22. 望みと裏切り

 そろそろ9月が終わるまで、すでに2週間を切った。それは夏休みの終わりが目前まで迫っていることを意味する。

 大学生の夏休みは、8月から10月までの丸々2カ月ある。そう考えればかなり長い。しかし過ぎてみれば短すぎる。ほんのつい先日、夏休みは始まったはずだったのに。

 実家を離れて初めての夏だったが、昂宗にとってとても楽しい時間を過ごすことができた。

 夏のはじまり。テストが終わった後に、いな穂と初めて大学の外に遊びに出かけた。その日、いな穂は歌を歌うことが好きなことを打ち明けてくれた。それから昂宗の前で歌ってくれた。昂宗はいつもその歌声に——魂の叫びに——魂を揺さぶられた。

 それから海にも行った。知大や知明、ふじ乃と出会い、みんなでたくさん遊んだ。途中、嫌な記憶もあるけれど、もうすっかり忘れてしまった。そのぐらい、そのあとの花火が楽しかった。守詰兄妹とも合流して、終始賑やかだった。相志郎とふじ乃の関係をみて、とても素敵だと思った。知大にはいな穂のことをえらく突っ込んで訊かれたけれど、それがきっかけで、昂宗はもう一度ギターを向き合うことになった。

 向き合うことになったが、できなかった。苦しかった。どうやって立ち向かえばいいのか、全くわからなかった。そんな時に、寿之に出会い話をしてもらった。それに勇気づけられた。もう一度真剣に法律を学びたいと、30歳半ばで脱サラして大学で学んでいる彼から、昂宗は自分と向き合う方法を教えてもらったのだ。

 自問自答を繰り返していると突然いな穂がやってきて、そして、馬鹿みたいに一緒に歌ったんだ。たくさんたくさん、叫んだんだ。

 そのおかげ(?)で浩二とも知り合った。聡音とも仲良くなって、髪を切ってもらって、そのお礼に、昂宗はライブをお返しした。その結果、いな穂は前よりももっと多くの人の前で歌えるようになった。

 これら全部は全てこの夏の出来事だ。一生分の夏の思い出だったと言われてもおかしくない、濃厚な時間を過ごした。

 その夏が終わってしまう。後悔なく夏を楽しみ切ったといっても、終わってしまうのはやはり名残惜しいものだ。

 勉強の途中にも関わらず、ついつい思い出に浸ってしまった。気が付けば、1時間ほど経ってしまっていた。

 集中できていない。こんな日もあるかと割り切って今日は帰ろうかと思ったが、かれこれ3日間おなじことを繰り返している。そう、あのライブ以降、毎日だった。

 原因は考えるまでもなく、いな穂だ。昂宗はあの日以降——いや、あのライブの後、いな穂と会話を交わせていないから正確にはライブ以降——いな穂とは会えていない。それどころか、まともに会話もできていない。

 練習に誘っても、『ちょっと忙しいから、ごめんね』としか返ってこない。

 昂宗は残り少ない夏休みで、いな穂ともっと練習して、次の目標に向かって頑張りたかった。といっても次の目標はまだ決まってすらいない。だから、いな穂と話し合って、一緒にそれを決めたかった。

 考えているとモヤモヤしてきて、思考がゴチャゴチャになってくる。

「もうだめだ」

 昂宗はきっぱりと諦めて、荷物をまとめ始めた。図書館の閉館まではあと1時間以上あるけれど、午前だけですぐに帰ってしまっていた昨日までよりは遥かにマシだ。自分にそう言い聞かせて図書館を後にしたのであった。


 キャンパス内にはそれなりに人の姿がある。サークル活動に、部活動、昂宗と同じように自主勉強のために大学に来ている人や、小学生みたいに鬼ごっこをして楽しそうに走り回っているような変わった人もいる。

 何の用事もなくぼんやりとキャンパス内を歩いていると、ポケットのスマートフォンが震えたのが分かった。取り出して見ると、

『スガヤン、今晩一緒にメシでもどうだ?』

 浩二からだった。聡音もいるグループチャットで昂宗に問いかけていた。

『いいですよ』

 端的に承諾を送るとすぐに返信があって、

『19時頃に俺の家な。ギリギリ帰れると思うけれどわかんないから、とりあえず聡音と待っていてくれ。あとお箸だけは自分の持ってきてくれると助かる』

『お待ちしております』

 すぐさま聡音からもメッセージがあった。浩二も料理はできるらしいが、基本的には聡音がご飯を作っているようで、今日もそうなのだろう。

『聡音ちゃん、もしよかったらぼくも晩御飯の用意を手伝いますけれど』

『そりゃ助かる。俺の代わりに買い物の荷物持ちを頼んでいいか?』

『はい。大丈夫です』

『ありがとうございます。それではよろしくお願いします。今から買い物に行こうと思っていたのですが、昂宗さんは大学ですか?』

『そうですよ。今から帰ろうとしていたところです』

『それはよかったです。でしたら、スーパー前で待ち合わせでお願いできますか?』

『わかりました。それでは後ほど』

 そう打ち終えて、昂宗はスマートフォンをポケットにしまうと、校門の方へ歩き出す。

  途中、掲示板の近くを通りかかった。掲示板には学内行事から講義の連絡、学生個人への連絡まで、大学のあらゆる情報が掲示されている。しかしながら、最近はインターネットでも発信されているため、みんな大学のサイトを見て情報を得るし、昂宗も一度だって掲示板に立ち寄ったことがなかった。

 そういうわけでいつも通り、通り過ぎるつもりだったが、どういうわけか掲示板の前には人だかりができていた。見れば背中にギターやベースを背負っている。軽音サークルの人たちのようだ。通り過ぎた後も、彼ら彼女らが異様に楽しそうに見つめていたことが気になって、振り返ってみた。ちょうど彼らが掲示板から離れたタイミングだったので、入れ違いに掲示板の方へ戻ってみる。

 そこにあったのは、大学祭のミュージックステージへの出演者を募集するポスターだった。

 昂宗の通う大学では、大学祭が12月の1、2、3日の三日間に渡って行われている。大学祭が行われていること自体はもちろん知っていたが、昂宗はまるで他人事だったので、思考から完全に外れていたのであった。

 毎年盛り上がりを見せる大学祭ではあるが、特にミュージックステージは人気がある。そのため、ステージに立ちたいと希望する人はオーディションに参加し、その演奏がステージに立つにふさわしいと認められなければならないようだった。

 オーディションは3日後に行われるという。これだ。昂宗は決心してすぐにいな穂にメッセージを送る。

『いま大丈夫? 大切な話があるんだ』


 昂宗は大学近くのファミレスでいな穂を待っていた。浩二と聡音には急用ができたと丁寧に断りを入れて、いつも通り待ち合わせに『喫茶ちくわ』に向かったが、待っているうちに閉店時間の18時になってしまった。しかし、ちょうどそのタイミングで『すぐに行く』と返信があったので、ファミレスに場所を変えたのである。

 連絡から1時間後、いな穂はやってきた。どこで何をしていたのかわからないが、急いで向かってくれたのだろう。少し息が切れていて、髪も乱れているように見える。そしてなぜか異様にソワソワしていて挙動不審である。

 昂宗が軽く手を挙げて居場所を伝えると、カチンコチンと完全に右左の手足がそろっている歩き方でこちらに向かってくる。

『オハヨウゴザイマス』

 そういって頭を下げた。どういうわけか、片言だったように見えた。

『こんな遅くに呼び出してごめん。メッセージでも伝えたけれど、大切な話があるんだ』

 昂宗があらかじめ用意していたノートを見せると、いな穂は雷にでも打たれたようにビクリとしてから、しばらく動かなくなった。それから顔を真っ赤にして、沸騰したやかんのように湯気が出た。

『大丈夫?』

 さすがに昂宗も驚いてしまった。

『え、ええ、ええええ。だだ大丈夫です』

 どう見ても大丈夫ではなかった。いな穂はすでにかなり動揺している。ガタガタと机ごと揺れていた。

『もしかして、ぼくがこれから話すことをもうわかっているのかな』

 さらに顔を赤くして、いな穂は書いた。

『だいたいは察しています、わたしと昂宗君の今後のことだよね』

 そう書かれた文字は手が震えていたせいか崩れていて読みにくかった。そして、いな穂は一人で何かブツブツといっている。なんだかよくわからないが、とにかく察してくれているというなら話しやすい。

『そうか……じゃあ単刀直入にいくね』

『10秒待って…………………………』

 そう言って手を前にして昂宗を制した。ちょうど10秒が過ぎてから、

『はい。わたしも、心の準備ができました』

 昂宗はコクリと頷いてから、

『今度は学園祭の音楽ステージに立ってみないか?』

 いな穂はそれを見た途端、真っ赤だった顔がみるみるうちに真っ青へと変化していった。まさに血の気が引いていった。

『知っていると思うけれど、12月に大学祭があるだろう。その音楽ステージに出ようよ。オーディションが3日後にあるんだ』

 いな穂は俯いて、小さく震えている。先ほどまでとは全く雰囲気が違った。

『この前は立派にみんなの前で歌えたじゃないか。それでさっき大学祭のポスターを見つけて「これだ!」って思ったんだ。きっと今のいな穂ならできるよ。それで歌えるようになったら、そしたら……』

 いな穂がバンッとテーブルを叩いて立ち上がった。その時昂宗がみたいな穂の目は、その真っ青な顔とは対照的に、真っ赤に腫れ上がっていた。カッと目を見開いて、

『……!!』

 そして店から飛び出していった。昂宗が待ってと手を伸ばしたが、届くわけがない。行き場を失った手はそのまま力も失い、重力に逆らえずに落ちてしまった。


 フラフラと街をさまよう。昂宗は何かを間違ってしまったようだった。部屋に帰る気にもならず、目的もなくただ歩き回った。

 あれからすぐ、何度もいな穂に何度も電話をかけたが出るわけもなく、メッセージを送っても音沙汰はなかった。

 宛てもなくさまよっているつもりだったのに、自然と足はいつもの河原へと動いていた。2人で歌っている、いつもの場所。たどり着いたところで、当然いな穂はいない。

 あれから何時間たっただろうか。無気力にスマホを見れば、いな穂からメッセージが来ていた。急いで開くと、

『考えさせて』

 それだけが短く書かれていた。

 がっくりと項垂れる。焦りすぎたか。

 しかしあの日、みんなの前で歌い切ったいな穂は確かに成長していたはずだ。歌声も……あの日、いな穂はどう歌っていた? 

 ただあれだけ楽しそうに歌っていたんだ。きっと嬉しかったはずだ。きっともっと、思い切り歌いたいはずだ。いな穂は『本物』なのだ。実力をもっとみんなに見てもらうべきだ。

「ぼくはまちがっていない」

『待っているから』

 昂宗もそれだけを送った。

 街灯もない真っ暗な河原をひとり歩く。昂宗には何が見えているのだろうか。

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