18.深傷と仮面
昂宗はひとり、河原でギターを弾いていた。
こうしていると、春の終わりを思い出す。あの人に出会ってギターを取り戻した5月、昂宗はこの河原にある橋の下のスペースで、わずか数週間ではあるが、毎日ギターを弾いていた。数か月前のことなのに、遥か昔のことのようだ。それくらい、昂宗は濃厚な数か月を過ごしてきた。
相も変わらず、ギターをジャカジャカかき鳴らしたところで聴こえない。このひっそりとした冷たい空間いっぱいにギターの音は響いているはずだが、昂宗の耳には届いていなかった。
また、昨日のセッションで爪がズタボロになったため、指がジンジンと痛む。だから今日はピックを使っているが、ピックを持つにも指は使うわけで、うまく力が入らない。ピッキングするたびにジクジクと痛みが走り、しばしば弦に跳ね返されてピックを落としてしまっていた。
しかし、それらのことなど微塵も気にならないで、昂宗は懸命にギターを弾き続けている。聴こえなくても、指が痛くても、決して昂宗はギターを弾くことを止めなかった。
昨日のセッションは、左手で押さえたコードをひたすら激情にまかせてぶっ叩いていただけで、技術もへったくれもなかった。だからそのときはどうでもよかったのだが、今朝になって改めて弾いてみると、演奏の腕前は完全になまっていて無性に恥ずかしくなった。そのリハビリがてらの練習だった。
これからは、いな穂と一緒にたくさんの音楽を創っていくことになる。昂宗はいな穂のギターなのだ。しかし、このままではギターとして支えるどころか、足を引っ張ることになる。それは許されないのだ。誰よりも、昂宗自身が許さない。
昂宗は中学生の頃に手癖のように弾いていた基礎メニューを覚えている限り弾くことで、まずは初心を取り戻そうとしていた。基礎ができていなけば、何にもならない。ハリボテの技術など、いな穂の前では消し飛んでしまう。
思うように動いてくれない左手をもどかしく思いながら、何度もなんども弾いていると、右隣に誰かが座った。確認するまでもなくいな穂だ。
昂宗は練習をやめて、「おはよう」と言った。いな穂も、『おはよう』と返した。
『待たせちゃったかな?』
早速、いな穂は取り出したノートに書きこんだ。
『いいや、ギターを弾くためにここに来たわけだからね。むしろ付き合ってもらって申し訳ない気持ちだよ』
昂宗はいな穂と待ち合わせで河原に来ていたわけだが、もともとはいな穂と共に歌うための曲の楽譜を探しに行くことを予定だった。本来ならば駅に集合となるところを、昂宗が午前中はギターを弾きたいから買い物は午後からと言ったがために、こうなってしまった。
『わたしだって、自分から昂宗くんのギターを聴いていたいって言いだしたんだから、別にいいんだよ』
それからいな穂は『ほら、弾いて?』と言った。昂宗はさっきまでの基礎練習に戻る。いな穂は目を瞑ってタンタンと楽しそうにリズムを取り始めた。
午前中いっぱい、昂宗は練習に使った。いな穂が心底楽しんでくれていたのが分かったので、遠慮せずに集中できた。終わったときには「ありがとう」と伝えた。
それから二人は楽譜を探しに楽器屋に出かけた。
楽器屋にくると、昂宗はいつも胸が高鳴る。Muneの影響もあって、昂宗はアコースティックギターが一番好きであるが、それ以外の楽器ももちろん大好きである。中学の頃は毎日のように楽器屋に通った。そして大量にならんだあらゆる楽器を見ては、音を想像して、時にはギター以外の楽器でも試奏させてもらっていた。高校時代にも、ギターはやめようともCDを買いによく行ったものだった。
耳が聴こえなくなってから、今回が初めて店に足を踏み入れる機会だ。入店前に大きく深呼吸して、気持ちを落ち着かせる。落ち込む準備はできていた。
しかし、それは杞憂に終わった。胸の高鳴りは全く変わらなかった。ドキドキワクワクが止まらない。楽器屋にきた目的もすっかり忘れて、昂宗は熱心に一つひとつ楽器を見て回った。そんな中、一つ、とても気になるギターを発見し、試奏したいと思った。そして店内を歩く店員に声を掛けようとした瞬間、我に返った。振り返っていな穂を見ると、
『ギター、ほんとに好きなんだね』
なんて言いながら、苦笑いだった。
「ごめん」
昂宗が謝ると、いな穂は首を横に振った。
それからやっと、二人は楽譜コーナーに向かった。
いな穂は真剣な表情で棚から弾き語り用のスコアを抜き取っては、パラパラと見ただけですぐに戻してしまう。
『やりたい曲はあった?』
昂宗が尋ねると、
『うーん、ない。ここには譜面置いてなさそう』
それだけ書いて、また真剣に棚を見つめる。
『ちなみに、なにが歌いたいの?』
すると、いな穂は歌手名と曲名をいくつかスラスラとノートに書きだした。それらは、昂宗が聴いたことのある曲ばかりであったが、しょせん聴いたことがある程度である。それらを思い出して演奏にできるわけではなかった。せめてコード進行ぐらいはわからなければ厳しい。
いな穂が曲から耳コピしてスコアを書ければ解決するが、おそらく無理であろう。
昂宗がひとりで頭を悩ませていると、『あった!』とスマートフォンを見つめていった。そしていな穂が見せてくれたのは、有料で譜面を購入できるサイトであった。
さっそく二人は店をでてコンビニに向かい、支払いを済ましてから譜面を印刷した。印刷したての温かい譜面を抱えて、いな穂はホクホクと満足げの表情である。それからすぐに、
『ねえ、これから弾いてみてよ。お願い』
いな穂が頼んできた。昂宗はもちろんだと頷いた。
一度「喫茶ちくわ」で昼食をとってから、河原へ向かった。
河原は先ほどと比べて人が増えていた。散歩をするお年寄りや、ジョギングをしている人、サイクリングをする人。いろいろな人が昂宗たちのいる前を通り過ぎてゆく。
昂宗は特に人の目を気にすることなく、スペースに着くとギターを取り出した。「喫茶ちくわ」にいる間に、いな穂が一番歌いたいと言った曲のスコアを見て、何となく曲の雰囲気をつかんでおいた。だからすぐにでも弾いて、形にしたかったのだ。とりあえず通して弾き切ると、いな穂は『いい感じ』といってパチパチ拍手してくれた。しかし妙に表情は引きつっている。
「ありがとう」
昂宗はホッと息を吐く。それから周りを見れば、えらく注目されていることに気が付いた。夜に人通りの多い街中や駅前でストリートミュージシャンがライブをしているのは珍しくないかもしれないが、日中に河原で堂々と練習するする姿は、むしろ目を惹くようだ。いくらかの人はピタリと足を止めて聴いてくれていたようだった。拍手をしてくれている人もいた。それこまでして聴いてくれた嬉しさと、自分の下手さに対する恥ずかしさが綯い交ぜになるが、いまの昂宗には失うものは何もない。それどころか、練習しなければ技術は身に付かない。
『じゃあ、いったん合わせてみようか』
昂宗が言うと、途端に顔色が悪くなってゆき、
『やっぱり今日はやめておくね』
と書いた。
『どうして? 体調悪い?』
昂宗が聴いても、いな穂は何も書かなかった。無理やり作った笑顔をこちらに向けるだけだった。
その日以降は、思う存分二人で音楽をたのしんだ。
昂宗には聴こえないけれど、譜面をみて、いな穂とコミュニケーションをとることで曲のイメージを自分の中に作ってゆく。そして、それをいな穂が歌う。一曲一小節一音、大切にしながら二人で作り上げてゆく。
耳の聞こえなくなった今でもこうして音を楽しめるとは、失ったあの日には思いもしなかった。勉強と音楽の毎日は重ねるたびに、充実していった。
数週間の練習で、昂宗といな穂は、なんとか一曲を仕上げることができた。中学の頃の昂宗であれば、たかが一曲にどれだけ時間をかけているのだ、と馬鹿にするかもしれない。しかし、いままでに得たことのない達成感を昂宗は感じていた。心の底から嬉しかった。
しかしながら、昂宗には一つ、気がかりなことがあった。
昂宗といな穂の練習はいつも河原で行っている。本当ならばスタジオなどを利用できれば良いのだが、あいにくそれほどお金に余裕はない。それにこれは昂宗といな穂の遊びだ。プロを目指して本気で取り組んでいるわけではないのだから、演奏をして迷惑が掛からない環境が利用できるならばどこでもよかった。なにより、昂宗はこの河原がお気に入りだった。
河原で行っている以上、人目がある。時間帯によって人通りの多さに違いはあれど、いつ練習していても必ず一人はひとが通る。いな穂はそれに気づくたび、曲の途中でも手を挙げて、昂宗のギターを中断させると、
『ごめん、ちょっとのど渇いちゃった。お水飲むね』
だとか、
『あ、くしゃみでそう!』
だとか、なにかと理由をつけて歌うのをやめていた。いな穂はバレていないと思っていたようだから、昂宗も気づいていないフリを続けていた。
しかし、どうしても誤魔化せない出来事があった。
昂宗たちはまだ人通りが比較的少ない午前中に練習するようにしている——というより、いな穂はいつも午後からバイトを入れているので、そもそも午前じゃないとできない。その日も午前中にのびのびと練習していた。まだ誰も通っていなかったので、いな穂は集中力が乱されることなく歌うことに夢中になっていた。
そんな中、昂宗は気が付いた。橋の柱の向こうから、小学生ぐらいの女の子が覗き込んでいたのだ。昂宗たちの歌を聴きたいが、恥ずかしいようだ。おいで、と呼びかけたかったが、昂宗はギターを弾いているのでジーっとただ目線を送り、笑いかけることしかできなかった。
女の子は昂宗の視線からなにか感じ取ってくれたようで、
『いいの?』
と言ったのがわかった。昂宗は大きく頷く。
すると、その女の子は満面の笑みを浮かべながらこちらに駆け寄ってきた。瞬間、いな穂は女の子とは真反対の方向に全力で駆け出した。そしてあっという間に堤防を駆け上がり、見えなくなった。それを見て、女の子は顔を真っ赤にして泣きそうになりながら、それでもどうにか振り絞って、
『ごめんなさい……』
そう言い残して、走って帰って行った。
しばらくして、いな穂は帰ってきた。
『ごめん』
その時も真っ青な顔に、無理やり笑みを浮かべた表情を張り付けていた。昂宗はなにも聞かなかった。聞くことができなかった。
それからは、いな穂はあからさまに歌うことを止めることはしなくなった。誰かが通っても演奏を中断させようとはしなくなったのだ。しかし、昂宗には、なんとなくわかった。いな穂は他人が見えると、口パクするようになったのだ。
昂宗が聴こえないから、そういう手段で誤魔化せると思ったのだろう。しかしいな穂の歌は聴こえなくとも、響いてくるのだ。魂に。だから確信していた。
知大が言っていた。
『いな穂は人前では歌えない』
『私は知らないけれど、なにかトラウマがあるみたい』
『君となら歌えるかもしれない』
昂宗は悲しかった。
自分を口パクで騙そうとしているいな穂の態度なんて大したことはない。
いな穂が自由に歌うことができないことが、心底悲しかった。
彼女が抱えるなんらかの呪縛から、解き放ってあげたい。しかし今の自分になにができるのであろうか。彼女はいったい何を抱えているのだろうか。
少なくとも、知大の期待は外れ、昂宗もいな穂を自由に歌わせてあげることはできないみたいだった。
昂宗は今日もいな穂の隣でギターを弾き、自己満足に浸ることしかできないのだ。
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