。治療、再生目的のみならず、当然のように軍事転用されており、機能を大幅に制限した上での民間利用が法的に許可されている。


 意表をつかれたのか優侘佳が目を丸くした。すぐにいやらしい笑みを浮かべて葵の背中を何度も叩く。


「えー、なに? 私の仕事に興味が出てきちゃった?」

「いえ、私じゃないんですけどね。まあ、ちょっと、頼まれて。やっぱり大学に行かなきゃダメなんですか? インターンとかは?」

「難しいかどうかだけど、はっきり言って難しいね。相当。これは誇張じゃなくて。私もここに就職できたの9割がたラッキーだったと思うし」

「さすがに言いすぎじゃないですか?」

「いやいやほんとに。もちろん努力は死ぬほどしたけどね。基本的には大学院卒で在学中に研究である程度の成果を出してて、博士号を持ってるのがベター。英語で論文が読み書きできるのは必須で、あとはまあ面接で、こう、使えますよっていうのをアピールかなあ」


 優侘佳が指折り数える。まったく想像のつかない世界だったが、聞いているだけでうんざりするような条件がちらほらあったせいで、とにかく難しいというのは分かった。


「インターンは……どうなんだろ。八凪くん知ってる?」

 ゲーム機を片付け終わった白髪が振り返った。「やってるはずだ。高校生も対象だった記憶がある。なんにしても本人のやる気次第だが、今のうちに顔を売っておくのは悪くないかもな。研究所側が覚えるかどうかなんぞ分からんが、やらないよりはいい。空気も掴めるだろう。察するに、それを頼んだのはお前と同じ学校の生徒なんだろう?」

「ええ、まあ」

「だったらそのうち話が行くはずだ。なにしろ四宮があの学校のスポンサーになったのは優秀な学生を吸い上げるためでもあるんだからな。友達か?」

「ええ……まあ」


 多分、と葵が小声で付け加えた。愁が顔をほころばせる。無性に腹の立つ顔だった。


「なんです?」

「おめでとうってことさ。今日は何か奢ってやる」愁がスーツの上着を椅子に引っ掛け、ネクタイを外す。「先にスパーリングだ」


 愁が壁の向こうを親指で示した。隣は家具もフローリングも無い、だだっ広いだけの空き部屋だ。


「今日もやるんです?」

「怪我してなけりゃ、毎日さ。お前を学校に通わせてるのと同じ理由だ。知識だろうが腕力だろうが、使えるものはきっちりものにしておいたほうがいい。俺たちの味方は想像よりずっと少ない。そのうち実感できる。さあ、行くぞ」

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