第3話 学校生活

 一時限目には間に合わず、二時限目の開始時間もとうに過ぎていたが、葵は上履きを鳴らして廊下を走っていた。通り過ぎる際に見かける教室は半数以上が無人で、マナーの悪さを見咎められるようなことはない。


 医療、製薬の大手企業である四宮が私物化のために資金を惜しげもなく入れているせいか、葵の通う私学は在校生の数に比して建物の規模が無駄とも思えるほど大きかった。1つ1つの教室はやけに広く、用途に応じて種類も豊富、しかも教員毎に個室が割り当てられているといった具合で、葵の記憶の中にある学校の校舎とは何から何まで違っていた。


 教室から教室への移動も難儀するような有様で、特に、今のように急いでいるときには心底うんざりさせられる。


 長い廊下の突き当たり、目的地の講堂にようやくたどり着いた葵はノブをゆっくりと回し、静かにドアを開けて中の様子を伺った。


 軽く100人は収容できそうなすり鉢状の講堂内、生徒は思い思いの場所にまばらに座っている。教壇では佐山教諭が薄い後頭部をさらしながらホワイトボードに数式を書き込んでいるところだった。


 葵は音を立てないように教室の後ろを回り、いつものように一番人が少ない場所を選んで座った。移動中、葵の姿と首から下げられた重度の遺伝子改造手術を受けたことを示すタグにそこかしこから視線が集まる。


 席について備え付けの端末の電源を入れている最中、少し前の席に知った顔があることに気付いた。椅子によりかかったり、必要以上に前かがみになったりと思い思いの楽な姿勢をとっている学生が多い中、伸びた背筋とそこから流れる黒髪が非常に目を引く。


 講堂の中央、ちょうど教壇の真上の壁掛け時計を確認する。授業が開始してからちょうど5分ほどだった。ぎりぎりで出席扱いになったはずだ。ただでさえ所用による欠席が多いため、これ以上の遅刻は進級に響く恐れがあった。そんなことになれば白髪に何を言われるか分かったものではない。


 出欠の確認は各人の所持する学生証に埋め込まれたICと入り口のセンサーによって自動で行われているため、改めて出席の旨を伝える必要は無い。また、センサーでは生体情報もスキャンしているため、代理出席の防止も兼ねていた。


 ディスプレイにログイン画面が表示される。学校より貸し与えられたIDとパスを入力し、自分の仮想デスクトップを呼び出した。授業用アプリを起動し、現在講義が行われている教科を選択する。ホワイトボード付近を映したカメラの画像とヘッドセットから流れてくる教師の声で、どの席にいようと授業を受けるのに差し支えはない。


 チャットソフトを起動し、学内で唯一の顔見知りにメッセージを送る。


 日向:おはよう。


 眼下の黒髪が一瞬だけPCを操作する手を止める。指を頬に当て、そして再びキーボードを叩く。


 深山:おはよう。今朝は検査?


 まさか警察へのデモンストレーションであると正直に答えるわけにもいかないため、葵は話に乗っかった。


 日向:そう。特に何事もなく終わった。1、2コマ目は何かあった?

 深山:課題が出た。34ページから38ページまでの日本語訳。後でノートを送信する。

 日向葵:ありがとう。


 簡単な会話を終え、チャットウィンドウをバックグラウンドへ。そのまま授業に集中した。数式を書き写し、設問に頭を悩ませる。なにしろ数年ぶりの学生生活、大きなブランクのせいでホワイトボードに書かれていることはほとんど理解不能だったが、新しい事を学ぶというのは思いのほか面白い。少なくとも、どうやって捕まらないように金銭を手に入れるのかに腐心するよりは、余程。




 昼休み、やはりここもだだっ広く空席の多い食堂の隅の方で日替わり定食の大盛りをひとり食べていた葵の前に、トレーを持った深山秋が無言で着席した。お互いに口を開こうとはせず、黙々と食事が進む。授業中と同様、秋の姿勢は非常にまっすぐで目を引く。


「それで、何か用?」


 相手が食べ終えるのを待って葵がいった。


「ううん。別に無いわ」


 会話が途切れる。いつものことだった。


「迷惑?」


 秋があらぬ方向を見ながら言った。鼻筋のラインが美しい。絵になる横顔だと思った。名前も、深山の秋と、いやに雅だ。


「いや、特には」

「じゃあ、構わないわけね?」


 内面と外見が大きく乖離した変わり者──それが秋に対する葵の印象だった。見た目は楚々として折り目正しいというのに行動は衝動的で向こう見ず。


 初めに会ったときも今のように鼻で木をくくったような態度だった。


 昨年の途中で編入された直後、大抵の生徒は──今でもそうだが──葵の首から下げたものを見て、誰もが距離をとった。医療目的外で遺伝子改良を行ったことを示すタグ。キメラであることを隠蔽しておけば発覚した時に大きな問題となるため、予め開示するよう厳命されての措置だった。


 すぐに噂は広まり、遠くからは囁き声が聞こえるようになった。違法な改造。保護観察対象者。感染するかもしれない。噂は尾ひれをつけて広がり、やがては近づいただけで涙目になる生徒すら出てくるようになった。


 そんな中で、深山秋は教員以外で日向葵に声をかけた唯一の人物だった。物怖じしない態度。はきはきとした声での自己紹介。無視をする理由のなかった葵は挨拶を返した。趣味を聞かれ、答え、社交辞令として同じ質問を返した。


 彼女のそれは勇気ある行動であり、浅慮な振舞いだった。


 自分と一緒にいるせいでかつての友人に避けられるようになったことを知った際、一度だけ自分には近づかない方がいいのではないかと口にしてみたことがあったが、彼女は素っ気無い口ぶりで迷惑かどうかを聞き返してきた。毎日助けられていることを正直に伝えると、その話題はここで終わりだとでも言わんばかりに彼女は先日見た映画について話し始めた。古い映画で、ソ連崩壊後の混乱に乗じて勢力を伸ばした武器商人の話。


 事実、小学校を半ばで辞め、中学には通ってすらいない葵にとって、高校はまったくの未知の世界であり、彼女の助けがなければもっと苦労させられただろうことは想像に難くなかった。進級に直接関係する取得単位の仕組みや、学校という特殊な閉鎖空間で守るべきマナー、それに加えて肝心の勉強についてのレクチャー。


「もう進路調査は出した?」

「出した」葵はPDAを操作しながらうなずいた。夕方に定期健診とカウンセリングにドクターが来訪すると連絡が入っていた。「そっちも?」

 秋が伏目がちに視線を外した。「まだ。ちょっと悩んでる」


 即断即決の人物にしては珍しい──と口にしかけ、思いとどまった。彼女の何を知っているというわけでもない。


「やりたいことが見つからないとか、そういう話?」

「それはもうある」きっぱりと秋がいった。ただ、と続ける。「経済的な面でね。ここはいいんだけど、大学とか、その後のことを考えるとなかなか踏ん切りがつかなくて」


 この学校はキメラを在学させる代わりにノーマルに対して優遇措置を取っている。主なところでは学費だ。この学園は私立でありながら学費が一般的な公立高校よりも安く、また潤沢な資金を使って教員や設備も質の高いものを取り揃えている。その反面、在校生の学力はそれに相応しいものを求めていた。


「ちなみに、聞いても差し支えない?」

「研究職。遺伝子関係の」


 ああ、と葵が呟いた。彼女が自分と親しくしてくれている理由について、付き合いを始めて数ヶ月経ってようやく理解できたからだ。


「四宮製薬への推薦や補助金を狙ってる?」

「できれば、紹介してもらえるとありがたいのだけれど」


 抜け抜けと秋が言った。葵は思わず喉を鳴らした。

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