29.本番直前
昂宗たちは16時台の3組目なので、出番は16時半からだ。ステージは時間通りに進行しているようだった。16時ちょうどに昂宗といな穂が大学に着くと、そのタイミングで、16時台1組目がステージを開始した。
待機室には、すでに16時台の2組目と4組目の人たちがいて、それぞれ自分たちの演奏の番を今か今かと待っていた。15時台の人たちも何人か残っていて、興奮した様子で談笑している。待機室は、とにかく熱気がすごかった。しかし、ステージではこんなレベルじゃないだろう。何倍もの凄まじい熱気が渦巻いているはずだ。
昂宗は空気感にあてられて、鼓動が高鳴り、呼吸も荒くなる。興奮を抑えようと深呼吸をした。落ち着きを取り戻してからいな穂を見ると、意外にも涼しい顔をしている。
『あそこ座ろ』
いな穂は昂宗の腕を取って引っ張っていく。待機室の端のソファに横並びで座った。
いな穂はリラックスした様子でソファに身を委ねている。それに対して、昂宗はとても不安だった。昨日あれだけいな穂に偉そうなこと言ったくせに、昂宗はステージに立つことが怖かった。周りの人間がギターを持ち、ベースを弾き、ドラムをたたく姿を見れば見るほど、自分の演奏に自信が無くなっていく。そして、いな穂の堂々とした立ち居振る舞いが、ますます昂宗の不安を煽る。自分がミスして——そして、それに自分は気が付かないで——、いな穂の邪魔になってしまうのではないかと、嫌な想像ばかりが頭をよぎる。
落ち着かなくて、何度もスマホの時計を確認してはしまう。確認するたびに1分、また1分と過ぎていく。16時15分になって1組目が帰ってきた。同時に2組目が待機室を出ていった。彼らを見送り、スマホから目を離した一瞬の隙に、通知がきていた。メッセージアプリを開くと、相志郎からだった。
『今日のステージ、ふじ乃と見に行きます』
ますます落ち着かない気持ちになった。
さらに待機室は他人の声が多すぎる。無駄にキョロキョロとしていたせいで、メガネのレンズは、常に興味のない雑談で埋め尽くされてしまっていた。そこで知明に言われていたことを思い出した。ボタンを押して機能を切り替えた。スッと文字が消えて、頭がクリアになった気がした。
そう思ったのもつかの間。また文字でレンズがいっぱいになって来た。
≪いな穂:昂宗君がいるから。怖くない。昂宗君がいるから。怖くない。昂宗君が……≫
そう言い続けるいな穂の言葉だった。隣でリラックスしているように見えるいな穂も、口元をよく見ればかすかに動いていた。今までは他の人の声でかき消えていたのだろう。
いな穂も不安なんだ。そして、いな穂はぼくを支えに、自信を持ってくれているんだ。そう思うと、周りの他人なんて途端に見えなくなって、いな穂だけがいた。
いな穂の手をギュッと握った。突然で驚いたのか、ビクリと肩を大きく跳ねあげた。それから昂宗の方を見て、フワリと笑った。
その時いな穂が立ち上がった。
≪いな穂:昂宗君、ちょっと早いけど、ステージ袖にいこっか≫
昂宗はいな穂が引く手をギュッと握り返すことで返事をした。
ステージ袖に行くと、すでに知大がそこで待っていた。知大にはステージ前のMCをお願いしていた。昂宗はもとより、いな穂も歌だけに集中したいとのことだった。知大は一瞬の考える間もなしに即答で、MCを快く引き受けてくれた。
≪いな穂:いたならこっちに顔出してくれたらよかったのに≫
≪知大:いやいや。行ってはみたんだけど、ふたりとも集中しているみたいだったから、邪魔できないと思って、早めにこっちに来たんだ。それに……≫
知大はクイッと親指でステージの方を指した。そちらの方を見ると数人の実行委員の中に牧野がいた。ちょうど目が合って、昂宗といな穂は恐る恐る会釈した。牧野はキビキビとした動きでこちらに歩いてきた。そして目の前で立ち止まりスマホに文章を打ちこむと、ふたりに見せた。
『今日はあなたたちの演奏を楽しみに待っていました。一番前のスタッフ待機位置という名の特等席でみることにします。素晴らしいライブになるように祈っています。よろしくお願いします』
表情は依然として厳しいままだった。思っていなかった言葉に、昂宗もいな穂も反応できなかった。
≪知大:おいおい、職権乱用はダメなんじゃなかったのか?≫
そう言って知大が揶揄った。そのタイミングで昂宗はメガネの機能を切り替えた。
『これは正当な権利です。だって私はスタッフなんですもの。スタッフが仕事をするために持ち場にいるのは、当然のことだわ』
牧野はそれに一切動揺することなく反論した。知大は『おお怖い怖い』と茶化すように笑う。それを見て昂宗が苦笑するとギラリと鋭い目つきで睨まれた。
『それでは』と言って、牧野は舞台袖からステージの方に出て行ってしまった。16時台の2組目が終わったのだ。
そう、次は昂宗といな穂の番だ。
昂宗はまたドキドキしてきた。しかし、それは不安や恐れではない。楽しみや興奮だった。
一段といな穂の手を強く握った。ギュッと、ギュッと。もう離れないんじゃないかというぐらい、強く。
いな穂の表情にも迷いや焦りはない。キラキラと目を輝かせて、純粋に登場を今か今かと待ち望んでいる。
『次、スタンバイお願いします』
スタッフのひとりがこちらに寄ってきて、そう言った。よく見ればオーディションの時にかばってくれた彼だった。
いな穂も気が付いたようで二人でペコリと頭を下げると、彼は困ったように笑ってから、『頑張ってください!』とグッとガッツポーズをして鼓舞してくれた。
『それじゃあ、いこうか』
「はい」
知大がそういったのを見て、再度メガネのスイッチを押す。
≪いな穂:待って!≫
先に歩き出そうとした知大とそれに連なった昂宗を止めて、いな穂はいった。
≪いな穂:円陣組まない?≫
昂宗と知大はすぐにいな穂のもとに戻る。そして強く肩を組んだ。
≪いな穂:わたし、もうなにも怖くないよ≫
まずいな穂が言った。
≪知大:私も、怖いものなんてないさ≫
続いて知大が言った。
「ぼくも、だいじょうぶ」
昂宗もそういって頷く。
≪いな穂:一発かましてやりましょう!≫
「『『おお!』』」
3人でステージに飛び出した。
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