17.勘違い
二人のセッションは、いな穂の悲鳴によって突然終了した。
『待って、待って、待って待って!』
そう言っていな穂が昂宗の右手にしがみついてきた。昂宗がギターを弾く手をやめたのを確認して、急いでいな穂は部屋のパチリと電気をつけた。
キュッと瞳孔が閉じていくのが分かった。昂宗は眩しくて、右手で明かりを遮った。するとポタリポタリと何かが顔に滴ってくる。
「ん?」
薄く目を開けながら右手を見ると、血まみれになっていた。
「わあ」
そんなまぬけな声を漏らす昂宗とは対照的に、いな穂は顔を真っ青にして台所で濡らしたタオルを持って戻ってきた。そして昂宗の右手に当てた。
「いたっ」
そこで初めて、自分の指先に痛みを感じた。ズキズキと脈打っている。どうやら指で弦を弾いているうちに、人差し指と中指の爪が割れてしまったようだった。指弾きなんて久しぶりだった。ましてや、あれだけ激しくストロークしていれば、当然の結果だった。
『大丈夫?』
いな穂が心配そうに見つめてくるので、とりあえず頷いてから、タオルを受け取り、自分で血を慎重に拭う。ついでに顔やギター、床に付いた血もふき取った。割れた爪には絆創膏を何枚か張って誤魔化した。
そして二人でフウッ、と大きなため息をつく。あまりにもピッタリなタイミングだったので、昂宗といな穂は見つめ合って、笑った。
「ありがとう」
昂宗は感謝を口にして伝えた。
『こちらこそ、ありがとう』
いな穂も、それに答えた。
昂宗は床に落ちているノートを拾って、指の痛みを堪えながら、汚い字でなんとか書く。
『また、ぼくのギターで歌ってくれますか』
それを読んだ途端、ホロリホロリといな穂の瞳から雫がこぼれ落ちてきて、何度もうなずきながら、
『これからもわたしに歌を歌わせてください。たくさん、たくさん、昂宗くんのギターで、歌いたいの』
そう書いて、昂宗の右手をまた握った。雫が落ちて、昂宗を濡らす。ジワリと広がって、痛みが染みわたる。これは昂宗の痛みであり、そしていな穂の痛みでもある。
昂宗は静かにいな穂の手を握り返した。
しばらくしていな穂は部屋をあとにした。電車はまだ走っているが、今日は知大の部屋に泊まる予定だったらしい。心配だからと言って、昂宗はいな穂を知大の住むアパートまで送っていくことにした。
アパートのすぐ前まで送ると、昂宗はすぐに引き返した。いな穂は知大に挨拶していったらどうかと提案したが、遠慮しておくことにした。気軽に立ち話ができるほど、昂宗とのコミュニケーションは手軽ではない。気を遣わせるわけにはいかないし、何より昂宗自身疲れていた。それを察したいな穂は、それ以上なにも言わなかった。
カンカンと階段を上っていくいな穂に手を振って、来た道をひとりで歩いていく。それほど遠い距離というわけではない。10分もかからずアパートに戻ってきた。さっさと風呂に入って寝ようと思っていると、部屋の前に人影があった。暗くてよく見えないが、髪が長くスラリとしていて、女性モデルのようなシルエットだ。昂宗の部屋に寄りかかりながらスマートフォンをいじっている。
隣の部屋の人の彼女だとか女友達だとかが、酔っ払って部屋を間違っているのだろうと思いながら、特に気にすることなく歩みを進めると徐々に様子が見えるようになって来た。後ろで束ねられた長髪が似合っているが、明らかに身長は190センチ近く、体つきもほっそりしているがよく見れば意外とがっちりしている。どうやら男性らしい。昂宗の知らない人だった。昂宗がうっすらと覚えている隣人の姿は、昂宗より背が低く筋肉質だったはずで、おおよそ真反対の外見だ。とすれば、男友達だったりするのだろうか。自分には関係ないと言い聞かせるが、トクトクと鼓動は次第に早くなっていく。
彼の顔は廊下の電灯によって逆光になっているが、スマートフォンの画面の明かりに照らされることで、キラリと光っている。また、どういうわけか左手には箒が握られている。どれだけプラスなイメージを抱こうとした所で無理だった。怖い。
引き返そうかと思ったころには遅かった。目があった。
『よっ』
そう言って男性は気さくに手を挙げる。
『おいで』
そしてヒョイヒョイと昂宗を手招く。観念して昂宗は彼の方へ歩いた。強い煙草の匂い。酒の匂いは全くしなかったので、酔っているわけはないらしい。
左の鼻の穴に1つ、唇の左側に2つ、リングピアスがついている。キラリと顔が光っていたのはピアスが反射していたということらしい。左耳にも数えきれないほどのピアスが付いていた。
昂宗は引きつった笑みを浮かべて会釈した。すると彼は人懐っこい笑顔を浮かべた。そして徐に、昂宗にスマートフォンの画面を向けた。そこにはメッセージアプリのQRコードが移っており、これを読み込めということらしい。
断りたかったが、そんな雰囲気ではなかったため、昂宗は恐る恐る自分のスマートフォンをかざして読み込む。
ピコン、と音が鳴ってアイコンが現れた。女性が美容院の椅子に座っているのを、美容師の目線から撮った写真。「Kozy」と表示されている。友達承認を押すと、早速メッセージが届いた。
『突然悪いな。俺は井ノ本浩二。隣に住んでいるから自己紹介とか不要かなって思ったけれど、その反応からしてやっぱり君、知らなかったでしょ?』
昂宗はコクリと頷いて応えた。それよりも驚いたのは、
『ぼくが耳が聴こえないって、知っているのですね』
浩二はそれを知っていて、だから強引にメッセージアプリの連絡先交換を求めてきたわけであった。
『当たり前じゃん。君が知らないだけで、頻繁に顔合わせているんだよ? 初めの一週間は嫌われて無視されているのかも? って思ったりもしたけれど、2ヶ月近くも隣人やっていれば多少はね。一応、自己紹介してもらえるかな。君の名前は知らないんだ』
また人懐っこく笑った。
『わかりました。ぼくは須賀屋昂宗といいます。すぐそこにある大学に通っています。今年入学したばかりの一回生です』
『え、そうだったの? 知らなかった。ていうことはスガヤン、めちゃくちゃ賢いじゃん!』
驚いて「スガヤン……」と小さく復唱する。呼ばれたことのないあだ名だった。昂宗は本来、馴れなれしい人がとても苦手である。しかし、不快感なく、すんなりと受け入れてしまった。浩二にはそういう不思議な魅力を感じた。
『俺はここから電車二駅行ったところにある美容院で働いているよ。ちなみにはっきり言っておくけれど、もちろん男だ。髪が長いし、こんな見た目だから間違われること多いけれどね』
そういってクルリと回ってポーズを決めた。ユラリと揺れた長い髪の先の方は、赤と青のグラデーションになっていた。服装はTシャツに、膝までたくし上げられたジャージと、どう見ても部屋着なのだが、完璧に着こなしていて、そういうオシャレにしか見えなかった。
『あれ? 2カ月ですか?』
ふと浮かんだ疑問を尋ねた。
『当然それも気づいていないよね。よし、手短に説明しよう。
まず、君が4月に入居した当時の隣人は、俺じゃない。俺がここに住み始めたのは、この夏からだ。変な時期だけれど、新店舗のリーダーに抜擢されてね。
おそらくだけれど、君が入った頃に入居していた人たちは、俺が入居したころにはほとんど入れ替わっていたんじゃないかな。君は知らないかもしれないが、ここのアパートは壁がものすごく薄いんだ。
正直、まともな人間なら1ヶ月も持たないだろうね』
昂宗は無表情を貫いた。その些細な変化に浩二は気づいたのか、気づかなかったのか。少し間を置いてから、続きを送った。
『そういうわけで、俺が入ってからも続々と居住者は部屋を出て行った。いまこのアパートには俺とスガヤンと、あと上の階にひとり住んでいるだけだ。上の階の人は、ちょうどスガヤンの対角にある部屋に住んでいるから、さすがに俺たちの生活音はそこまで聞こえていないんだろう。スガヤンは耳が聴こえないみたいだし、俺はもともと正気じゃない。残るべくして残った住居者たちってわけだ。
だからね、さっきのセッションは、俺にしか聞こえていない』
それで浩二が何が言いたいのかわかった。その親しげな笑顔が、ひどく恐ろしいものに見えてきた。
「うるさくして、すみませんでした」
昂宗はきちんと言葉にして頭を下げた。歯を強く食いしばって、拳を握りしめて、このまま後頭部をぶん殴られる覚悟を決めた。しかし昂宗の頭に触れた大きな手はワシワシと豪快に撫でただけだった。顔を上げると、やっぱり浩二は優しく笑っていて、スマートフォンをチョイチョイと指さす。
『うーん、俺ってそんなに怖いかな? そこまで怯えられると傷つくわ。
苦情を入れに来たわけじゃない。むしろ逆だよ。お礼を言いに来た。素晴らしかったよ。スガヤンのギターも、お友達の歌声も。しびれた。上手く言えないんだけれど、こう、ビリビリって感じで胸が熱くなってね。なぜだか、少し泣いてしまった。
本当ならすぐにでもスガヤンの部屋に行って伝えたかった。けれど、伝えに行くのも惜しかった。ただ聴いていたかったんだ。気づいたら終わっていて、二人は部屋にいなかった。だから、帰りを待っていたってわけだ』
メッセージを読み終わると、昂宗はまた深く頭を下げる。
「ありがとうございます」
『だから、それはこっちのセリフだって。お友達にも伝えておいてよね。また聴かせて、って』
『はい。もちろんです』
『じゃあそれだけ。明日からは無視しないで挨拶返してよ』
『おやすみなさい』
『おやすみ』
浩二は手をフラフラと振って部屋にもどっていく。
「あ」
昂宗がついそう言ってしまったものだから、浩二はドアから覗き込んだ。浩二の口は『どうしたの?』と動いた。少し逡巡した後、
「ひだりて、ほうき」
片言で尋ねた。それで伝わったようで、浩二はメッセージで返事をした。
『お掃除していただけだよ』
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