20.荒療治
荷物をまとめた昂宗は玄関で靴を履くと、
「ありがとうございました」
頭を下げた。上げるときにチラリ見えたピンクゴールドが少し恥ずかしい。
『いいってことよ』
浩二は人懐っこい笑顔を浮かべた。
『次は浩二さんのお店に伺います』
今回、浩二の粋なはからいで、
『自分でいうのもなんだが、俺の店は結構高いぞ。この部屋でいいならいつもで切ってやるから、切りたくなったら言ってくれ』
『それはできません』
『どうして?』
『浩二さんはプロだからです。これは感謝とか、社交辞令じゃなくて、浩二さんというプロの美容師さんへのリスペクトです。ぼくは今回、「無料お試し」という名目でただを受け入れました。その上で、もう一度、浩二さんのサービスを受けたいと思ったのです。であれば、次からは「お試し」ではないのですから、きちんと対価を支払うべきでしょう。ぼくは浩二さんにその腕前を安売りしてほしくないのです』
それを読んで浩二は少し硬直した後、ニヤリと笑って「いってくれるじゃん」と呟いてから、返信を打ち込んだ。
『こんなちっぽけなサービスだけで金をとれるほど、俺のプライドは安くねぇんだよ。安い化粧台に、座り心地の悪い椅子、専用のシャワー台もない、ハサミにしても櫛にしても安物ばかり。こんな設備もろくに整ってねぇ環境——所詮
浩二の目は、完全に座っていた。昂宗は一瞬、ゾクリと背筋が凍ったのを感じた。しかし、すぐに元の柔らかい表情に戻って、
『要するに、この部屋で切る分には仕事じゃなくて趣味ってことだ。だから今回みたいに多少、俺の好きにさせてもらうこともある。もちろん要望があれば、百パーセント実現するように努力もするけれどね。だから、スガヤンは何も気にすることない。
スガヤンみたいにそれほどオシャレに興味の無い学生が——オシャレに興味がある学生だとしても——いくら俺の腕を気に入ったからと言って、何の躊躇もなく支払えるほど、うちの店は気軽な価格じゃない。スガヤンのことだから、俺がガッカリしないよう、本当にお店に来てくれるんだろうね。けれど、それでスガヤンが貴重なお金を浪費することを俺は望んじゃいない。
なにより、今回のカットは、俺が切りたかったから切っただけだ。プロモーションでも営業でもなんでもない。それをわかって欲しい』
正論だった。昂宗はなにも言い返すことができない。苦し紛れに、
『それでも、何かお返しがしたいです。浩二さんに一方的に甘えてばかりじゃ、ぼくはぼくを許せません』
すると、浩二は昂宗に近づいて、頭を撫でた。
『意外と子どもなんだな』
その言葉に、聡音が噴き出した。
『それを浩二さんが言うのですか!』
聡音はそう打ち込んでからも、笑いが止まらないようだった。
『どういうことですか?』
『実は浩二さん、ずっと昂宗さんと仲良くなりたくて、どうすればいいのだろう、何か話すきっかけはないだろうかって、初恋をした少年みたいに毎日悩んでいたのですよ。だから、今日昂宗さんを連れてこられたときは、「浩二さん頑張ったんだな」って微笑ましく思っていたのです。それなのに、昂宗さんに対して「意外と子どもなんだな」なんて……、しかも、あれだけ奥の手だって言っていたはずの「髪を切る」というカードを、結局すぐに使って……』
『もうやめてくれ!』
浩二は聡音のスマートフォンを奪い取ろうとするが、狭い玄関口でにも関わらず聡音はサラリと器用に躱す。全てを躱され、ゼーゼーと息を吐く浩二を見て笑いながら、続きを打った。
『私が提案するのはおかしな話ですが、昂宗さんがそれだけおっしゃるのならば、このような案はいかがでしょう。昂宗さんとそのご友人のライブを浩二さんの前で演奏するというものなのですが。どうにも浩二さんはこの前に聴いて以来、昂宗さんたちの音楽にすっかり魅せられたようでして、毎日のように私に語ってくれるのです。また、お互い趣味の範疇ですから、浩二さんへのお礼としてはベストかと思われます。
本音をいれば、私も聞いてみたいという所もありますが、どうでしょう』
それを読んで、いい提案だと思った。しかし、懸念はある。
『非常にいい案だと思います。しかし、実現は少し難しいかもしれません』
『どうしてですか?』
『ぼくはいいのですが、歌を歌ってくれている女の子——いな穂って言うんですけど、その子がどうにも……』
昂宗はいな穂についてのことを伝えることにした。
昂宗はいな穂についての話を大まかに伝えた。二人がそれらを読み終わったとき、
『スガヤン……やっぱり女連れ込んでたんじゃん』
『感想がそれかよ!』
浩二がおどけたので、すかさず突っ込む。
『浩二さん。真面目な話しているのですから、ふざけないでください!』
『すまんすまん。そっか、あの子女の子だったんだ。しかもこんな事情を抱えていると。昔なにがあったんだろうか?』
『わかりません。過去に何らかのトラウマがあるということしか……』
『トラウマね……そんなの気にするまでもない素晴らしい歌声だったけれどなぁ』
浩二はかなり残念そうだ。内心、聡音の提案を相当楽しみにしていたみたいだ。昂宗も先日感じた悔しい気持ちを思い出して、苦い表情になる。
『それこそ、また壁越しでもいいんじゃないですか?』
聡音はあえて明るく言った。
『俺はもちろん構わないよ。けれど、それじゃその子を騙すことになるだろ? 前回は不可抗力だったけれど、次は彼女が嫌だとわかった上で盗み聴くことになるってことだ。言い換えれば、その子を傷つけようとするということになる。そんなことは俺にはできないし、そもそもやっちゃいけない』
『そう……ですね。すみません』
重苦しい空気になってきた。昂宗は一刻も早く、この場から逃げ出したくなった。
『とりあえず、いったんいな穂に聞いてみます。もしかすればいいと言ってくれるかもしれないので』
『ああ、じゃあ頼むわ。ちょっとだけ期待してる』
『はい。今日は本当にありがとうございました。それでは大学に行ってきます』
『いってらっしゃい!』
『勉強頑張ってください!』
昂宗は二人に見送られながら、部屋をあとにしたのだった。
大学までの道のりを歩きだす。
少し髪が短くなっただけで、結構見える景色は変わるものだ。目にかかる前髪が無くなって、世界が広くなった気分だ。まだまだ残暑が続く9月の中、頭の風通しもよくなり、熱を持った思考もすぐに冷ませるようなった気がする。いな穂のことをぼんやりと考えながら、そう思った。
正直にお願いすれば、いな穂は了承してくれるだろうか。そうは思えなかった。いな穂の拒絶感は、もはや本人の意思次第でどうこうできるものではないのかもしれない。そして、前回のような不可抗力的な形では達成できないことは確定している。
どうすればいな穂が昂宗と知大以外の人の前で、歌ってくれるのか。
昂宗は懸命に考えながら歩いていたせいで前を全く見ておらず、電柱にゴンッとぶつかった。昂宗は以前に悩み事に気を取られ、バイクに轢かれかけたところをふじ乃に助けられた反省を、全くしていないようだ。俯き気味だったせいで、額一点に全衝撃が行き、痛みのあまり思いっきりのけぞった。ひとり道路上で悶絶する。
しかし、突然ハッとした。脳への衝撃のおかげなのか、昂宗は閃いた。
「ぎゃくにかんがえればいいんだ」
どうすれば歌ってくれるかじゃない。歌いたくないんだから、歌いたくなってくれればいいんだ。
昂宗は早速スマートフォンを取り出してメッセージアプリを起動し、知大とのトークルームを開いた。
『いな穂のことでご相談があります。今日、少しだけお時間いただけませんか』
連絡を入れると、5分もしないうちに返信があった。
『30分後に「ちくわ」でも大丈夫か?』
『わかりました』
昂宗は大学の校門前から踵を返す。行先は急遽、「喫茶ちくわ」に変更となった。
昂宗が「喫茶ちくわ」で自習していると、知大が表れた。Tシャツにジーパン、その上になぜか白衣を纏っていた。さっきまで大学の研究室にでもいたのだろう。
『お忙しい所、ありがとうございます』
窓に面したテーブルに、二人は並んで座る。
『別に大丈夫だ。時間ぐらい作ろうと思えばいくらでも作れる。社交辞令はいいから、本題に入ってくれ』
そう書いたのだった。
『はい。見ての通り、ぼくは髪を切ったのですが』
それを読んで知大はマジマジと昂宗の髪を見つめた。そして、今気づいたように「ほんとだ。前髪が光ってる」とポツリと呟いた。そしてノートを手に取って、
『すまない。後ろ姿じゃ短くなったくらいしか気づかなかったんだ。昂宗にとっては結構攻めたんだな。それなのに気づいてやれなくて申し訳ない。似合っていると思うよ。ただ個人的には昂宗には紫が似合うと思うのだが、』
昂宗は羞恥のあまり、知大が書いている最中のノートにしがみついた。
「かんべんしてください」
そう言って知大を見ると、冗談のつもりではなかったらしい。昂宗の奇行に対して普通に驚いていた。昂宗は大きく咳払いをしてごまかした。
『別にこの髪色についてはいいのです。説明の便宜上触れただけですから、褒めて欲しかったとかそういうのじゃないんです。だってこれぼくの意思じゃありませんし! というのも、実はですね、このカットはプロの美容師さんであるアパートのお隣さんにしてもらったのです。それに対してお金を支払うといっても受け取ってもらえなかったので、だったらお礼として、ぼくのギターといな穂の歌をお返しできればと考えたのです。ですが……』
昂宗がどう言葉にすればいいか迷っているところで、
『なるほど。まあ、いな穂は歌ってくれないだろうな』
知大はすっぱりと言い切った。
『もちろん、そこで終わりじゃないよな?』
『はい。これを見てください』
知大はクツクツと嬉しそうに笑う。昂宗はコクリと頷いて、あらかじめ用意しておいたページを見せた。
すべて読み終わったとき、
『荒療治過ぎないか?』
すこし苦笑いだ。
『いな穂なら乗り越えられます』
昂宗は自信を持って答えた。ジッと昂宗の瞳を見つめてから、知大は大きく頷いて、
『わかった。協力しよう。私も一肌脱ごうじゃないか』
そう答えたのだった。
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