24.オーディション
時刻は朝の8時半を回ったところ。昂宗は知大の部屋をノックする。しばらくすると、眠そうに目をこする知大が出てきた。
『ん? こんな朝早くからなんだ?』
いつも通りの知大だった。しかし、予想が当たっていれば、彼女はしらを切っている。昂宗はスマホのメモ機能を使って伝えた。
『いな穂いますか?』
『いないけど?』
昂宗が玄関の足元に視線を落とすと、知大はガッと何かを死角へ蹴り飛ばした。
『いま何を蹴ったんですか?』
『ちょっと虫がいてな』
『そうですか』
『何もないなら閉めるぞ。私だって朝は忙しいんだ』
特に急いだ様子もなく言う。ただ、昂宗にも時間がなかった。
『これ、いな穂に渡しておいてくれませんか?』
封筒を差し出した。
『差し出し相手を間違っているぞ』
『そうですかね』
『まあ、受け取るだけ受け取っておいてやるよ』
『ありがとうございます』
頭を下げてから昂宗は立ち去ろうと回れ右をした。しかし、握っていたスマホを知大に奪われた。振り返ると知大が何かを打ち込んでいて、すぐに突き返された。それから『じゃあな』と言ってガチャンと扉を閉めた。
昂宗は少しだけ苛立ちながら、スマホの画面を見た。そこには、
『健闘を祈る』
それだけが書いてあった。
昂宗はその足で大学に向かった。
今日は大学祭のオーディションだ。
一昨日、守詰家から飛び出してアパートについてからは、一心不乱にいな穂への気持ちを綴った。何度もなんども形にしてみたけれど、どうしても納得できなかった。気が付いた時には昨日は終わっていて、目の前には昂宗の想いがあった。完ぺきではないけれど、だからこそリアルで、本物だ。
あとは、いな穂に届くのを待つだけだ。
オーディションは11時から行われる。まだ開始まで2時間以上あるにも関わらず、すでに多くの人たちが集合場所に来ていた。なんでも、オーディションを受けた順番が審査の加点になるだとかなんだとか、そういう噂があるらしいのだ。
しかし、そんなことを気にする余裕はない。昂宗にできるのは、ただジッといな穂のことを待つだけだ。
喧噪の中、昂宗はひとりオーディションの受付前で門の方を見つめる。バイブレーションをオンにしてスマホを握りしめる。それが震えるたびに画面を見るが、どれもこれもつまらないものばかりだった。時間だけが昂宗のもとに訪れる。
10時を過ぎたころ、オーディションの受付がはじまり、さらに人が増えた。ドシドシと人波が押し寄せる。昂宗は邪魔にならないよう少し横に避けて、いっそう目を皿にしていな穂を探すが、やはり姿はない。
そして気が付けば、オーディションが始まってしまった。オーディションは本番同様の野外ステージで公開されており、審査員となる実行委員より後ろの空間が自由解放されている。ステージはすでに野次馬でいっぱいだ。
しかし、昂宗はステージになんて目もくれなかった。重低音がドコドコと地面に響いて身体を震わせるが、魂まで響く演奏はなかったからだ。そんなものは昂宗にとって無音に等しい。
ただただ、いな穂を待ち続けた。
1時間が過ぎた。
いな穂は来ない。
2時間が過ぎた。
まだいな穂は来ない。
『あなた、ギターを持っていますけれど、オーディションを受けに来たんじゃないのですか?』
見かねたのか、受付を担当している男性スタッフからそう声をかけられた。それでも昂宗は、『相方を待っているので』としか答えなかった。
『とりあえず受付だけでも済ませたらどうですか?』
そういわれたので、指示に従うことにした。必要事項を書き込み、提出する。受け取った男性スタッフはそれを確認してから、オッケーと指で作ってうなずいた。
それからも、たびたび彼が『相方はまだなのか』と尋ねてきたが、昂宗はそれに無言でうなずいて答えるだけだった。
3時間が過ぎた。
4時間が過ぎた。
オーディションの最終受付は16時だ。残り1時間。
昂宗は祈りさえしなかった。いな穂を信じているから。
しかし、とうとう彼女は来ないまま、16時になってしまった。
『もう受付終わるけれど?』
何度も昂宗を気にかけてくれていた受付スタッフの彼が尋ねる。
『もう少しだけ待ってもらえませんか』
昂宗は懇願した。それを気の毒に思ったのか、彼は同情するような目で昂宗を見た。それから小さくため息をついて、
『じゃあ10分だけ』
そういってステージの方に向かっていった。そして上長と思われる女性に話をしている。
昂宗はスマホを確認した。やはり連絡は入っていない。信じているから、こちらから連絡はしない。完全に意地になっていた。来るのを待つしかない。
しかし、やはりいな穂よりも時間の方が早くやってきてしまった。
『10分経ちました。まだですか?』
戻ってきた彼が訊いてきた。
『もう少しなんです。あと少しだけ、ほんの少しでいいので、待ってくださいませんか』
彼は相当困ったという様に眉をひそめた。彼が考え込んでいるその時、先ほど彼が話していた上長と思われる女性スタッフが歩いて来た。彼となんらかのやり取りをした後に、今度は昂宗に向かって何かを言った。しかし、口の動きが早すぎて昂宗には理解できなかった。それを察した彼が昂宗の事情を伝えてくれた。女性スタッフはスマホを取り出し、そこに打ち込んで昂宗に見せた。
『私は大学祭実行委員会、ミュージックステージ担当部長の牧野です。本日のオーディションは終了いたしました。大変気の毒には思いますが、今回のミュージックステージへの参加は諦めてください。来年の参加をよろしくお願いいたします』
無慈悲にも、そう書いてあった。
「そこをどうか、おねがいします」
昂宗はそういいながら何度も頭を下げた。牧野は哀れみの目でそれを見下ろすだけであった。昂宗のことを思いやってくれるスタッフの彼が頭を上げるようにと何度も肩を叩いてくれたが、昂宗は決して頭を上げなかった。
どのぐらいの時間、頭を下げているのかわからなくなっていたその時、周りの空気が止まったように感じた。みんな昂宗のことを無視して帰ってしまったのかと思って、少し頭を上げると、スタッフ全員が同じ方を見ていた。
昂宗がハッとして振り返ると、そこにはいな穂が走ってきていた。息を切らし、髪も乱れ、顔は汗と涙でグチャグチャになっていた。
昂宗の横に来ると、肩で大きく息をしながら、いな穂は頭を下げた。
『すみません、遅れました』
『遅れましたじゃないでしょう? オーディションは終了しました』
牧野は冷たくいい放つ。
『お願いします』
昂宗もそれを見て、もう一度頭を下げた。
『そんなことを認めたらキリがないの。あなたたちだけを特別扱いはできない』
正論を言われて二人は何も言えなかった。
そんな状況の中、後ろから知大も現れた。いな穂を追いかけてきてくれたのだろう。彼女の額にも、大粒の汗がいくつも流れていた。
『それぐらい許してくれてもいいじゃないですか。結衣先輩、私の顔に免じて、ね。頼むよ』
『知大……この子たちあなたの後輩だったのね。……いいやダメ。それこそダメだよ、職権濫用なんてみんなに示しがつかない』
それから二人は何かを言い合っていたが、昂宗には読み取れなかった。ただ、知大がいくら頼んだところで牧野がいい反応をしなかったことだけはわかった。とうとう知大は昂宗といな穂の方を見て『無理だ』と首を横に振った。
もうダメかと思ったとき、受付をやっていた男性スタッフが手を挙げた。
『牧野先輩、すみません。そういえば俺、おふたりから受付を承っていたのですが、うっかり呼び忘れていました。そのせいで今までオーディションに参加できなかったのです。これは俺の失態です。彼らには何の非もありませんから、オーディションをしてあげるべきではないでしょうか……なんて理由ならどうでしょうか。お願いします』
そういって彼は頭を下げた。これには昂宗もいな穂もポカンとしてしまう。
『あなたね……うーん……』
今度は牧野も考え込んでしまった。なんとも言えない空気が蔓延する中、これをぶち壊したのは、
『おー? どうしたんだ?』
呑気にそんなことを言いながら現れた男だった。
『笹くん……』
牧野がそう呟いたのがわかった。
『もめてるって聞いたけど。お、紫吹じゃねーか、どうしたんだ? いーや、わかった。またお前が問題を起こしているんだな? ったく、仕方ねぇやつだな』
『まて、私じゃない』
シリアスな雰囲気が完全に変わった。このやり取りをみて失笑しているスタッフもいるほどだ。
『笹くん、実は……』
そういって牧野が事情を話し始めた。笹という男は話を聞き終わると一度大きくうなずいてから、
『じゃあやろうか。ごめんみんな! 最後に1組だけオーディションに付き合ってあげてよ! パッとやってパッと終わろう!』
パンパンと大きく手を打ち鳴らした。
『ハイ!』
スタッフ全員大きく返事をして早速準備に取り掛かった。牧野は一瞬、笹を糾弾するような目でジロリと見たが、彼がニコリと笑うのを見て大きくため息をつき、ヤレヤレといった様子で——だけれど少し楽しそうに——準備に取り掛かった。
昂宗といな穂はスタッフに連れられてステージ上へ移動した。いな穂は、親切なスタッフに汗をタオルでぬぐわれていて、マイクの調整を行っている。昂宗もギターを渡し、チューニングや機材の調整を行ってもらった。
すべてが終わるとふたりだけがステージに残された。ここで今日初めて、いな穂と目を合わせる。言葉はない。
『お願いします』
いな穂がいうと牧野が何かを言った。昂宗にはわからなかったが、いな穂が受け答えをしている。しばらくやり取りが続いた。
それが終わるといな穂が振り返って、
『いくよ』
その時になってなんの打ち合わせもないことに気が付いた。それを察したいな穂は首を横に振った。視線がぶつかる。言葉はいらない。
『あなたのギターで歌わせて』
そう聞こえた気がした。いな穂は微笑むと昂宗の心臓がドキリと大きく跳ねる。いな穂は向き直ると、左手で指揮を振った。それに合わせて昂宗も弦を弾いた。
激しいイントロに合わせて、いな穂が入ってくる。
瞬間空気が変わったのがわかった。ピリリと痛いくらい、昂宗の心の底まで響いてくる。
その場にいた全員が彼女にくぎ付けになっている。あれだけ渋い顔をしていた牧野も、間抜けな顔で聴きこんでしまっている。
いな穂は知大だけを見つめていた。指揮を振って昂宗のギターにだけ集中していた。
このこのステージは一瞬のように感じた。
気が付けば歌い終わっていて、永遠に感じる沈黙があった。
そこでいまさら不安を感じた。あまりに演奏がお粗末だったのかもしれない。なにせ最近二人は全く練習をしていなかった。この3日間に至っては昂宗はギターにすら触れていない。いな穂もアップなしで歌わされたのだ。わからない。
しかし、すぐに杞憂だとわかった。忘れていたかのように、スタッフが一斉に拍手をし始めた。よく見れば感動して目を潤ませる人もいた。
知大はグッとサムズアップをしてくれた。
いな穂が振り返る。てっきり泣いているものだと思っていたのだが、彼女は控えめに、そして恥ずかしそうに笑っていた。
拍手が鳴りやむと、牧野がふたりに声をかけた。
それにいな穂が何度もうなずいていた。最後に深く頭を下げたので、昂宗も急いでそれに合わせ、頭を下げた。
ステージから降りると、笹と呼ばれていた男と知大が迎えてくれた。
『お疲れ様。頑張ったね』
知大は感極まって、いな穂のことを抱き締めた。対照的に、いな穂は苦笑いを浮かべている。
『おふたりさん、お疲れさん! いい歌だったよ』
そういって男も話しかけてきた。えらくはっきりと口を動かしてくれていることから、昂宗の事情も把握済みということらしい。
『俺は笹健太郎、大学祭実行委員長だ。紫吹の後輩なら、これを機に俺とも仲良くしてほしい。よろしく』
そういって昂宗に握手を求めてきた。握手なんて普段はしないものだから、昂宗は少し緊張しながらその手を取った。そしていな穂は、未だ知大の腕の中にいるので、彼女越しにその手を取った。
『本番のステージに出してあげたい気持ちは山々だが、あいにくその権限を俺は持ってない。とりあえず、いい結果が出ることを願っているよ』
それだけをいうと、笹は実行委員が集まっている方へ行ってしまった。昂宗は頭を下げて彼を見送った。
『知大、そろそろ苦しいよ』
いな穂がそういうと、なくなく知大は離れた。
『昂宗も、ありがとう』
今度は昂宗を抱き締めようとしてくるので、一度はその気持ちを受け取る。
「ありがとうございます」
しかし、思っている数倍恥ずかしくて、すぐに離れた。それでも知大は昂宗といな穂の手を取って離さない。
『ああ、もうほんとダメだ、ふたりともこんなに落ち着いているのに、私がこんなんじゃ、ああ、でも、ほんとにふたりが頑張ったの知っているから、ああ……』
相当取り乱している知大を見ていると、昂宗たちまで泣きそうになってくる。
『こら、あなた』
知大の首根っこを掴んだのは、牧野だった。
『ごめんなさい。この子も普段はもっと凛としているのだけれど、後輩ふたりの前ではいつもこんな感じなのかしら?』
昂宗は首を横に振る。いな穂は苦笑いでその質問をスルーした。いな穂とふたりっきりの時は、意外と知大はいな穂に甘えているのかもしれない。
『あなたが邪魔しちゃダメでしょ』
『先輩……だって……』
『だってじゃありません。この子たちはこの子たちで、まだ話し合うことがあるのでしょう?』
牧野は昂宗といな穂を見た。何も知らないないはずなのに、訳知り顔だった。昂宗といな穂の背筋がピンと伸びる。
やっと静かになった知大を引きはがし、ズルズルと引きずって離れていく。途中、牧野は振り返っていった。
『ああそうだ。あなたたちのパフォーマンスは素晴らしかったけれど、それでも遅刻は遅刻。残念だけれど私たちも所詮素人だから、他の人たちとの厳密な差なんて正直わからないの。だから審査基準も結局のところ、パフォーマンス以外の部分に依拠せざるを得ない。もちろんそれが全てということでもないわ。
……要するに、全てを考慮に入れた上で厳正に審査はさせていただきますので、どのような結果になっても悪しからず、ということです』
「『ありがとうございました』」
ふたりが声をそろえて言うと、牧野は振り返らず手を振って応えた。
久々にふたりきりだ。いな穂の方を見ると、ちょうど彼女も昂宗の方を見たようで、目が合った。言葉は出ない。
気まずくなって、昂宗は歩き出した。何も言わず、いな穂も少し後ろをついてくる。行先はもちろん、『喫茶ちくわ』だ。
店につくと、店長の娘さんである田中さんが閉店作業をしていた。時間はもう閉店である18時に迫っていた。諦めようかと思ったが、彼女は昂宗たちを店内に案内してくれた。『好きに使ってくれていい』とのことだ。表情からは彼女の感情は読み取れなかったから、ありがたく厚意に甘えることにした。
席について注文を済ませると、しばらくふたりの間に会話はなかった。彼女は何度も深呼吸をして、気持ちを整理していたようだった。
注文のドリンクが届いて、数分が経った頃、いな穂はカバンから少し膨れた封筒を取り出し、昂宗に渡した。
『昂宗くんへ』
表にはそう書いてある。昂宗へ向けた手紙のようだった。
『読んでいいの?』
昂宗はジェスチャーで示すと、いな穂はうなずいた。その眼には覚悟が宿っていた。
昂宗は徐に便箋を取り出し、その手紙を読み始めた。
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