16.自問自答
その日は図書館で勉強をしようとしたが、全く集中できなかった。本を読んでも文字がその形のまま頭に入ってくるだけで、意味も何もない。あっという間に図書館は閉館時間になったので、全く読めなかった寿之から受け取った専門書は借りることにした。
すでに日は落ちて見えないが、しぶとく空はぼんやりと明るい。日中の暑さ残る帰り道を、軽く汗をかきながら歩く。鍵をガチャリと開けて部屋に入ると、モワリと籠った熱気を感じた。電気もつけないで、まずエアコンを付けながら窓を開けて、空気を入れ替える。そのままかすかな空の明るさを借りて荷物の整理をし、終わった頃に空気の入れ替えをやめて窓を閉める。
いつもならば晩ご飯の準備に入るところだったが、もちろん昂宗は物置に立てかけられたギターの前に立った。
昂宗はもちろん3つ目を選ぶ。自分ひとりで、自分に立ち向かう。何があってもこれは昂宗自身の問題だ。昂宗だけのものだ。向き合うのに、誰にも邪魔されたくなかった。
うす暗い部屋のなか、ケースに触れようと伸ばした手を戻して、胸にあてる。
「いちどじぶんのあゆんできたじんせいをふりかえってみる」
今日図書館で出会った寿之の言葉を思い出してひとりごちる。
目を閉じた。自問自答を始める。
自分はいつMuneに出会ったのか——小学2年の頃だ。父の書斎から聞こえてきたんだ。
なぜ音楽を始めたいと思ったのか——ぼくもMuneみたいになりたかったんだ。誰かの魂に伝わるような音楽を創りたいと思ったんだ。
どうしてギターを弾いていたのか——ギター1本でステージに立つMuneの姿が本当にかっこよかったんだ。だから真似したくなったんだ。かっこいいものは真似したくなる。みんなそうだろう。
どんな風に音楽を楽しんでいたのか——練習するたび、Muneに近づいている気がして、それが楽しかった。
なぜバンドを組んだ——自分の表現の可能性を広げるためだった。経験しておいて損はないと思ったから。
バンドを組んでどう思った——楽しかった。
それならばなぜ解散した——楽しかったけれど、やっぱり、ぼくの求める姿じゃなかったから。
どんな気持ちで歌っていたのか——魂から叫んでいた。つもりだった。
どんな風になりたかったのか——Muneのようになりたかった。
どうして音楽をやめてしまったのか——Muneのようにはなれないとわかったから。
目を開く。あの頃、昂宗の音楽はただMuneのみに向っていた。
我ながら途轍もない執着心だ。自分のことながら、昂宗はすこし引いた。
だが少しわかった。あの頃の昂宗はMuneを目指したが、それが叶わないとわかったから音楽をやめてしまった。
じゃあなんでもう一度、音楽を始めたんだ?
もう一度目を閉じる。
高校時代、なぜ音楽をやろうと思わなかったのか——やる意義を見失っていたから。きっぱり諦めて次を探していた。
なぜ大学に入ってもう一度やろうと思ったのか——本物に出会ったから。
理由になっていない——本物に、やっぱり自分は音楽が好きなんだとわからされた。あの人みたいになりたい……という願望じゃなくて、ただ音楽をしたいっていう衝動だった。それだけでいいんだって気づいたから。
なぜギターを手に取った——なぜって。ぼくはギターしか弾けないからさ。
なぜ歌わなかった——
「あっ」
そう言えば確かに、そうだ。昂宗は全く気が付いていなかった。もう一度ギターを手に取った時、昂宗は歌わなかった。今まで昂宗にとって音楽をするとは、Muneのようにギターで弾き語りをすることだった。ギターはあくまでも「魂の叫び」を引き立てる最高の道具だったはずだ。しかし、昂宗は歌っていなかったのだ。
寿之の言葉はこういう意味だったのか? 自問自答を経て、自分の無意識にアクセスすることが目的だったのか。面白いと感心する反面、昂宗は自分がとても滑稽に見えて、ひとりで笑ってしまった。
「ぼくはなぜうたわなかった」
——きっと、歌っていたから。ぼくじゃなくて、あの人が。あの日、講義室で歌声を響かせていたあの人が、ぼくのギターで歌っていてくれていたから、ぼくは歌わなかった。
すっと胸に落ちる。
では自問自答、最終ブロックだ。
どうしてギターをまたやめてしまった——耳が聴こえなくなったから。
やめる必要があったのか——聴こえないんだからしょうがないだろう。
いな穂の歌を聴いてどう思った——『本物』だと思った。彼女は間違いなく、ぼくが欲しくて欲しくてしょうがなかったものを持っている。いな穂の歌が上手なのかどうかは知らない。聴こえないから。けれどわかる。魂に響いて来たから。
ギターを弾きたいと思わなかったのか——何度言わせるつもり? 聴こえない。だったらギターなんて弾けるわけがないだろう。
それならなぜ知大の言葉に即答しなかった——は……?
いな穂のために弾いてくれと言われたとき、きっぱり断れたはずだ—— ……知るかよ。
矛盾している——わからない!
自信があるのだろう——うるさい。
たくさん練習してきたんだろ——うるさいうるさい!
だったらさっさと弾いてみろよ——
「あーもう、だまれよ!!」
ダンッと思い切り床を殴りつけた。無意識に歯を食いしばり過ぎていたようで、奥歯とあごがジンジン痛い。息は大きく乱れている。昂宗は落ち着くために、一度大きく深呼吸をした。そして、ゆっくりと目を開ける。
『昂宗……くん?』
目の前には、いな穂がいた。
一瞬幻覚を見ているのかと思った。確かめるためにいな穂の顔に両手を伸ばす。怯えるように目を伏せたいな穂の頬に、当たり前みたいに触れられた。
「やわらかい」
そこで夢だと確信した。頭に血が上って気を失ったのだろう。しかしながら、昂宗はいな穂の頬に触れたことはない。それなのにまるで本物のような再現度である。顔を包み込むように触れながら、親指で涙袋を撫でる。目じりに涙が浮かんでいるのに気づいたので、そのまま親指で拭った。いな穂は口をアウアウとさせていたが、昂宗は特に気にすることなく、今度はプニプニとつまみだした。楽しくなってきた昂宗は、夢だからこれくらいはいいだろうと思って、しばらくいな穂のほっぺをいじり続けた。
やけに意識がはっきりしているな、と思いながら昂宗は、いな穂から手を放した。しばらくいな穂は放心したまま、口を開けて斜め上の方を見ていた。反応がやけにリアルで、昂宗はこれが自分の内なる願望なのか、と自分の内心が心配になってきた。昂宗は気まずくなって早く夢から覚めようと、今度は自分の頬をつねってみた。
「いたっ」
どういうことだ? 昂宗が慌てていな穂を見ると、すでにいな穂は俯いており、ワナワナと震えていた。
「いなほちゃん?」
『昂宗くん……』
いな穂はそう口を動かしてキッと昂宗を睨みつけた。そこで全てを察した。
「……はい」
『そこに正座しなさい』
「わかりました……」
昂宗は座布団もない硬いフローリングの上に正座をし、何を言われずとも土下座をした。するといな穂は相当慌てたのだろう、ものすごい勢いで昂宗の肩を叩いた。
『そこまでしろって言ってないじゃない!』
いな穂がそう言ったのがわかった。
昂宗がヘラリと笑うと、いな穂はため息をついた。それから立ち上がってローテーブルの方に移動し、ノートを広げた。昂宗も電気を付けようと立ち上がると、いな穂に手を引かれ、右隣に座らされた。しかし、さすがにこれでは文字が読めない。そう思っていると、いな穂はスマートフォンを立てて、画面の明かりでノートを照らした。
『わたし、怒ってるから』
いな穂はそう書いた。それでも昂宗はなにも返さなかった。
『なんで無視するの?』
昂宗はなにも書かない。
『なにかあったの?』
それでも昂宗はなにも書かない。
『わたしに言ってよ』
昂宗は、なにも書かない。
『どうして、なにも言ってくれないの』
「かんけいないじゃん」
昂宗はつぶやく。いな穂から視線を感じた。しかし、昂宗は見なかった。瞬間、
——バチンッ!
昂宗は左頬を抑える。いな穂を見た。かすかな明かりに照らされながら、彼女は憤っていた。昂宗に振るったであろう右手は、尋常じゃなく震えている。涙が流れる瞳には微塵の悲しみもない。完全な怒りをもって、昂宗を睨みつけていた。
怖くなって、昂宗は俯く。するといな穂はまた手を振りかぶった。昂宗はキュッと目を瞑る。
あたたかいものに包まれた。恐る恐る目を開くと、いな穂に頭を抱きしめられていた。耳にいな穂の吐息がかかる。何を言っているのだろう。わからないけれど、いろいろな物が込み上げて来て、昂宗は泣いてしまった。
そういえば、寿之が言っていた。みっともないけれど、確かな方法。みんなでかかれば壊せない壁はない。
いな穂となら、どうだろうか?
「いなほ」
昂宗は腕をほどき、真正面に瞳を見据えて、彼女の名を呼ぶ。
「きいてほしいことがあるんだ」
全てをいな穂に伝え終わった。B5ノート5頁に渡る昂宗の冗長な話を、いな穂は丁寧に大切そうに読んでくれた。
『話してくれてありがとう』
いな穂はそう書いた。なぜか昂宗よりも辛そうである。
『昂宗くんはギターを弾けたんだね』
それを読んで昂宗は頷く。
『知らなかった』
隠されていたことがよっぽど悲しかったのだろうか。
『ごめん』
『どうして謝るの?』
『いな穂は歌うことが好きだって教えてくれたのに、ぼくは自分が音楽をしてたこと黙ってたから。卑怯だった』
『でもいま教えてくれた』
いな穂は微笑んだ。
『嬉しいよ』
「……ありがとう」
『ねえ、昂宗くん』
いな穂はそう書いてから立ち上がった。物置に立てかけられたハードケースを開き、中身を取り出す。
『弾いてみてよ』
そう言って、昂宗に突き出した。
昂宗は首を横に振る。
『どうして』
ノートを取って書き込む。
『聴こえないから』
『嘘』
いな穂は昂宗からノートを取り上げて書いて返した。
『怖いだけなんでしょ?』
そう書いてあった。そう言ってギターをズイッとまた差し出す。
『なにが言いたいの』
『いいから弾いてみろって言ってんの!』
いな穂は昂宗に向って乱暴に投げた。昂宗は掲げていたノートを投げ捨てて、それを丁寧に受け取る。いな穂はスルリと昂宗の隣に座った。
『あの曲がいいな。Muneの「Endless End」。歌ってみたい』
いな穂は軽く声出しをして、『いいよ』と言った。
昂宗が何もしないでいると、
『何してるの? ほら、前奏はやく』
いな穂がそう書いた。
『チューニングとか、心の準備とか』
『別にいらない』
『けど……』
『いいから弾けって——「ああもう、うるせーっ!!!!」
思い切りよくかき鳴らした。弾かれた弦からボディへ、そして昂宗の身体に伝わる。大きく震える音の波。やっぱり聴こえない。
しかし昂宗はがむしゃらに弾く。左手でコードを抑えて、右手ではストロークする。そんな昂宗を見ていな穂はニヤリと笑った。そして大きく身体を揺らしながらリズムを取って、大きく口を開く。
瞬間、ビリビリと全身に電気が走った。いな穂の叫びが始まった。
‘‘ この世のすべてに
必ず『終わり』はやってくる
すべては終わり始めてる ’’
昂宗は怖かった。ギターが弾けなくなっていることを、知ることが。
自信はあったが勇気がなかった。
‘‘ だけど それでも
僕は終わらせたくないんだ
終わらせない 終わり続ける ’’
やっぱり聴こえない。けれど確かに身体は憶えていた。
聴こえなくても弾くことができる。
昂宗は懸命にいな穂に食らいついた。
‘‘ Endless End
Endless End
終わりなんてないさ ’’
二周目、三周目、四周目……、終わらない。曲は終わり続ける。
けれど、本当に弾けているのか?
わからない。聴こえないんじゃ、自己満足にすらならない。
こんなギターに、意味はあるのか?
——ぼくは、なにをしている?
間奏をほとんど無意識に弾きながら、俯いていた昂宗の頭を、いな穂が叩いた。いつの間にかいな穂は立ち上がっており、昂宗の正面にいた。まっすぐに視線がぶつかる。
‘‘ 昂宗くん! 聴いている? ’’
いな穂が歌詞に乗せて器用に尋ねたのが読み取れた。
「きこえねぇよ! ばかか!」
荒々しく昂宗は叫んだ。そしていな穂をギロリと睨みつける。
しかし、いな穂は怯むどころか、満面の笑みで、
‘‘ わたしには聴こえているよ! ’’
ガツンと後頭部を殴られたような感覚。
‘‘ わたしには 届いているよ! ’’
そう言っていな穂は胸を叩いた。
‘‘ 意味はある!
歌わせて!
ギター 響かせてよ! ’’
いな穂は叫んだ。真っ暗な部屋の中で、彼女は輝いていた。昂宗を見る顔は、心の底から楽しそうだ。
思わず手が止まる。手が震えて、上手く弦が抑えられない。ピックも落としてしまった。何かがジワリと溢れて、前が見えなくなる。
それでも、いな穂はまだ歌っていた。目を閉じて、大きくリズムを取りながら、昂宗のギターで歌っていた。
もう一度、自分に問いかける。
ギターを弾きたくないか——弾きたい。
覚悟はあるか——わからない。けれど、弾きたい。
逃げるな——もう逃げないさ。
——ぼくは、君のギターになるんだ。
昂宗はピックを拾上げないで立ち上がった。そしてローテーブルに足を上げ、太ももにボディを乗せながら、指で弦をつま弾き始めた。
負けていられない。そう思った昂宗は今の感情を思い切りギターにぶつけた。すると、やっといな穂は止まった。目を見開いて、昂宗を見たまま固まった。
昂宗は仕返してやったり、とほくそ笑む。そして人差し指を立てて、クイッと二回引いてから、
「かかってこいよっ!」
そしてまたギターをかき鳴らす。すると、すぐに倍以上のパワーがいな穂から返ってきた。途端にビリビリと頭に響いて、わけがわからなくなる。けれど、昂宗はすぐにいな穂に返した。何度も繰り返されるぶつかり合いは、まるでノーガードで殴り合っているようだ。しかし昂宗がどれだけ全力でぶつけても、必ずいな穂はそれを上回ってくる。確実にいな穂の方が強いのが、嫌というほどわかる。悔しいが、それが気持ちいい。
無我夢中になって、いつまでも二人は魂を叫び続けた。
二人の体力はまだまだ底を尽きない。昂宗といな穂はやっと、終わり始めたのだから。
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