23.後輩の家

 次の日、昂宗はいな穂の家に向かった。

 一晩考えて、やっぱりいな穂に話をちゃんと聞いてほしいと思ったのだ。家の場所は海に行った日、知明がいな穂を送っていった道を思い出して辿ればたぶん着くだろう。

 そんな軽率な考えで電車を乗り継ぎ、駅に降り立つ。改札を出ると急に不安な気持ちになった。それでも、とりあえず足を進めてみることにした。

 まったく土地勘のない街をうろ覚えで歩く。しかしながら、思っていたほど難しいことではなかった。多少迷いながら、それでも程なくして、いな穂の家にたどり着いた。

 住宅街にある目立った特徴もない普通の一戸建て。表札には「霧切」とあった。それほどありふれた苗字でもないから、ここで間違いないはずだ。ここがいな穂の育った家だ。

 インターホンを鳴らす指は震えている。緊張と恐怖を抑えて、ボタンを押した。

 ピンポーンと。家の様子は変わらない。誰かが出てくる気配もない。そもそも誰かがいる気配もなかった。

 しかし、それも当然のことかもしれない。なんて言っても現在は平日の昼下がりの午後。誰もが仕事に授業にと忙しい時間だ。暇をしているのは、夏休みを満喫している昂宗のような、お気楽大学生だけである。おそらくいな穂の両親は仕事に行っているのだろう。いな穂も、もしかするとバイト中かもしれない。

 そうなると新たな問題が発生する。昂宗はいな穂のバイト先を知らない。知っているのは音楽に関係しているということだけだ。確かCDとか売っていると言っていたか?

 昂宗はスマホの地図アプリを起動させ、検索画面で「CDショップ」と打ち込む。近場に3件ヒットした。煩わしいことに、現時点からの方向は3件ともバラバラだった。止まっている時間も惜しくて、とにかく足を進める。近くにあるものから回ることにした。


 しかしながら、考えなしに近場から足を運ぶというのは完全に間違いであった。一番に向かったCDショップは大型ショッピングモールに入っているチェーン店であった。次に向かった店も別の大手のCDショップだった。

 いな穂は店主がほとんど趣味でやっている小さな個人経営のお店だと言っていたし、CDよりもメインは中古レコードだと言っていたはずだ。いな穂がレコードにはまったことがそこでバイトを始めたきっかけだと教えてくれたことをなぜ忘れていたのか。

 無駄な時間と労力を使ってしまった。下校中の小学生とすれ違う。キャッキャと楽しそうに駆け回る姿とは対照的に、昂宗は運動不足でパンパンに張れた足を引きずるように歩く。やっとたどり着いた店の前に立ち、カラカラと引き戸を開いた。

 店に入ると、狭い店内には棚が壁際と中央に3つあり、綺麗に整頓されながらも、所狭しと並んでいる。さらに奥には雑にレコードが積みあがっており、そこに埋もれながら作業をする女性店員が『ラッシャーセー』と言いながらチラリこちらを一瞥した。そしてギョッと2度見した。

 それに対して昂宗は少し恥ずかしがるようにプラリと手を振って応えた。ふじ乃だった。

『昂宗さん! びっくりしました!』

 ゆっくりはっきりと口を動かして行ってくれた。キラキラと嬉しそうな顔で出迎えてくれる彼女を見ると、昂宗も嬉しくなった。ふじ乃は昂宗の下に駆け寄ってくると、

『間違った。スーさんでした』

 昂宗はずっこけた。そんな昂宗のことを楽しそうに笑って、

『今日はどうしたのですか?』

 クイッと首をかしげるふじ乃に、

「いなほいるかな?」

 昂宗が尋ねると、

『先輩なら、今日は私と入れ替わりで帰られましたよ。14時上がりでした。ですから、お家にいらっしゃるんじゃないでしょうか』

「そっか」

 それならば、いな穂はどこかに出かけているということになるだろう。昂宗が霧切家を訪ねていた時間とドンピシャだ。それを見られていた可能性がある。避けられている、というのは考えすぎだろうか。

『先輩となにかあったのですか?』

 視線を下げて神妙な顔つきの昂宗に、ふじ乃が覗き込んで聞いた。その表情には心配が滲んでいる。昂宗は努めて笑い、首を横に振った。

 ふじ乃の表情を見る限り、全く誤魔化せてはいないようだったが、『そっか』とつぶやいてから、

『そんなことより、僕今勉強していることがありまして。マスターしたらスーさんにに教えてあげますね!』

 腰に手を当てて胸を張り、エッヘンといった風に言った。

 なんだろうと昂宗は一瞬考えを巡らせながら、コクリと大きく頷いて返事をした。

『スーさんが僕のことを先生と呼ぶ日も近いですよ。ささ、用がないなら帰った帰った! 僕もお仕事中ですから!』

 そういって、ふじ乃は昂宗を回れ右させると、背中を押した。

「ありがとう」

 今度は自然に笑えていただろうか。

 ふじ乃に見送られてレコード屋をあとにした。それから、念のためにもう一度、いな穂の家に向かった。しかし、やはりいな穂は出てこなかった。

 もう日が暮れている。昂宗は夏休みだが、もうすでに夏が終わっていることが嫌でもわかった。結局、何の成果も得られないまま、トボトボと自分のアパートに戻ることになってしまった。

 

 駅に着くとその反対側に商店街があるのに気が付いた。急ぐ必要もなかったので、晩御飯を調達していこうと思い、立ち寄ることにした。

 最近、商店街は軒並みシャッター街へとなってしまっている。昂宗の実家の近所にある商店街も、近くにできた大型ショッピングモールの影響で、1年もたたずにシャッター街へと変わってしまった。ショッピングモールが悪だという気はない。昂宗も好んでよくそこで買い物をしていたからだ。しかし、初めてのおつかいでいった豆腐屋も、母に隠れて父といったケーキ屋も、家族でよく行っていた和食店も、全部失ってしまったことに、昂宗はなんとも言えないもの悲しさを感じていたのだった。

 しかしながら、この商店街はワイワイと活気にあふれている。先ほどCDショップを求めて寄ったショッピングモールは、それほど遠くない場所にあるはずだ。それでもこれだけの賑わいを見せているのは、なかなかにすごいことだ。

 八百屋、魚屋、雑貨店、美容院、喫茶店。パン屋にマッサージ店に蕎麦屋、定食屋となんでもあった。

 精肉店で売っている揚げたてのコロッケが目に入って、あまりにおいしそうだったのでつい買ってしまった。サクサクの衣に包まれるジャガイモは甘く、牛肉もうまさを主張してくる。これで一つ40円という。本当に儲けがあるのだろうか。無駄な心配をしながら、コロッケをかじり、商店街を進んでいく。

 お惣菜屋を見つけた。雰囲気もとてもいい。今日の晩御飯はここで決まりだ。

 暖簾をくぐり、解放された引き戸を抜けると、『いらっしゃい』と感じのいいおばさんがレジを打ちながら迎えてくれた。

 昂宗はそれに会釈して返し、商品棚を見る。王道のから揚げ、ハンバーグ、かつ丼やオムライスまであった。どれもおいしそうで、迷っていてはキリがない。昂宗はタルタルソースがたくさんかかったチキン南蛮に強烈なインパクトを感じ、それにすることとした。添え物として、マカロニサラダとほうれん草の煮びたしも手に取ってレジに向かった。ボリューム的には1000円を優に超えるに違いないはずだ。しかしレジに表示される価格は、600円に満たなかった。

 とてもいい買い物をした。店を出てウキウキと駅に向かっていると、不意にいな穂のことを思い出して、また気分が落ちた。自分がとても滑稽に思えた。

 足取りが重くなって、気づけば俯いて立ち止まっていた。

 すると、キキッと目の前で自転車が止まった。道中で立ち止まっているせいで、邪魔になったのだろう。昂宗が顔もろくに上げないで「すみません」と言い、そそくさと立ち去ろうとすると、ガシッと腕を掴まれた。

 何事かと思い相手の顔を見ると、無表情で自転車にまたがる相志郎の姿があった。


 守詰家に来ていた。

 相志郎に一緒に晩御飯でもどうかと誘われた。しかし、相志郎は誘いをかけてからすぐに昂宗が総菜屋の袋を下げていることに気が付いたようで、少し決まりが悪そうだった。

「だいじょうぶ。もんだいないよ」

 昂宗は笑って相志郎に伝える。相志郎は無表情のままではあるが、何となく緊張が和らいだように見えた。

 そんなこんなでたどり着いた守詰家であるが、こじんまりとした家だった。お世辞にも綺麗とはいえない。そういえば相志郎があまり裕福ではないといっていたのを、昂宗は思い出した。

 相志郎は昂宗から総菜の袋を受け取り、居間のふすまを指さしてから、冷蔵庫のあるキッチンの方へ向かった。昂宗はそれに従って、居間に入った。

 その時、目の前でなにが起こっているのかわからなかった。全裸の女の子がゴロゴロ寝転がりながらテレビを見ている。

『相にぃおかえりー』

 そういって振り返ったのは、想那だった。

 瞬間、

『お兄ちゃん、晩御飯なにー?』

 奥のふすまが開いて、隣の部屋から上下グレーのスエット姿の想歌が現れた。

 想那はなぜか嬉しそうに、想歌は驚愕したように、それぞれ目を見開く。それに対して昂宗は、何も考えないようにしながら目を閉じ、徐に両目を手のひらで覆った。

 そして、

『『キャーッ!!!』』

 守詰家に悲鳴が響き渡った、

 すぐにドタドタと足音が聞こえて、肩をたたかれた。目を開くと珍しく取り乱したような、申し訳なさそうな顔をした相志郎がいた。

『すみません。2人とも部屋に戻ったのでもう大丈夫です』

 見ると、そこには誰もいなかった。想歌が開いたふすまも閉じている。どうやらあそこが2人の部屋であるらしい。

 いまだに冷や汗が止まらない。気持ちを落ち着かせようと、ちゃぶ台前の座布団に正座し、相志郎が出してくれたお茶を一口すすった。

 しばらくして想那が居間に戻ってきた。裾が膝辺りまで伸びている、かなり大きい水色のパーカーがワンピースみたいになっている。一瞬まさかと思ったが、そこからかすかにスパッツのようなものがチラリとのぞいていて、昂宗はとりあえず安堵した。

 想那はトコトコと昂宗の下に近づいてきて正面に座ると、どこからか紙とペンを取り出した。

『たっくんさっきはごめんね』

 想那は紙をピラリと見せながら、謝意とは正反対の笑顔を浮かべた。ペロリと見せる舌もかわいらしい。

 こういう時になんと答えるのが正解なのだろうか。


『別に気にしてないよ』


 いやしかしだ。年頃の女の子の裸を見て気にしないというのは、相手をまるで子ども扱いしている——もっといえば魅力がないといってしまうみたいで、むしろ傷つけてしまうんじゃないか?

 とすると……、


『いやいや、いいものを見せてもらった。ありがとう!』


 だめだ。これはまずい。捕まる。

『こちらこそ、突然驚かせてごめんね』

 昂宗は無難にこちらからも謝ることにした。これでこの話題は終わりだ。無駄に考えて疲れたため、もう一口お茶をすすった。

『想那の裸、どうだった?』

 そして盛大にむせた。想那の口が確かにそう動いたのだった。吐き出すのは全力で我慢したが、おかげでお茶が気管に入ってしまった。

 すると何かを言いながら、今度は想歌が居間に戻ってきた。恰好はスエットからジーンズにTシャツに着替えられていた。さっきのスエットは寝間着だったのだろうか。髪も先ほどより整えられたように見える。

 想歌は昂宗の隣に座ると、手に持っていた参考書とノートを開いた。

『すみません。この子、自分で言っている意味をあまりわかっていないので、気にしないでください』

 想歌の言葉を受けて想那を見ると、やはり可愛らしい笑顔を浮かべていた。そしてまた、テレビの前に寝転がってゴロゴロとし始めた。それを見て、想歌は小さくため息をついたが、ほんのりと笑っている。

『お客さんの前で失礼なんですけれど、勉強をしてもいいですか?』

『もちろんいいよ。お邪魔して申し訳ないです』

『お邪魔だなんてそんな。ありがとうございます』

 想歌も勉強を始めた。最近できた友人の家で、その姉妹に囲まれながら時間を過ごす。想像するとかなり居心地の悪そうな状況な気がするけれど、実際には意外にも悪くなかった。想歌も想那も自然にふるまってくれるからだろう。

 しかし、手持無沙汰であるのは否定できない。ぼんやりと勉強をしている想歌の姿を見てしまっていた。取り組んでいるのは数学のようだ。さっきから度々手が止まっている。困っているのだろうか。

『あの、良ければ勉強見てもらえませんか? 私、数学が苦手で』

 視線に気が付いたのか、想歌がノートの端にそう書いて見せた。自分が見過ぎたせいで気を遣わせてしまった。昂宗は少し反省しながら、自分のメモ帳とペンを取り出して、

『いいよ。あまり自信はないけれどね』

 それからしばらく、想歌の勉強に付き合うことにした。彼女は数学を苦手だといったが、少しヒントを与えるだけですぐに答えにたどり着くことができた。苦手というのは本当かもしれないが、できないというわけではなかったようだ。

 ちょうどキリのいいタイミングで、相志郎が居間を覗いて、

『運ぶの手伝って』

 それを聞いて、想那が元気に飛び出していった。昂宗も立ち上がってそれを手伝おうとすると、想歌にシャツの裾をつかまれて、

『お客さんはここで待っていてください』

 そういって昂宗を座らせ、代わりに立ち上がった。すぐに3人ともたくさんのお皿を抱えて戻ってきた。お皿が溢れそうになっているちゃぶ台を4人で囲む。

「『『『いただきます』』』」

 みんなで手を合わせてから食べ始めた。

 どれから食べようか迷ってしまう。そのぐらい美味しそうでなんだか内容が豪華だ。そう思っていると、

『たっくんがいるから、相にぃいつもより張り切ってるね!』

 想那が無邪気に言って、その横で相志郎は照れ隠しなのか、顔をしかめている。

 昂宗は話せないし聞こえないので、他人の家族の団らんを覗いている錯覚に陥って、なんだが申し訳ない気分になりかけたりもしたが、姉妹2人が程よく話題を振ってくれるおかげで楽しく過ごすことができた。

 食べ終わり、片づけはさすがにしたいと申し出たが、それもうまく断られてしまった。その間、流れているテレビを眺めていると、相志郎に肩を叩かれた。

『想歌の勉強を見てもらってありがとうございました』

『こんなに美味しいご飯を振舞ってもらったのに比べると、大したことじゃないよ』

 そのノートに返事を書いた。

 すると相志郎は左手の甲を地面と水平になるように胸の前において、右手で軽くチョップをするような動作をした。 

 昂宗にはよくわからず戸惑っていると、

『「ありがとう」って意味の手話らしいんですけど、間違っていました?』

 それを読んで、昂宗は納得した。

『ごめん、ぼく手話はできないんだ』

 相志郎は少し驚いたようで、

『そうなんですか。でもふじ乃がえらく一生懸命に手話を勉強していたので……、』

 相志郎はそこまで書いてから、『あ』と漏らし、その文章を消した。そして、

『もしかすると俺はいま、ふじ乃に申し訳ないことを書いてしまったかもしれません』

 昂宗には思い当たることがあった。日中にふじ乃に会った時、彼女が言っていたのは手話のことだったのかもしれない。

『怒られたくないので、できれば忘れてください』

 昂宗は苦笑いしながらOKと作った。相志郎は続けて書いた。

『どうして手話を覚えないのですか?』

『覚えない……というより、今の今まで、手話の存在を忘れていたよ。目から鱗って感じかな。そっか。ぼく手話を覚えなきゃいけないんだ』

 昂宗はいつか耳が良くなるものと勝手に思っていた。それを信じるには、すでに時間が経ちすぎている。昂宗は本当の意味で、この状況に真剣に向き合わなければならない。

『そうですか。ところで、ふじ乃から聞いたんですけど、いな穂さんと何かあったんですか?』

 相志郎があまりにも唐突に話題を変えてくる——しかも核心的なものに——から面食らってしまった。 

『すみません。でも、俺は不器用でこういう聞き方しかできません。ふじ乃がこういう話は同性の方が話しやすいからって言っていたので聞いてみたのですが、不快に思われたのであれば、もちろん何も言わなくていいです。忘れてください』

 相変わらず、相志郎は無表情だった。

 相志郎が意外にも強引に昂宗を誘ったのはそういう事情があったのだろうか。そう思うと少し腑に落ちた。

 昂宗は出会って数カ月の後輩たちにこんなに気を遣わせてしまっていたのか、と今更気が付いた。やはり自分は滑稽だった。

 そう思うとなんだか笑いがこみあげてきて、相志郎そっちのけで、一人で笑ってしまった。相志郎は目に見えて困惑していた。

『ごめんごめん。なんだかおもしろくて』

『いえ。須賀屋先輩の通う大学は変人の巣窟だと聞いているので別にそれぐらいではなんとも思いません』

 なんとも辛辣な言葉だった。しかし、それより……、

「せんぱい?」

 その敬称に引っかかった。

『はい。俺も先輩たちが通う大学が唯一志望なので、将来的には先輩になります』

『第一じゃなくて?』

『はい。唯一です。実家から通える一番近い国立大という条件を自分に課しました。それを目標に中学の頃からコツコツと努力を重ねてきましたから、絶対に行くのです』

『そっか……学部は?』

『医学部です』

 昂宗は絶句した。そして理由は尋ねられなかった。たぶん、彼は強い意志をもってその道を選択している。興味本位で聞いていいものではないと思ったからだ。

『ぼくは法学部だから全く役には立てないけれど、知大さんって覚えている? あの人は確か医学部だったと思うから、今度改めて紹介するよ』

 昂宗は知大がなぜ医学部なのかも知らない。だが彼女もきっと、何らかの強い意志があるはずだ。必ず相志郎の助けになってくれる。

『ありがとうございます。ぜひお願いします』

 それからしばらく二人は動かなかった。昂宗は何か話題をと探したが、自分たちが今何の話をしていたのかを思い出した。相志郎はそのレスポンスを待っていたのだ。

『ぼくといな穂の話だったね。じゃあ相志郎君。受験前の忙しい時間を割いてもらうことになるけれど、この情けない先輩の相談に乗ってくれるかな。』

『及ばずながら尽力いたします』

 そこで昂宗はあのライブ以降のいな穂との状況の話をした。

 しばらく会う機会がなかったこと、その間、昂宗は彼女がもっとのびのびと歌える場所を探し考え続けていたこと、すると、そんな場所が見つかったこと、しかし、それは彼女に受け入れてもらえなかったこと、そして未だに拒絶され続けていること。

『いな穂はもっとたくさんの人に認められるべきなんだ。あれだけぼくの前で歌うだけで幸せそうだったんだ。もっとたくさんの人の前で歌うことができれば。それは間違いなく彼女が望んでいることで、その彼女には才能がある。だからぼくがそのあと押しをしてあげるだけでいいんだ。彼女を——いな穂を呪縛から解き放つことができるのは、ぼくしかいない。でもそれを拒絶されてしまった』

 書かれたそれらをじっくりと読んでから10分ほど、相志郎はただ無言で考え続けていた。そして書き始めた。

『俺の疑問は2つです。まず1つ目ですが、いな穂さんは本当に人前で歌えるようになりたいのでしょうか? 俺自身いな穂さんとは親交がないので詳しく知らないのですが、少なくともこの前の感じを見ている限りでは、いな穂さんは現状で既に満たされているように思えました。もっといえば、「須賀屋先輩といるだけで」、です。この前のライブですら、いな穂さんにとっては煩わしかったのかもしれません。

 そして2つ目ですが、これは簡単です。先輩の気持ちがみえません。先輩は結局何がしたいのですか? そこまでいな穂さんを人前に、ステージに立たせたいのはなぜなんですか? プロデュース能力でも鍛えているのですか? 自分のギターの飾りが欲しいのですか? ビジネスですか? 先輩の押しつけがましい、いな穂さんの気持ちの推測なんてどうでもいいんです。先輩がなぜいな穂さんとステージに立ちたいのか。それをはっきりと伝える必要があると思います。

 要するに先輩は、いな穂さんの意思を聴くこともせず、自分の意思も話していない。押しつけがましい自己満足野郎だってことです。そりゃいな穂さんも困惑するでしょうし、怖くなって、拒絶したくもなるでしょう。先輩はいな穂さんと全然向き合っていません。

 辛辣な言葉が並べられていた。それらは昂宗の心を深くえぐった。正直、数日は寝込みたくなるほどだ。しかしそんな時間はない。オーディションは2日後だ。その焦燥感が熱を冷まし、心を熱くする。

『差し出がましいことを言ってしまいました』

 相志郎が心配するようにそう書いたが、昂宗はそれを破り捨てた。


 フツフツと湧き上がる彼女への言葉たち。

 相志郎に言われて初めて認識した自分の思い。

 

「ありがとう」

 昂宗は立ち上がって挨拶も何もなく、守詰家を飛び出した。

 全力で駆け出す。

 

 今すぐ吐き出さないと、きっとぼくは、このままおかしくなってしまうから。

 今すぐ形にしないと、この思いは二度と、いな穂には伝わらないから。

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