21.歌おうぜ

 昂宗と知大はそれぞれ準備を進めた。

 昂宗は普段の練習の成果を披露しようと伝えて、いな穂を誘った。その時、いな穂は満面の笑みでブンブンと何度も大きく頷いた。それから数日、二人で一生懸命練習した。

 他方で、もう一つの準備も進めていた。そちらは知大に全て任せたのだが、あっという間に準備を済ませてくれた。

 今日が本番だ。


 雲一つない綺麗な青空。少し強く吹いた風が、半袖からのびる腕を掠める。昨日までの残暑はどこへ行ったのか、ほんの少し肌寒いくらいだった。

 しかしながら、熱くなった気持ちを落ち着けるにはちょうどいいともいえる、つまり、絶好のライブ日和だ。

 昂宗はいな穂に伝えた集合時間よりも随分早くに河原に来ていた。間違ってもいな穂が先に来たりしないように、あえて本来の集合時間よりも遅く伝えている。

 昂宗はひとり、いつもの場所に腰を下ろし、ギターを取り出す。ボディのくびれを左ももに乗せると、軽く指板の上に指を走らせながら、弦をつま弾く。

『……』

 今度はコード引き。エイトビートストロークで適当にかき鳴らす。定番のビートに合わせて、コードを乗せていく。自然とからだも揺れてしまう。

『…………』

 お次にスラップという、弦を叩くようにして弾く奏法だ。もともと昂宗はあまり得意ではなかったから、少し手元がぎこちない。しかし、練習の成果もあって随分とマシになった。自分を褒めてあげたいところだ。

『………………』

 弾きにくい。

 昂宗は目の前でジーっとギターを見つめている想那を見て、苦笑いを浮かべた。いまにも鼻がギターに触れてしまいそうなほどの至近距離だ。これ以上ストロークを続けると、想那の顔を殴ってしまいそうなので、昂宗はいったん演奏をやめた。昂宗が手を止めても、まばたき一つせず、ギターを見つめ続ける。

「……ひいてみる?」

 昂宗がおそるおそる聞いてみると、

『弾いてみる!』

 即答で目をキラキラ輝かせた。そして、昂宗とギターの隙間にスルスルと入り込むと、昂宗の股の間に座り、昂宗の胸にドッサリもたれかかった。

『ねぇねぇたっくん、これどうするのー? 教えて!』

 想那は昂宗から半ば奪い取ったギターを小さな身体で抱きかかえ、首を逸らせながら昂宗のことを見つめる。

 昂宗がビックリしていると、すぐに想歌が飛んで切って、

『こら! 須賀屋さんの邪魔しちゃダメでしょ!』

 想歌の注意に対して想那がなんと言い返したのか、昂宗にはわからなかったが、想歌のあきれ顔に対し、想那は全く気にする様子もなく昂宗から離れようとしない所を見ると、そういうことらしい。

「だいじょうぶだよ」

 昂宗は想歌に告げてから、とりあえず立ち上がり想那の横に座り直すと、

「『かえるのうた』からやってみようか」

『やったー!』

 それを見た想歌は小さくため息を吐いてから、『お願いします』と言ってお辞儀をすると、ふじ乃や聡音のいる方へ戻って行った。そこから少し離れたところで、相志郎と浩二も何か話している。

 いな穂には「」と伝えたが、あれは嘘だった。

 いま、この河原には浩二と聡音、それにふじ乃と守詰三兄妹がいる。知大はいな穂と一緒にこちらに来てくれるためまだこの場にはいない。ちなみに、知明も誘いたかったのであるが、そもそも日本にいないということだった。

 浩二にいな穂の歌を聴きたいと言われた昂宗だったが、おそらくいな穂にそれを伝えたところで、断られるだけであろう。そこで昂宗が考えたのは、いな穂に歌ってくれるようお願いするのではなく、ということであった。

 

 今日はいな穂に歌ってもらうのではない。

 昂宗といな穂のライブを開くわけではない。

 みんなで一緒に歌うのだ。


 その準備として、まず昂宗は今回歌うつもりの3曲のギター伴奏を録音し、知大に渡した。そしてふじ乃たちに録音を配ってもらい、各自で歌の練習をしてもらっておいた。浩二と聡音には昂宗の方から説明をし、知大に連絡をつなぐまでをして、その後の予定調整等は全て彼女が行ってくれた。

 本番は平日の午前。浩二のお店の定休日に合わせた日程だった。

 学生が多いなか、平日で大丈夫なのかと昂宗が知大に尋ねると、

『浩二さんの方から提案をいただいた候補日程をいくつか挙げると、この日だけ全員が調整可能ということだったからだ。とはいっても平日だからな、一応確認は取っているよ。

 ふじ乃と想歌はラッキーなことに学校の創立記念日で休みだ。そう言えばこの時期だったなと、私も記憶している。相志郎は「文化祭当日だから別に行かなくてもいい」とのことらしい。あの好青年は、意外にも高校で浮いているのだろうか。詳しくはわからないが、一般的な高校生と肩を並べると異質なのは間違いないだろうな。まあ、そういうことらしい。想那にいたっては「学校は行っても行かなくても自由だからいいよ」だそうだ。どうにも守詰家は学校への認識が緩いみたいだな。成績もいいようだし、彼女こそだ——言い方は悪いけれどね。だから俗世のことなど、どうでもいいのだろうな。別に悪いことだとは思わない——。私にも多少なり——もちろん彼女とは度合いが違うが——身に覚えがあるから。まあ、想那嬢の自由奔放さには、通常の人類には理解できんだろうからな。あの子は社会に適合するように型付するよりも、どんどん大きく育てて独自の世界を作らせる方が絶対にいい。そういう意味で、学校に行くよりも、ふじ乃やいな穂、そして昂宗のような、彼女を理解してあげられる人がそばにいる場へ行く方が、良いのかもしれない。以上だ』

 その日、知大の連絡を受けてから、昂宗は改めて浩二のもとに挨拶に行った。

 浩二の仕事おわりに合わせて、浩二のもとを訪ねる。昂宗がチャイムを鳴らすとすぐに浩二が出てきた。

『お、スガヤン』

「こんばんは。おしごとおつかれさまです」

『はいはいどうも。スガヤンも勉強お疲れさん。で、どうした?』

 昂宗はそこでスマートフォンを取り出し、メッセージを打ち込む。

の日程が決まったので、改めてご挨拶に来ました』

『ああ、知大さんから聞いたよ。丁寧にありがとう。ちょっと丁寧すぎるぐらいだ。俺とスガヤンの仲なんだから、もっと適当に行こうぜ』

 そう言ってから、浩二は後ろを振り返った。すると聡音が姿を現した。浩二が呼んだらしかった。

『こんばんは』

「こんばんは」

『私の提案をこんな風にかなえてくださってありがとうございます。ライブの方、自分も歌うのは緊張しますが、とっても楽しみです!』

 聡音はメッセージアプリでそう言って、お辞儀をした。

『ぼくの方こそ、こんな形になってしまったのに、そう言ってもらえるととても嬉しいです』

 昂宗もお辞儀を返した。

 すると聡音もまたお辞儀をし返す。それを見て昂宗はまたお辞儀を返す。

 お互いペコペコとし合うのを見かねて、浩二が二人の首根っこを掴んで止めると、

『玄関ではなんだから、とりあえず中入ったら?』

「いえ、これだけなのでだいじょうぶです」

 昂宗はドアに手を掛けた。そこでふと思い出した。

『そう言えば、聡音さんは高校生なのですよね? 当日は、学校の方は大丈夫なのですか?』

 浩二と聡音はお互いに顔を合わせてアイコンタクトを取った。それから浩二が大きく頷くと、聡音はスマートフォンを打ち始める。

『私は、高校に通っていません』

 昂宗が画面から顔を上げると、目のあった聡音の顔は笑っていたが、明らかに引きつっていた。かすかに指先が震えているようにも見える。

『聡音は中学の頃から、ずっと俺のもとで美容師になる勉強をしている。この夏からは俺の店で見習いとして働いてもらっているよ』

 浩二がフォローのようなものを加えた。

『ご両親はなにもおっしゃらないのですか?』

『なにも言いませんよ。私がどうしていようと興味ないみたいなので』

 それを読んでも昂宗はなにもアクションを返さなかった。気まずく感じたのか、異様に焦った風に、浩二はメッセージを打ち込んだ。

『だからさ、俺って世間的には完全に悪い男なんだよな。未成年を誑かして勉強もさせずに不良にしてるって感じでしょ? 実際そうなんだから、なんとも言えないけれどさ!』

「こうじさん」

 浩二の指がピタリと止まる。

「ちゃかさないで」

 昂宗は考えていただけであった。しばらく考え込んでから、昂宗は慎重に文章を打った。

『すみません。たくさん考えましたが、なんといえばいいのかわかりませんでした。こちらの配慮が足りず、言いずらいことを言わせてしまいました。』

『そんなことはありません。私が普通じゃないばっかりに、昂宗さんのことを困らせてしまいました』

 それに対して、昂宗はなぜか笑ってメッセージを打ち込んだ。

『確かに聡音さんは普通じゃないですね。だって、こんなに素敵な彼氏さんと幸せな生活を送っていらっしゃるのですから。そして16歳という年齢で、すでに自分の人生に真剣に向き合っている。ひたむきに夢に向かって努力しているのです。

 この生き方が普通だなんて言われたら、きっといろいろな人に怒られますよ。ぼくだって悲しくなります。聡音さんと同じ歳の頃のぼくといえば、信じてきたものを失い挫折して、生きる気力をなくしていました。なんの目標もなく、そして、適当に生きていました。未だに何も変わっていません。そうしているうちに一生が過ぎて、何も成し遂げられないまま死んでいくのでしょう。多分、こういう人間のことを『普通』というのだと思います。少なくとも、ぼくはそう思っています。もちろん、別にどっちの方が偉いとか、正しいとかそういうことでもないですけれどね。ぼくは普通よりも特別に憧れているというだけであって、普通の方がいいという方や、普通のままでいいという方が多いでしょう。聡音さんも、そうなのかもしれませんね。

 しかしですね、あえて何度でも言いましょう。あなたは普通じゃありません。特別です。間違いないです。そして、普通に憧れるのはいいです。けれど特別なことを卑下してはいけません。胸を張っていきましょう』

 それを読んで、聡音は軽く瞳を濡らしながら、

『昂宗さんに話してよかった』

 そういった。

『スガヤンって、やっぱり変なやつだよなー』

 浩二はあやすように聡音の頭を撫でながら、いつも通りの人懐っこい笑顔を浮かべていた。

『それにですね、今度一緒に歌ってくれる人たちはばかりです——もちろん、ぼくを覗いてですが——。境遇は違えど、皆さん素晴らしい人格と異様に高い能力の持ち主ばかりですから、聡音さんにはとても居心地の良い空間になるかもしれません』


 どうやら昂宗の予想は当たったらしいかった。聡音はすごく楽しそうにふじ乃と想歌と話している。

 その光景を微笑ましく思いながら、横にいる想那を見ると、ギターを弾きながらひとりで楽しそうに歌っていた。小さな手をめいっぱいに伸ばしてコードを押さえているように見えるが、全くもって余裕らしかった。昂宗には音が聴こえないからなんとも言えないが、想那は正確にコードを押さえられているようだ。

 ものの3分で「カエルの歌」をマスターし、その先は教えてすらいないのに、「きらきら星」や「エーデルワイス」といった童謡を次々とマスターしていった。

『どうして弾けるの?』

 昂宗が尋ねると、

『コードって五線譜の上についているアルファベットのことなんだよね? リコーダーが好きで、練習をたくさんしている時に楽譜を覚えちゃったから、それを思い出しながらなんとなく押さえているだけだよ』

 想那はあっけらかんという。昂宗は閉口してしまった。それからは、想那がときどきコードの押さえ方を尋ねるので、そのたびに教えるだけであった。そうして、昂宗が感心しながら想那を見守っていると、

『昂宗さん、想那ちゃんにデレデレしちゃって』

 昂宗を茶化すような笑みを浮かべながらふじ乃がやってきて、昂宗の隣に座った。

『僕なんかよりも、想那ちゃんを選ぶのですね……よよよ……』

『よよよ……じゃないよ。全く、彼氏さんの妹の前でややこしい発言はやめて欲しいな』

『別にいいじゃないですか、想那ちゃんは気づいてないんですから』

 想那はすっかりギターにご執心だ。ふじ乃がこちらに来ていることにすら気が付いていないかもしれない。

『しかも前髪もこんな風に光ってますし……これじゃあ昂宗さんじゃなくて、まるで「スーさん」じゃないですか』

『どういうことだよ』

『僕の苦手なチャラい感じの人間になったってことです。髪が黒くなるまでスーさんと呼ばせてもらいますよ』

『……別にいいけどさ』

 昂宗がそう答えても、ふじ乃は何の反応も返さなかった。隣を見ると、揶揄うように笑いながら、空を見上げていた。口が動いているように見えたが、昂宗にはわからなかった。

『そう言えば、聡音ちゃんはどうかな。仲良くできている?』

『はい。聡音ちゃんはすごくいい子ですね。真面目で一生懸命で。特に想歌とは通じ合っちゃったみたいです。あの子もクソ真面目ですからね。学年的には聡音ちゃんの方が一つ上らしいのですが、誕生日は3カ月も変わらないそうです。ですから同い年だって言って、すっかり仲良しですよ』

 ふじ乃の指さす先には、想歌と聡音が楽しそうに笑い合っている。

『若い子の空気に当てられて疲れたので、昂宗さ……もといスーさんのもとに逃げてきてしまいました』

『人のこと年寄り見たいに言ってくれるな。言っておくけれど、ぼくはふじ乃ちゃんと一学年しか違わないし、しかもまだ未成年だ』

『そう言えばそうでした』

『それに、ぼくよりもふじ乃ちゃんや相志郎君の方が、いや想歌ちゃんも聡音ちゃんも含めて、よっぽど大人だ』

『それって、僕や相志郎が爺婆じじばば臭いってことですか?』

『違うよ』

 急にふじ乃が立ち上がった。そして昂宗の方を見て言う。

『緊張していますか?』

 昂宗が首を横に振った。それを見て、ふじ乃はガッと目を大きく開いた。それからキュっと細めて、

『今日、上手くいくといいですね』

 そう言ってスタスタと昂宗のもとから離れていったのであった。

 その背中を見送っていると、袖口をクイックイッと引かれた。

『たっくん、スマホ鳴ったよ』

 想那が教えてくれた。

 確認すると、メッセージアプリからの通知が着ていた。見てみると、グループトークルームに、知大からのメッセージだった。

『そろそろいな穂と家を出ます。10分ぐらいでそちらに着くと思います。そろそろ心の準備をしておいてください』

 それを想那にも見せると、『ありがと』と言ってギターを返してくれた。

 みんなも知大からのメッセージを確認したようで、みんなが昂宗のもとに集まってきた。

 昂宗を含めて、皆緊張しているようで——想那だけははいつも通り楽しそうに相志郎にぶら下がって遊んでいたが——誰も何も話さなかった。

 昂宗の握りしめていたスマートフォンが震えた。

『昂宗くんはもう着いている? わたしはそろそろ着くよ! 今日はいっぱい頑張ろうね!』

 いな穂からだった。

「そろそろつくそうです」

 昂宗が言うと、いっそう空気が引き締まった。

 みんな昂宗や知大から話を聞いているので、いな穂がどれだけ人前で歌うことに拒絶感を感じているのかを知っている。昂宗たちから伝え聞いている分、いな穂の情況を客観的に受け取れるため、実際にいな穂を見た上で確信している昂宗や知大よりも、むしろ、よっぽど失敗する怖さを覚えているともいえるのである。

 昂宗は心を落ち着けようと、最終確認にチューニングをし始めた。一番細い1弦から順に、チューナーを見ながら音を合わせていく。

 6弦の音合わせも終わって顔を上げると、皆同じ方を見ていた。昂宗もそちらの方を見ると、知大といな穂が歩いてきていた。


 昂宗は大きく3つのハードルがあると考えている。


 一つは、この場まできちんと来てくれること。

 近づくにつれて、いな穂の表情が見えてくる。眉間にしわを寄せて、不安そうだった。歩幅もだんだんと小さくなっているように見える。しかし知大の作戦なのか、二人は手をつないでおり、決して足が止まることはなかった。

 そうして、昂宗たちのもとに辿り着いた。一つ目のハードルはクリアした。

 次は二つ目のハードル、今日のことを伝える。

「きょうはみにらいぶをします」

 そしてあらかじめ準備していたスケッチブックを取り出して、

『ぼくたちの演奏を知大さんと、

 見せると、いな穂はフルフルと何度も首を横に振る。

『わたし、聞いてない』

『「ライブ」するって伝えたよ?』

『ほかの人がいるなんて聞いてない』

 徐々に不安から拒絶へと色の変化が見えてきた。どうする。

『私以外がいたところで、私も聞くのだから。何も問題はないだろ?』

 知大がフォローを入れてくれた。

『ある!』

 聞こえなくてもわかる、大きな声だった。ピンと一気に空気が張りつめた。

『いやいやいや! わたし今日は歌わない!』

 そう言っていな穂は背を向けて走り出そうとした。しかし知大が手を放さなかった。振りほどこうとするけれど、強く、強く結ばれた手は離れなかった。そして知大は言う。


『じゃあ、私が歌っちゃおっかなー!』


 知大は昂宗にアイコンタクトを送る。昂宗はコクリと頷いてから、ギターを弾き始めた。前奏はあえて短く削ってある。

 知大は、足でリズムを取りながら小さく『ワンツーさんしっ』とタイミングを計って歌い始めた。


『あのな、昂宗』

 昂宗が『喫茶ちくわ』でこの話を持ち掛けたあの日、知大は珍しくしおらしくなって言った。

『私は、歌がどうにも下手らしい』

『「らしい」とはどういうことなんですか?』

『人前で歌ったことがないからわからないんだが、しかしな、子どもの頃、知明の前で歌ったときに一発で禁止令が出た。それ以来人前では一度も歌ったことがない』

 昂宗は絶句した。

『そうですか……ぼくは聞いてもわからないので……あ、じゃあカラオケでも行ってみます? 採点マシーンに聞いてみましょう』

 後日出かけたカラオケでは、昂宗の心配をよそに知大は高得点を出しまくっていた。知明の禁止令の意図は不明であるが、少なくとも知大は、歌下手ではないらしかった。


 自分は歌が下手なわけではなくむしろ上手だと機械に証明されたところで、いきなり人前で歌うのは難しいものだ。知大は羞恥からか目をギュッと瞑っていて、顔は見たことがない程に真っ赤である。

 しかしながら、効果は抜群だったようだ。

 そんな知大を見て、いな穂はポカンと立ち尽くしている。すでに知大の手は離されているが、逃げる様子はもうなかった。

 曲のAメロが終わり、Bメロに入るタイミングで今度はふじ乃と想那も一緒に歌い始めた。知大とは対照的に、二人は自信満々で楽しげである。それを見て、聡音と想歌も遠慮がちに、けれどしっかりと歌いだした。

 そしてサビに入った。知大はみんなが合流して安心したのか余裕が出てきたようで、表情も柔らかくなっていた。その横で、なぜかふじ乃と想那は即興で踊っていた。一方、浩二は入り損ねたのか、苦笑いを浮かべていて、相志郎は相変わらずの鉄仮面だった——しかし口ははっきりと動いていたので、歌ってはいるようだった。

 一瞬で一曲目が終わってしまった。

「じゃあつぎのきょくいきましょうか」

『待って』

 いな穂が口をはさんだ。

『どうかしましたか、先輩?』

 ふじ乃が答えた。その背中に隠れるようにして、不安げに想那が覗いていた。その場にいた全員がいな穂を見つめている。それを見ていな穂は何か言いたそうにムズムズとしていたが、上手く言葉にでいないようだった。

『どういうことですか』

 それでもなんとか絞り出したいな穂の言葉に、

『どういうことも何もないよ。いな穂が歌わないというから、私たちが歌っているだけだが』

 あえて知大は冷たくあしらう様に言った。それを聞いて、いな穂は俯いてしまった。しかしもう逃げ出すようなことはなさそうだった。二つ目のハードルもクリア。

 最後のハードルと越えるため、次の曲へ向かう。みんなを見ると、一斉に大きく頷いてくれた。知大を見ると彼女もコクリと頷いた。

「わんつーすりー!」

 二曲目に入る。昂宗が弦を掻いた瞬間、いな穂は顔を上げた。今にも泣き出しそうな表情だ。みんな歌ってくれている。今度は浩二も上手く乗れたみたいだ。目が合うと、歌いながらも相変わらずの人懐っこい笑顔を見せてくれた。

 しかしいな穂だけは歌えないでいた。

 

 最後のハードルは、いな穂が歌うことだ。

 トラウマに打ち勝って、声を出すことだった。

 それさえできれば、きっと。


 歌詞は2番に入る。まだいな穂は歌えていない。

 昂宗にはギターを弾き続けることしかできなかった。

 サビに入る。その時、想那がいな穂に飛びついた。いな穂の胸に顔を埋めながら、彼女の顔を見上げて何かを言っている。それからいな穂が昂宗のことを見た。何かを言ってほしそうで、助けを求めるような目だった。昂宗は当然のように頷き返す。

 すると、いな穂は諦めたかのように、俯いてしまった。

 ダメだったか。

 昂宗が諦めかけた時、全員の視線がいな穂に集まった。そして今度は昂宗に集まる。みな嬉しそうに笑っている。ゆっくりと顔を上げたいな穂は唇を小さく動かして、確かに歌っていた。

 想那がいな穂の後ろに回り込んで、昂宗たちの方にグイグイと押していく。

 自然と環になっていた。みんなの顔がよく見える。想歌と聡音はすっかり緊張も取れたようで楽しそうに歌っている。その様子を微笑ましく見守りながらも、いな穂の歌声に耳を澄ませるのは浩二だ。相志郎は未だ無表情で口だけはきちんと動いている。ふじ乃と想那はいな穂のそれぞれ両手を取って、ブンブンと振り回しながら元気いっぱいに歌ってくれている。当の本人であるいな穂自身は未だ縮こまっていはいるが、しっかりと歌っている。それを見て知大は感極まったのか、歌えなくなるほど泣いていた。

 昂宗にも込み上げてくるものがあったが、グッと堪えてギターに集中する。

 2曲目も終わった。

 シンと静まり返っているのが分かった。誰も何も言わなかった。言えなかったという方が正しいか。

 今、口を開くべきなのは誰か。

 昂宗だ。

「いなほ」

 昂宗が呼びかけると、こちらを向いた。そしていな穂の隣に歩いていく。正面を見据えると、みんなの視線が集まった。

「いくよ」

 全員が唾をのむのを感じた。正面を見据えたままいな穂を確認することも無く、昂宗は問答無用でギターをかき鳴らした。

 最後のハードルも、もう超えた。あとはゴールまで突っ走るだけだ!

 瞬間ビリビリと走る衝撃。いな穂が歌い始めたのだ。先ほどまでなんて比にならない熱量を持って、叫び始めた。

 空気が変わる。全てを圧倒するいな穂の歌は、全てを奪ったのだった。

 

 いな穂が歌い終わると拍手に包まれて、それらは止む様子はなかった。アンコールだ。二人はそれに応えてもう一曲練習中だった歌を即興で合わせて歌ったのだった。完璧に成し遂げると、またしても拍手喝采に包まれた。ライブが終わると、それはもう知大は大泣きで、いな穂を抱きしめていた。戸惑いながらも、いな穂ははにかんでそれに応えていた。

 浩二も満足げで、いな穂に自己紹介をした後に、自分がどれだけいな穂の歌に惚れこんでいるかを語っていた。聡音もいな穂の歌がすぐに好きになったようで、浩二の隣で熱心に相槌を打っていた。ふじ乃たちも楽しかった、すごかったと興奮気味に昂宗に話してくれた。

 この作戦は大成功に終わった。誰しもがそう思った。と、


 しかし、昂宗は大事なことをのだった。

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