26.どうかな?

 朝の8時。昂宗は珍しく寝過ごしていた。特に予定はないが、なんだか少し罪悪感。スマホを見るとメッセージが届いていた。いな穂からだった。


《おはよう! もう少しでそっちに着くから!》


 なんの変哲もないはずの朝が完全に壊れた。ただ焦っても仕方ない。メッセージ自体はほんの少し前に届いたものだ。まだ時間に余裕はあるだろう。


《玄関の鍵を開けておくから、勝手に入ってきていいよ》


 そう返してから、忘れないうちに玄関の鍵を開けた。それからさっさと着替えてしまおうと思った瞬間、ガチャッと扉が開いて、

『おはよう!』

 元気にいな穂が飛び込んできた。

 昂宗が少し面食らって固まっているのも気に留めないで、いな穂はズケズケと部屋に入っていく。それを追うといな穂はカーテンをバッと開いた。それからくるりと振り返ってまぶしい朝日を背に受けながら、

『時間は待ってくれないんだから!』

 ビシッと人差し指を立てていう。昨日のことなんてまるで何もなかったかのようだ。いや、昨日のことがあったから、いな穂はこれだけ前向きになってくれたんだ。

 昂宗がひとりで勝手に嬉しくなっていることに首を傾げてから、いな穂は昂宗の準備をせかした。

 顔を洗ってご飯を食べて、着替えて歯を磨いて。そして勉強道具の入ったカバンを捨てて、ギターを手に取る。テキパキと準備を済ませて、さっさとアパートを後にした。目的地はもちろん、いつもの河原だ。

 その日から大学祭へ向けて、ふたりの猛特訓は始まった。


 まもなくして夏休みも終わり、10月に入った。大学祭まであと2カ月だ。

 オーディションの結果が出た。合格だった。すぐさまステージプログラムの抽選が行われて、昂宗たちは最終日の午後と決まった。

 しかし、勉強をおろそかにすることは決してしない。講義にはきちんと出席して、予習復習も欠かさず、それでいて音楽に打ち込んだ。

 そうすると、いつも河原で練習するわけにもいかなかった。時間帯によっては人通りが多く、いな穂の気が散って練習にならない。そういう時はスタジオを利用してみたりした。

 昂宗は中高生の頃、スタジオなんて利用したことがなかった。地元は田舎で、近くにはスタジオなんてなかった。加えて、学校に友達の家に山に、と自由に練習できる場所がどこにでもあったから、スタジオという発想がなかった。いな穂もないとのことだった。

 だから初めて二人でスタジオに入った時は、昂宗もいな穂も興味津々にパタパタと見て回ったせいで、あまり練習にならなかった。2回目以降はそういうことがないように、練習に集中した。

 充実した毎日はあっという間に過ぎ去っていく。すぐに大学祭当日はやってきた。


 昂宗は大学生になってまだ1年も経っていない。それでも入学してから今日まで、ほとんど毎日通っていた。だから大学のことを全部知った気になっていた。しかしながら、大学祭中のキャンパスの雰囲気は全く知らないものだった。学生たちの熱気も、人の多さも、何もかもが普段とは比べ物にならない。

 他大学の学生や一般の人も出入りしているので、ますます風景がいつもと違って見えていた。

 大学祭の初日、昂宗たちは練習後に立ち寄った。かなり疲労している中で、そのような人波にのまれるのは、昂宗にとって苦痛だった。気分が悪くなったので、いな穂のことを知大に預けてから、ひとり部屋に帰ることにした。

 人の多さに当てられただけなので、ひとりになるとすぐに良くなった。だから家にいても手持無沙汰に感じる。大学の図書館は開いているので戻って勉強しようかと思ったが、気分じゃなかった。結局またギターを手に取って、河原に戻ることにしたのだった。

 大学祭の影響か何なのかわからないが、今日の河原は極端に人が少ない。いつもの場所に陣取ると、この数カ月間に何度もなんども弾いたフレーズを再現する。今となっては、それを呼吸するかのような自然さですることができる。しかし、それではダメだ。そんな単調で変わりない音楽なら、気が済むまでレコーディングして、それを流せばいい。それはそれで悪くはないが、もちろんライブとは呼べない。

 ライブでは、その瞬間にその場所で昂宗が演奏していることに意味がある。そこで奏でる音の一つひとつに、魂を込めなければならない。

 上手くなるためにはたくさんの練習が必要だが、練習すればするほど作業のようなものになっていく気がする。だから常に集中して、いつでもそれが自分の音だと自信をもっていえるようにしなければならない。

 本番で弾くのは3曲、約15分程度の尺だ。一度、通しで演奏し終えて一息つく。12月の寒空の下にも関わらず、額にうっすらと汗を感じた。それなのに左手を見るとプルプルと震えている。どうにも感じている以上に肉体は疲労しているらしい。グーパーグーパーと繰り返す。

 水分補給ようにコンビニで買ってきたスポーツドリンクを手に取ろうと隣を見ると、寝ぐせのようなボサボサの髪にマスクと、レンズを真っ白に曇らせた眼鏡をかけた不審者が座っていて、ぱちぱちと拍手をしていた。一瞬ギョッとしたが、すぐに誰か思い当たった。

『お久しぶりです、知明さん』

 昂宗はメモを取り出して挨拶をした。昂宗の様子を見て曇ったレンズの奥にあるたれ目が、さらにトロンと垂れたように見えた。どうやら微笑みかけてくれたのだろうが、あいにくのマスクでわからない。それから知明は何かを言っているようだったが、もちろんわからない。

『あのすみません。マスクを外していただけませんか』

 すると、知明は指でオッケーと作ってからマスクを外した。途端に目の前に絶世の美男子イケメンが誕生した。

『すまんすまん』

 そういって知明は笑った。それから思い出したように横に置かれていたビニール袋をゴソゴソと漁り、プラスチックパックに雑に包装された焼きトウモロコシを取り出した。パチンと輪ゴムを雑に取って、一本を昂宗に渡してからもう一本をかじり始めた。昂宗も「ありがとうございます。いただきます」と礼をいってから食べ始めた。 

 知明は豪快にガブリとかぶりつく。その度にトウモロコシから汁がジュワッとあふれている。一方、昂宗は歯と歯の間にトウモロコシが挟まるのを嫌ってチビチビと食べる。大学祭で買ってきたものなのだろう。冷めてしまっていたがとてもおいしかった。

 そこで突然思い出したかのように空腹感に襲われた。今日はお昼過ぎまで練習して大学祭の出店をお昼代わりにしようと言っていたので、気持ちが悪くなった昂宗は朝ごはん以降何も食べていなかったのだ。

 気にするのも面倒になってトウモロコシにかぶりついていると、あっという間に食べ終わってしまった。少し物足りなさを感じていたところ、知明は次にたこ焼きを取り出して渡した。昂宗はそれもペロリと平らげた。するとさらにベビーカステラも渡してくれた。それで昂宗は満足した。知明はその光景を嬉しそうに見ながら、たい焼きを食べていた。

 互いに全部食べ終わったところで、

『ぼくに餌付けしに来たのですか?』

 昂宗が訊くと、知明はクツクツと笑った。ひとしきり笑ってから、『違うよ』といった。

『昂君がオシャレに目覚めたと聞いて』

 昂宗は思い出したかのように前髪に触れた。いろいろ言い訳をしようと思ったが、したところで何が変わるわけでもない。なにより実のところ、意外にも昂宗はこの髪を気に入ってしまっている。 

『ええ、実はそうなんです』

 昂宗が少し照れるように返すと、

『似合ってるじゃん』

 知明が優しく言うので、余計に照れた。

『まあ、別にそれが本題ってわけじゃないよ』

 そして、かけていた眼鏡を昂宗に差し出した。

『これを渡そうと思って。この前海に行ったときにかけてもらっていた改良版。ちょっとかけてみて』

 促されるままに昂宗は眼鏡をかけてみる。

『どう? いけるかな?』

 知明の胸元には、まるでノベルゲームのようにテキストが現れていた。

『この前は生体認証が必要だったけれど、昂君のアドバイスに従って、その辺を変えてみたんだ。使用者の視線や脳波を分析することで、誰の声を聞きたがっているのかを自動で判別して、それからその対象からの声だけを表示させるって風にしてみたんだけれど、どうかな』

 昂宗はメモを取り出して答える。 

『それだと大人数のコミュニケーションが成立しないのでは? いちいち視線を合わせないと会話を拾えないなら、誰がしゃべっているのか瞬時にわからないぼくには不便です』

『その問題は一応対策してある。複数人で会話を始めた時、視線の動きでAIが話し相手を全員捕捉してくれるから、一旦そうなればどこを見て話しても会話を全て拾ってくれる。今だって、昂君は空を見ながらでも俺の話は見ることができるはずだ。』

 試しに視線を外してみると、確かに読むことができた。

『でもそれだと誤作動も多いのでは?』

『そう。だからこそ、その辺りの調整のために今回持ってきたんだ』

『なるほど。さしずめぼくは実験体といったところですかね』

『利用するみたいですまないね。でも前回の昂君の「報告書」はなかなか研究者たちから評判がよかったんだ。そういうわけで、今回も頼まれてくれ』

『いえ、むしろありがとうございます。このメガネはすごく便利だったので、またつかわせてもらえること、すごく嬉しいです』

『そこで、またスマホを貸してくれないか』

 昂宗はロックを解除してから知明に渡した。それからしばらくして返された。

『この前のアプリのアップデート版をいれた。操作内容が若干変わっている。この前みたいにスマホでは会話を現在進行形で確認できない。だから会話内容の履歴も残らない。プライバシーに配慮してその辺りの機能は削った。基本的に会話の打ち込み専用になった。あとは機能の切り替え。前回までと同じ、声帯認証済みの人間だけの声を拾う方に機能を切り替えられる。また、声帯認証済みの人間の中からさらに対象を限定することもできるようになった。この限定はアプリからしかできないが、機能の切り替えだけなら、眼鏡の左のつるにあるボタンを押すことでもできる。そんな感じかな』

 昂宗はアプリを立ち上げた。確認すると、かなり仕様の変更が見られた。

「ありがとうございます」

『ん? アプリに打ち込めば今まで通りに話せるよ?』

 知明にそういわれたので、昂宗はスマホに打ち込んだ。

『感謝の言葉はできるだけ口にしようと心がけているのです』

 所詮できるだけですけどね、と自虐を付け加えながら返すと、

『なるほど。いい心がけだ』

『ところで、どうしてぼくの居場所が分かったのですか?』

 今日、昂宗はあとの時間を家でゆっくりと過ごすはずだったのだが、気分を変えて家を飛び出した。こればっかりは誰も知らないはずだ。

『ああ、それはいなちゃんが昂君ならここでギターを弾いているんじゃないかって言っていたから。アパートに行くより河原の方が近いから先に立ち寄ったわけだけど、昂君、完全に読まれているね』

 知明はクツクツと笑った。

『それはなんとも』

 昂宗はなぜか少し嬉しく思った。

『それじゃあ、知大さんにも会ったんですか?』

『そりゃね。なんせ、さっき昂君が食べたトウモロコシは知大が出店で作ったやつだからな』

『え、ほんとですか?』

『もちろん。醤油塗って焼くだけのシンプルな過程にも、知大の料理上手が染み出てたな。美味しかっただろ?』

『はい。美味しかったですけど、知大さんって料理上手なんですか?』

『知大の料理はマジでうまいぞ。あいつの舌の肥え具合が直接あらわれてる。なんか知らんが頑なに料理好きを認めないけどな』

 そこで昂宗はピンとくることがあった。それからひとりでウンウンと頷いてから、

『今度知大さんにご馳走になろうと思います』

『それがいいと思うよ』

 そういって知明はマスクを付け直し、立ち上がった。

『それじゃあ、そろそろ行くよ。今日はまだここにいるから、なんかあったら連絡ちょうだい。これからも知大のこと頼むな』

『頼まれましても、ぼくの方がお世話になりっぱなしですよ』

 昂宗が苦笑すると、

『まあ一緒に楽しく過ごしてくれるだけでいいんだ』

『わかりました』

『あといなちゃんも。あの子のことは大切にしてやってくれ。もう事情は全部知っているんだろう?』

『はい』

『よし。あとライブも頑張ってね。残念ながら明日またすぐここを出ないといけないからみれないんだけれど、応援しているよ』

「ありがとうございます」

 知明は背を向けてプラプラと手を振りながら去っていった。 

 それから1時間ほど練習をしてから、昂宗もギターをしまい立ち上がった。その頃には辺りは、真っ暗になっていた。

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