28.腹ごしらえ
次の日。昂宗はまたも寝過ごしてしまった。予定では7時に起きるつもりだった。しかし、スマートフォンを見れば10時を過ぎている。いな穂が迎えに来てくれるのは11時過ぎだから、別に寝坊というわけではないけれど、普段早起きの昂宗は余裕のなさに少しだけ不安になる。ただ、昂宗は寝起きはかなりいい方だ。早速、朝の支度にとりかかる。
電気ケトルに水を汲んでスイッチを入れてから、台所で顔を洗う。それから思い出したかのようにトイレに行った。それから目玉焼きとソーセージと食パンを同時に焼きながらトマトとレタスを洗う。焼き上がりを待たずにポットが沸いたので、先にインスタントのカフェオレを作ってから、それぞれ盛り付けて卓袱台に座る。段取りの完璧な朝の準備に窮屈さを感じながらも、黙々と朝ごはんを食べた。
身支度——もちろんメガネもかけた——を済ませると、20分以上余ってしまった。妙にソワソワする。昂宗は、なぜか貧乏ゆすりが止まらなかった。早く誰かに会いたかった。いな穂の顔を見て落ち着きたかった。
気が付くとギターを抱えていた。うるさいので部屋では弾くことはできない。だから一心不乱にボディやネックを磨くことにした。すると、20分なんてあっという間だ。瞬く間に約束の時間がやってくる。スマホが光った。
《着いたよ! 玄関あけて!》
いな穂からだった。昂宗はギターを握ったまま玄関から飛び出した。
びっくりした。もちろんいな穂も昂宗の勢いにびっくりしただろうけれど、たぶん昂宗の方がびっくりしていた。
『あ、お、おはよー。あはは』
肩甲骨の辺りまで伸びていたはずの髪は、うなじが見えるくらいのショートになっていた。そして何より、頭がピンクゴールドに染まっていた——前髪を除いて。まん丸になった昂宗の目にまじまじと見られて、いな穂は恥ずかしそうに笑っている。
『まあ、なんていうか……気分上げていこっ! ……みたいな?』
そういっていな穂は拳をビシッと上に突き上げた。しかし、昂宗は変わらず口を開けて呆けたまま、うなずくことすらしなかった。やがて羞恥心に耐えられなくなったいな穂は黒い前髪を隠すように頭を抱えてうずくまった。
「あ、ごめんごめん!」
昂宗は謝りながらスマホを取り出して打ち込む。
『おはよう! すごく似合ってる。ちょっとびっくりして言葉が出なかったけれど、すごくいい』
昂宗もしゃがんでいな穂をなだめるように肩を叩く。ふと横を見ると隣の部屋のドアの陰に隠れながら浩二と聡音がニヤニヤしながら覗いていた。どうやら2人がいな穂の髪をカットして染めたらしい。昂宗の視線に気が付くと急いで玄関を閉めて部屋に隠れてしまった。
『取り合えず行こっか』
顔を上げたいな穂に、昂宗は手を差し出す。いな穂ははにかんで頷き、昂宗の手を取って立ち上がった。今日は大学祭の最終日。二人のライブ本番の日だ。
最終日だろうと野外ステージはフル稼働だった。午前中はミスコンに使われている。それがお昼前に終わると、今度はクイズ大会に使われる。それが14時に終わると、1時間後にはミュージックステージ開始だ。入念な打ち合わせをもとに、スタッフたちが神速で機材を整え、15時にはライブがはじまる。それから18時までの3時間、ひっきりなしにいろいろな人たちがステージに上り、自分たちの音楽をする。
パフォーマーはそれぞれのやり方で、自分の音楽をオーディエンスにぶつける。オーディエンスもそれを全力で受け止めて、「熱」に変えて投げ返す。時間の限り、それが何度もなんども繰り返される。昨日のミュージックステージを見て、昂宗は思った。ここはそういう場なのだ。
昂宗といな穂は河原でウォーミングアップを始めた。もちろんステージで当日リハーサルをする余裕なんてない。機材等の調整は、大学祭がはじまる前の打ち合わせとリハーサルで済ませた。今日ステージに立てるのは、ただの1度、本番のみだ。
14時半から最後確認のための全体ミーティングがある。2人はしっかりと身体を温めて、時間ギリギリまで調整を行ってから大学へ戻った。
全体ミーティングでは、ミュージックステージ担当部長の牧野が確認事項を読み上げ、淡々と進めていく。そして最後に大学祭実行委員会の笹が熱い鼓舞の言葉を投げかけて、全員が一丸となったところでミーティングは終わった。プログラム15時台の4組はステージ横に設置された簡易の楽屋に向かうが、昂宗たちは16時台の3組目なのでまだ時間に余裕があった。観客席からこのミュージックステージを楽しむべきか。
『せっかくだし、「喫茶ちくわ」で腹ごしらえでもしない?』
いな穂が昂宗に尋ねた。
2人はまだお昼を食べていない。昂宗は気持ちが高ぶって空腹を完全に忘れていた。依然として空腹は感じないが、ライブ中にエネルギー切れは困る。
大学を出て、今じゃすっかりなじみの道を歩いていく。階段を上り店の扉を見ると『CLOSED』の札がかかっていた。
いな穂と顔を向き合わせて首をかしげる。今日は定休日ではないはずだ。
すると店の扉が開いて、私服姿の田中さんが出てきた。出会いがしらになのか、昂宗といな穂になのか、はたまたいな穂の髪型になのかはわからないが、とにかく田中さんは驚いていた。田中さんの無表情以外の表情を初めて見た気がした。
『田中さん、こんにちは』
いな穂が言ったのに合わせて、昂宗も会釈をする。
『あら、おふたりとも。こんにちは。霧切さんはとっても雰囲気変わりましたね。一瞬誰かと思っちゃいました。須賀屋さんもメガネ、珍しいですね』
田中さんはそういいながら、なんと笑った。そして丁寧に頭を下げた。昂宗といな穂はギョッとして驚いてしまい、咄嗟になにも返すことができなかった。
『ところでどうしてこちらに? 今日は大学祭の本番の日とおっしゃっていたのに』
『え? ……あ、ライブ前の腹ごしらえと思ったのですが』
いな穂が答えると、田中さんは申し訳なさそうに、
『それは……ありがたいことですけれど、どうしましょう。私、今日はおふたりのライブを見に行こうと早めにお店を閉めてしまいました。すみません』
そういって再び深く頭を下げた。
『いえ、そんな! こちらこそすみません……というか、見に来てくださるんですね! ありがとうございます』
『ええ、それはもちろん! お話を伺った日からすごく楽しみにしていましたから!』
昂宗といな穂は、「喫茶ちくわ」の店長の娘である田中さんに日頃からお世話になっている。当然、大学祭でのライブの話も田中さんにしていた。そのときは無表情で『そうなんですか。よかったですね』と答えるだけだったから、まさか店を閉めてまで来てくれるとは思っていなかった。ましてや、こんな風に目を輝かせる田中さんを見る日が来るなんて思ってもいなかった。
『あの、良かったらですけれど何か作りますよ。サンドイッチとコーヒーくらいしか出せないけれど、さぁ入ってください』
昂宗といな穂が断る間もなく、田中さんは店内に入っていってしまった。いな穂は戸惑って昂宗の方を見た。田中さんの厚意に甘えてばかりで申し訳なさを感じているのだろう。しかし、こういう時は感謝をこそすべきだと、昂宗は知っている。
「かんしゃを『ことば』と『こうどう』でつたえればいいんだよ」
昂宗はいな穂にそう伝えてから、
「ありがとうございます!」
先に店内に踏み出した。そして振り返る。いな穂もうなずいて、
『ゴチになります!』
なんだか違う気もしたけれど、面白かったから何でもいい。田中さんも『はいどうぞー』とのんびりと返事してくれた。
今日はいつもの窓際の横並びの席ではなく、カウンター席に並んで座った。田中さんはコーヒーを淹れている。ポットの細口からドリッパーに流れ落ちていくお湯を見ていると、なんだか気分が落ち着く。サーバーに淹れられたコーヒーはすでに温められていたカップに注がれた。
『お先にどうぞ』
2人は『ありがとうございます』といって受け取り、いな穂はミルクだけを入れて、昂宗はブラックのまま一口飲んだ。田中さんはすでにサンドイッチの方を作り始めている。手際よくだし巻き卵を焼き上げて、お手製だと聞いているマヨネーズを薄く塗った食パンで挟む。
『すみません。こんなものしか出せませんが』
たまごサンドだ。「喫茶ちくわ」に通い始めて半年をとっくに過ぎているが、たまごサンドがメニューにあるとは知らなかった。
『賄い飯という名の裏メニューです』
察したのか田中さんはそういってウインクした。
昂宗といな穂は声をそろえて「『いただきます』」といってから一口食べる。それから二口、三口と無言で食べてしまう。気が付いたら1つ目がもうなくなっていた。フワフワでジューシーなだし巻き卵は、緊張している口に優しい味わいだ。また、しっとりとした食パンは主張が強すぎず弱すぎず、たまごの味を引き立てる役を完璧にこなしている。そしてなにより、お手製のマヨネーズが隠し味として最高だ。かすかな酸味が後味をすっきりとさせている。
『とても美味しいです!』
嬉々としていういな穂に同調して、昂宗も大きく首を縦に振る。
『それはよかったです。私が好きなんですよ、たまごサンド』
『どうしてメニュー化しないんですか?』
『いやぁ、これが一般的に美味しいのかわからなくて。父——もとい店長には不評でしたから、断念せざるを得ないです』
謙遜でも何でなく、田中さんは少し残念そうに言った。
『そんなことないですよ。こんなに美味しいたまごサンドならぼく、毎日頼んじゃいます』
昂宗がそう伝えると田中さんは少し恥ずかしそうに『そう?』と首を傾げた。
『絶対した方がいいです! きっとすごく話題になりますよ!』
さらにいな穂がダメ押しを入れた。
『霧切さんと須賀屋さんがそこまでおっしゃるなら、もう一度相談してみようと思います』
そういってから田中さんはメモを取り始めたのでしばらくはのんびりとコーヒーを飲んで過ごした。
『ところで霧切さんの髪は、やっぱり須賀屋さんとお揃いってことなのかしら』
2人の視線がいな穂に集まった。途端にいな穂は手で頭を隠すが、もちろん隠れるわけがない。
『みたいですね。どうやら今朝染めたところらしいです』
『あら、須賀屋さんもご存知なかったんですか?』
『はい。実は、ぼくの隣の部屋に美容師さんが住んでまして、ぼくの髪も切ってくれた人なんですが、どうやらその方の粋な計らいみたいです』
今度改めて浩二と聡音にお礼をしなければならない。何を返そうか、昂宗は少し頭を悩ませた。また音楽で返しても、喜んでもらえるだろうか。
『なるほど。しかし、色が真逆というのは、なかなかその美容師さんもわかっていらっしゃる』
『それってどういう……?』
そう言いながら時計を見上げると、すでに15時50分を回っていた。
『時間!』
昂宗の思考が追いつく前に、いな穂がそういって立ち上がった。
「喫茶ちくわ」から大学までだいたい10分ほどだから、いま急いで出ればギリギリ16時前には戻れるだろうか。
『お会計お願いします!』
『いえ、大丈夫ですよ。今はお客さんとしてではなく、友人としておふたりをお招きしたんですから』
『そうは言いましても……』
なかなか昂宗たちも引けなかった。こればっかりは遠慮や厚意に甘えるとは異なる。プロからサービスを受けたことへの正当な報酬だ。浩二の時と同じ状況とは言えなかった。
『それでしたら、コーヒー代の250円だけいただきましょうか。サンドイッチはアドバイスをいただいたので結構です』
わかりましたと財布を開いたいな穂は『あ』と声を出した。どうやらお札しか入っていなかったらしい。レジも閉めてしまっているので、すぐにはお釣りを出せないはずだ。急いでいたので、代わりに昂宗が500円玉で支払うことにした。
「『ごちそうさまでした』」
終始笑顔だった田中さんに見送られて2人は「喫茶ちくわ」を後に、大学へ駆け出した。
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