19.散髪

 朝、大学で勉強しようと思って部屋を出たところ、寝起きらしい浩二が扉の前で煙草をプカプカ吸いながら、大きく伸びをしていた。高く伸びた手が、天井についてしまいそうだった。昂宗は部屋の鍵をカチャリと締めてから、

「おはようございます」

 挨拶をすると、浩二は虚ろな目のままこちらを見て、

『ああ、スガヤン。おはよー』

 それからふぁぁと大きなあくびをした。浩二は初めて会話したときと同じTシャツにジャージを着ていた。髪は結ばれていない。長い髪がサラサラと風に吹かれて揺れている。普通ならば、この眠そうで気だるげな様子はだらしなく見えるが、浩二の場合はむしろスタイリッシュに見えてかっこいい。ピアスもフル装備だ。つけたまま眠っているのだろうか?

 昂宗はスマートフォンを取り出して、

『今日はお仕事、お休みですか?』

 浩二はポケットに触れてから、足元に置かれている簡易灰皿(空き缶のラベルには「鯖の味噌煮」とある)に煙草を捨てると、昂宗に手のひら見せて、

『ちょいまち』

 そう言ってから部屋に入って行った。待つこと数秒、浩二はスマートフォンを握りしめて戻ってきた。

『そうだよ。今日は定休日。本当はもうちょっと寝たかったんだけれど、起こされてね。目を覚ますためにこうやって外の空気を吸ってるんだ』

 また、ふぅあああと、さっきよりもいっそう大きなあくびをした。それから煙草を一本取り出して昂宗の方を見る。昂宗が頷くのを確認してから、浩二は火をつけた。

『誰に起こされたんですか?』

『彼女。昨日、泊まっていたからね』

『そうなんですか』

『あ、大丈夫。別にうるさくはしてないから。俺たちレスだし』

 昂宗は思わず噴き出した。顔を真っ赤にして咳込む。

『スガヤンって意外とうぶなんだね。音楽やってるって聞いたから、勝手に女癖が悪いもんだと思っていたよ』

 浩二は腹を抱えて笑っている。そんな様子を昂宗は恨めしく見た。

『どういう偏見ですか! だいたいこんな朝早くから大学で勉強しているという真面目を絵に書いたような人間が、そんな風に遊んでいるわけがないでしょうが!』

 それを自分でいうのか? というツッコミは、いまの混乱している昂宗には浮かばなかった。

『だから、女遊びまくった高校時代を経て、丸くなったのかなって』

『違います! そんな過去はありません! そもそも、たかが隣人関係のぼくに対して教える必要はないでしょう! しかもこんな朝っぱらから!』

『だってさ、スガヤンが聴こえないのをいいことに毎日ヤリたい放題してるって思われるの嫌じゃん』

『そんなこと思いませんよ!!』

 浩二は一通り笑った後、急にまじめな顔をして、

『確かに、どうしてこんなこと教えたんだろう。俺、こんな見た目だろう? それこそ先入観から、そういう目で見られてきたんだ。だからはかなり気にしているし、昔馴染みはともかく、最近親しくなった人たちには言ってない。

 先入観から生じる偏見とかも、大っ嫌いなんだ。冗談ですら言わないように日頃から気を付けている……はずなんだけれど、なぜかスガヤンには言いたくなったんだよな。口が滑ったとかそういうのじゃなくて……スガヤンはこう、不思議な感じがする。なぜなんだろう』

 浩二は真剣に考えこんでしまった。しばらく待っても動かない。

「あの」

 昂宗が言うと、やっと浩二は顔を上げた。

『理由はわかりませんが、信頼してくれているということでしょうか?』

 それを読むと、浩二は出会ったときと同じ、親しげな笑みを浮かべて、

『かもしれないな』

 そう言った。

『であれば、せめてその信頼には応えられるように頑張ります。もちろん浩二さんのことは口外しませんから、安心してください』

『言われなくても、安心しているさ。信頼しているからね』

 浩二はもう一度大きく伸びをした。昂宗はそろそろ大学へ向かおうと思って、スマートフォンに行ってきますを伝える口上を打ち込んでいると、

『スガヤンはいまから大学で勉強?』

 ちょうど切り出しやすい話題が上がった。

『そうですね。夕方まで大学の図書館に籠って勉強する予定です』

『そっかー。じゃあさ、午前中だけスガヤンの時間を俺にくれない?』

 急な誘いだった。少し迷ったが、勉強はいつでもできる。だから断る理由はなかった。

『いいですけれど。どういうことですか?』

『スガヤンは最後に髪切ったのいつ?』

『たしか、』

 いな穂と会うようになった最初の頃、昂宗は彼女に嫌われないためにせめて清潔感を持っていたい思って、髪を短く切ったことを思い出した。それ以来となると、

『5月末ぐらいですかね』

『え、4ケ月も美容院いってないのか?』

『そんな、美容院なんて行ったことないですよ。その時ぼくが行ったのも1000カットの散髪屋でしたし』

 すると、浩二はポトリと煙草を落とす。それを踏み潰すと、さっきまでまどろんでいた目をカッと見開いて、昂宗にツカツカと詰め寄ってきた。後ずさりするも、壁際に追い込まれた。

「どうしました?」

 昂宗は恐る恐る問い掛けると、ダンッ、と両手で壁ドンをされる。そして浩二は左手で一度自分の髪をかき上げてから、昂宗の髪に触れると、

『俺にスガヤンの髪を切らせてくれ』

 そう言ったのだった。

 浩二はスマートフォンをポケットに入れて、昂宗の腕をつかむと自分の部屋の方へ引っ張ってゆく。途中踏み潰した吸い殻を丁寧に拾って灰皿に入れていた。

 昂宗は浩二に手を掴まれて、部屋に連れ込まれる。

 入ると、キッチンで女性が料理をしていた。味噌汁の味見をしながら、『おかえりなさい』とこちらに振り向き、昂宗のことを凝視する。

『どちらさまですか?』

 そう言ってから、彼女はクイッとまん丸メガネを押し上げた。

 昂宗は浩二よりも後ろにいるため、彼がなんと言っているかわからないが、一通り説明をしてくれたのだろう。

『そうなのですか。いらっしゃいませ』

 彼女はそう言って微笑んだ。

 浩二は靴を脱いで、部屋に入ってゆく。そして昂宗の方に振り返って、

『入っておいで』

 こまねいたので、

「おじゃまします」

 昂宗も靴を脱いであとに続いた。

 浩二の部屋の間取りは昂宗の部屋とほとんど同じだった。ただ部屋の一角に、美容室を切り取って持ってきたような空間があるせいで、なんだか異質だった。

 昂宗がキョロキョロしていると、浩二はテーブルの椅子を引き、

『ここ座っていて』

 昂宗は移動して、大人しく座る。

 浩二はキッチンの方に戻って行き、お皿を運んできた。

『ごめん、俺たち朝食とっていないから。スガヤンも食べるよね?』

 テーブルに朝食が並んでゆく。

 昂宗が首を横に振っても、

『まあまあ。いいからいいから』

 というだけだった。目の前には、白米と味噌汁、卵焼きに漬物と納豆、そしてもずく酢が並んだ。どういうわけか、もずく酢の存在感に笑いが込み上げてくる。昂宗にはツボだったようだ。なんとか笑いをかみ殺して、

『朝から結構食べるのですね』

『まあね。朝ごはんは大事だよ。食べられるかい?』

 昂宗はもちろんすでに朝ごはんは食べている。しかし無理することなく食べることができる量だった。

『大丈夫です。ありがたくいただきます』

『さすが若者は違うね』

 浩二は昂宗の目の前に座った。少し遅れて、浩二の彼女もエプロンを脱ぎながら、キッチンからやってきた。そして浩二の隣に座る。改めて見るときれいな女性だった。浩二の履いているジャージのハーフパンツバージョンにキャミソール姿。昂宗には少し刺激的な服装だ。浩二とは対照的なベリーショートがよく似合っている。

 浩二に何か話しかけている。それから二人はスマートフォン取り出して操作し始めたが、それを無視して食べ始めるわけにもいかない。昂宗は、ただそれを見ていることしかできなかった。手持無沙汰にその光景を眺めていると、浩二は昂宗のスマートフォンを指さして、『見て』と言った。

 確認すると、

『彼女がスガヤンとも話したいっていうから、三人でトークするためのグループを作ってもいいかな?』

「もちろんです」

 昂宗はそう言って頷く。

 すると、早速トークルームが作られた。

『初めまして。私は浩二の彼女の九条くじょう聡音さとねと申します。よろしくお願いします』

『初めまして。ぼくは須賀屋昂宗と申します。朝からお邪魔した上に、朝食までごちそうになるなんて、恐縮です』

『俺が誘ったんだから、いいんだって。なあ?』

 浩二と見合った聡音は微笑んでから、頷いた。

『むしろ、私の見苦しいすっぴん姿を見せる方が申し訳ないです』

「なんと」

 昂宗はつい言葉が漏れてしまった。

『とても美しいので、そうは見えません』

『あら、褒められちゃいました』

『こら! 彼氏の前で堂々と口説くな!』

 三人で声を上げて笑った。

 聡音は浩二と同じで、とても優しく笑う。恋人同士は似てくるというのは本当みたいだ。

『お話はまたあとでゆっくり聞くとして、とりあえずいただきましょう。冷めてしまいます』

 聡音が静かに手を合わせたので、浩二と昂宗も手を合わせた。

「『いただきます!』」

 昂宗は久々に誰かと朝食を囲む。美味しくないわけがなかった。


『さて、どんな髪型にしようか』

 浩二は、散髪用ケープを身にまとい鏡の前に座る昂宗に雑誌を渡して、後ろから覗き込む。

『お任せでいいのですが』

 昂宗はページをペラペラとめくりながら、そう打ち込む。一通り見ても、これと言った髪型はなかった。そんなことよりも、モデルの男性たちが決め顔をしているのを見ていると、無性に恥ずかしくなる。

『須賀屋さんはずっと髪は長めなのですか?』

 待ち相席のように椅子を置いて、横から散髪の様子を見ている聡音が尋ねた。

『そうですね。いまの九条さんよりも短くしたことは一度もありません』

『そうなんですか。私の髪が短いのは、長いと面倒だからということもありますが、一番の理由は、浩二さんに髪を切ってもらうことが好きだからなのです』

 昂宗は鏡越しに浩二の方を見た。なんともない顔で窓の外を見ていたが、どう見ても不自然である。ジーッと見つめていると、次第に顔が赤くなってきて、

『二人とも見るのやめろよ!』

 そう言いながらシッシッと手で視線を払う。どうやら聡音も見ていたようだった。

『髪が長いと浩二はもったいないって言って切ってくれないのです』

『浩二さんは今の九条さんと長い髪の九条さん、どちらが好きですか』

 それを読んだ瞬間、『調子に乗りやがって……』と浩二は恨めしそうにつぶやいたが、聡音が興味津々に応えを待っていることに気が付くと、大きくため息を吐き、

『聡音ならどっちも似合うから、比べられない』

「……、いたっ!」

 そう打ち込んでから、急に昂宗の頭をバシッと叩いたのだった。

 聡音はうれしそうに頬を染めている。

『ほら、さっさと切るぞ! 俺の好みで切るけどいいな?』

「はい。よろしくおねがいします」

 昂宗はペコリと頭を下げる。

『よろしくね』

 すでに浩二の表情は笑顔だけれど真剣そのもので、完全にプロの顔つきだった。

 まずは霧吹きで軽く昂宗の髪を湿らせてから、パチパチとリズムよくハサミを動かす。

 やはりここは異質な空間だった。

『どうしてこの部屋には散髪専用の空間があるのですか?』

 昂宗が打ち込むと、聡音がそれを読んで浩二に伝えてくれる。そして浩二の話を聞いて聡音が浩二のスマートフォンから返してくれる。

『ここは基本的には聡音の練習用のスペースだ』

『なるほど。九条さんはまだ美容師見習いなのですか。ということは今は専門学生ですか?』

 昂宗の文章を聡音が読み上げた瞬間、浩二の手が止まった。鏡越しの浩二は苦笑いを浮かべていて、聡音は少し気不味そうだった。浩二は聡音に対し『大丈夫、言ってもいいよ』と言って頷いた。

『私がいくつに見えますか?』

 聡音がそう聴いてきたので、

『そうですね……初めは20代半ばぐらいだと思っていましたが、話を聞く限り20~22歳ぐらいではないかと予想します』

『実は私、まだ16歳なんです』

「は?」

 昂宗の思考はフリーズする。

『あの、浩二さんっていくつなんですか?』

『いくつに見える?』

『20代後半ですかね』

『正解。28歳』

 …………、

「はんざいじゃないか!!」

 昂宗はつい叫んでしまった。

『というか、それならレスなのは当たり前じゃないですか! レスしないどころかネバーしたことがないですよ! ……え? まさか……』

 浩二は少し恥ずかしそうにしながら、『』と意味深長なことを言う。聡音はさっき以上に顔を赤くしている。

 昂宗は一度、大きく深呼吸をして心落ち着ける。そして冷静に考える。

『驚きました。ですが、ぼくが口を出す筋合いはありません。忠告なんて差し出がましいこともできません。ただ、お二人のことを応援いたします』

 そう打ち込むと、二人は嬉しそうに笑って、

『ありがとう!』

 やっぱり同じ笑顔だ。

『それで、九条さん練習用というのは、つまりそういうことなんですか?』

『はい。私は将来、美容師になって、浩二さんと二人で美容室を開くことが夢です。そのために浩二さんに稽古をつけてもらっているのですが、そのためのスペースです』

『そうなんですね。その歳で将来のビジョンを明確に持っていて、素晴らしいです』

 昂宗は高校生の頃を思い出す。音楽を捨て、ただがむしゃらに勉強して、友達と遊んで、将来なんて何も考えていなかった。

『あの、須賀屋さん。私のことは「聡音」とお呼びください。せっかくなので、浩二さんの特別なお友達である須賀屋さんとは、もっと親しく接したいです』

『わかりました。聡音さん。そうであれば、ぼくのこともスガヤンでいいですよ。敬語も不要です』

『でしたら、昂宗さんと呼ばせていただきます。さすがに「スガヤン」は少し恥ずかしいです。わたしは丁寧語の口調が癖になっていますので、その辺りはお気になさらず』

 その時、浩二が昂宗の頬をムニッと押した。

『聡音はやらんからな』

 鏡越しに、浩二の口が動いた。どうやら昂宗のスマホの画面から会話を読んで、やきもちを焼いているらしい。

 すると聡音が立ち上がって浩二の横に立つ。昂宗も浩二もキョトンとしていると、聡音は浩二の腕を引っ張って無理やりかがませると、それでも足りない分はつま先立ちをして、頬にキスをした。それから、浩二の頭を抱きしめて、

『聡音はぜんぶ、浩二さんのものです』

 何度か優しく浩二の髪を撫でてから、席に戻った。浩二はしばらく放心状態だった。

『何しているんですか。早く切ってください』

 昂宗はそう打ち込まれたスマートフォンの画面を見せる。するとハッと意識を取り戻し、気合十分な様子で、

『まかせろ! かっこよくしてやるから!』

 浩二はウキウキを隠す気もなく、上機嫌にカットを再開したのだった。以降、昂宗と聡音がどれだけやり取りをしていようと、まるで気にならないようだった。

 浩二のカットはとても心地よかった。リズミカルにパチパチと弾けるハサミと撫でるように髪に通される櫛、髪や頭に触れる浩二の手付きはシャボン玉を扱うかのように丁寧で柔らかく、心が解けてゆく。次第に眠たくなっていった。

 昂宗が船を漕いでいると、

『寝ても大丈夫だよ』

 浩二はそう言った。それが完全に昂宗の糸を切った。

 

 次に肩を叩かれたとき、散髪が終了したことに気が付く。

『立って! 洗いに行くよ!』

 浩二にそう促され、昂宗は鏡を見る間もなく、洗面所へ連れていかれた。そして髪を洗い流される。タオルで頭を拭かれ、また椅子に戻る。鏡には布がかけられており、見ることができなかった。ドライヤーで乾かされて、

『さて、じゃあ髪型を披露しましょう!』

 浩二が聡音に合図を送って布が取られた。

 そこには、さっぱりしたショートカットになっている昂宗がいた。普通にかっこよく、気に入ったのだが、

「えぇ……」

 それを見た昂宗からは、戸惑いの感想が漏れた。

 なぜか前髪だけがピンクゴールドに輝いていた。

『かっこよくない?』

 浩二はとても楽しそうである。

『派手過ぎませんか?』

『大学生なんだから少しは髪色で遊ばないと! こんな機会じゃないとスガヤン髪染めたりしないだろうし、これを気にオシャレに目覚めてくれたら最高だし!』

『似合ってますよ。昂宗さん、かっこいいです』

 褒められて悪い気はしなかった。

 もう一度しっかりと自分の姿を見る。いな穂はこれを見てなんていうのだろう。ぼんやりと、そんなことが頭に浮かんだのであった。

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