10.弟襲来
夏休みになったところで、昂宗の生活に大きな変化はなかった。
朝は6時頃に目を覚まし、ゆっくりと朝食を取った後、まだ涼しいうちに大学に向かう。冷房のガンガン効いた大学の図書館で、開館から閉館まで勉強をして過ごす。そして帰りに近所のスーパーに寄って夕食の調達をする。
昂宗は夏休みに入ってから、頑張って自炊をするようにしている。前々から昂宗のスーパーのお総菜生活は、いな穂に怒られていた。常々いな穂は昂宗の食生活を尋ねては、栄養バランスが悪いと説教していた。どうにか説教を免れるため考えた結果、講義がなく集中力を酷使しないことで余計な気疲れがない夏休みという時期を利用して、自炊を習慣にしてしまおうという作戦に思い至った。そして、毎度作った料理を写真に撮っていな穂に送り、彼女を安心させている。面倒くさいように思えるが昂宗自身、案外楽しんでいたりする。食べることよりも、いな穂の反応の方が楽しいくらいだ。それでも気分の乗らない日は、値引きされた総菜弁当で済ませてしまうが、食べないよりはマシだろう。その時は、甘んじて説教を受け入れることにしている。
部屋に戻るのはいつも20時を回った頃になる。すぐに夕食の準備に取り掛かり、ひとりで食べる。もともと料理ができたこともあって、作る度、料理の腕が上がっていることを手際の向上から強く自覚する。しかし味としての実感がない。どれだけ美味しく仕上がったところで、どうしても味気なかった。無感動に黙々と食べ終わると、皿洗いと料理の後片づけ、そして風呂に入る。今日やらなければならない用事を全て終えてしまうのは、だいたい22時前だ。それからは寝る以外することが無くなってしまう。そういう時は眠くなるまで小説を読むことにしているが、気分のいい日は汗をかかない程度に外を歩き、空を見上げる。
河原の方にくれば街中でも案外、星は見られるものだと思った。真っ暗で、静かで、誰もいないけれど、空に星たちがいるから寂しくなかった。自分を無視して流れていく人よりも、なにも言ってくれないが自分を見ていてくれる星たちの方が、むしろ心強い。彼らはこちらから見えなくても、遠くても、必ず空にいる。
そんな恥ずかしいポエムを読み上げてひとり感傷に浸っていると、ふと、昂宗は中学の頃にバンド仲間たちと星を見たことを思い出した。昂宗は夜、仲間たちと近所の小さな山に登って、「星を見ながら聴くなら?」というテーマで持ち寄った音楽を順番に流しながら夜空を見上げ、あーだこーだ音楽について語り合ったりした。
懐かしくて思わず笑みがこぼれる。
「あいつら、げんきにしているのかな」
昂宗は小さく呟いた。思い返せば、こっちに来てからは耳にイヤホンを突っ込んで俯いてばかりだった。こんな風に懐古の情に耽りながら夜空を見上げることも、ポエムを読むこともなかっただろう。どこにいたって同じように星は輝いているなんていう当たり前のことにも、気づけなかっただろう。耳が聞こえなくなってよかったのか悪かったのか、どちらなのだろう?
気が済むと部屋に戻って布団に入る。
いつもならばすぐに眠ってしまう昂宗だが、今日はどうにも考えてしまっていた。眠れない。
仕方がないので、小説の続きを読もうと文庫本を手に取る。前は、本なんて自発的に読んだりしなかった。眠りにつく時間だって、早すぎる。今は23時を回ったところ。中学時代は勉強しているフリをして作曲を行ったり、早く寝なさいと怒られながらも、こっそり音楽を聞いて夜更かしをしていた。高校時代だってそうだ。夜更かし自体が楽しかった。
昂宗は凡そ自分では信じられないほど生活が変化していた。日々、良い方向に進んでいる。
これも、全部——いいやたぶん、いな穂のおかげだ。
気が付けば、朝だった。
テストが終わってから1週間、一度もいな穂と会うことはなかった。気まずくなったわけではなく、単純にバイトや家の用事が重なっただけだったようで、会えなかっただけだ。その代わりに毎日連絡を取り合っていた。
忙しいのも今日で終わるといな穂が言っていたのを思い出して、
『あした、午後から空いてる? 久しぶりにちくわでダラダラしようよ』
昂宗が誘うと、夜に『オッケー!』と返ってきた。布団の中で小さくガッツポーズをして、にやけたまま眠りについた。
当日の午前中も、普段と変わらず大学で勉強をして、お昼ごろにいったん家に戻る。いな穂とは14時に『喫茶ちくわ』で待ち合わせだ。
軽めに昼食をとっておこうと思って、適当にチャーハンを作った。皿に盛り付けて食べようと思ったその時、部屋が揺れた。一瞬地震かと思って急いでガスの元栓を締めに向かう。が、どうやら違うらしい。また揺れた。どうやら玄関の扉が叩かれているようだ。
いな穂だろうか? 予定が思っていたよりも早く終わったから訪ねてきたのか? けれど、いな穂には部屋の住所を教えてないはずだが?
そんなことを思いながら呑気にドアを開くと、不機嫌そうに眉をひそめた昂宗の一つ年下の弟、須賀屋
ドアを開けるなり、朝水は無言で部屋に立ち入り、風呂に入った。昂宗の寝巻に着替えて出てきたと思うと、昂宗に有無を言わせぬうちに勝手にロフトに上がって布団を敷き、寝てしまった。
普段からマイペースな朝水である。彼らしい振る舞いといえばそうだ。しかし、状況の説明ぐらいはしてもらわないと、さすがに困る。昂宗の驚きは収まらない。
未だ彼の存在に半信半疑である。頬を引っ張ると延びた。一応、きちんと実体はあるらしい。
昂宗は眠る朝水の肩をグラグラと揺らした。当然起きない。朝水は一度寝ると他力では絶対に起きない。自力で起きてくれるまで待つしかないが、そうは言っても、いな穂との約束もある。あと30分後には家を出なければ遅刻となってしまう。とりあえず連絡を入れておこうとスマートフォンを見ると、母からメッセージが来ていた。
《昂宗、元気にしている? たまには連絡しなさい! あなたが連絡しないなら、私だってしないんだから。
ということでお仕置きの意を込めたサプラーイズ(*´ω`*)!
驚いた( *´艸`)? 我が家の可愛い朝水ちゃんをプレゼント(*'▽')! さすがにそろそろ着いたかな?
お兄ちゃんと同じ大学行きたいっていうから、明日のオープンキャンパスに送り出したわけだけれど、ホテル代はもったいないから、泊めてあげてね。
夜行バスで行ったから、結構疲れているかも。たぶん電車とかで迷って相当神経すり減ってるはず!
デリケートな受験生だから、優しくしてあげてね(*'▽') よろしく( ゚Д゚)!》
昂宗は頭が痛くなってきた。だが実家に連絡していなかった昂宗も悪い。さて、問題は山積みだ。落ち着こう。昂宗は一度深呼吸した。
まず、いな穂に連絡を入れる。
《ごめん、急に弟が来てさ。寝てるから、今家を空けられなくて。今日は行けない。ほんとうにごめん》
メッセージを送ると、すぐに返事が来た。
《なるほど。そっかー。……もしお邪魔じゃなかったら昂宗くんのお部屋に行ってもいい? せっかくこっち来たのにただ帰るのはなんかもったいないし、弟くんも見てみたいし!》
なんと。そう言われては断れない。昂宗は急いで部屋に掃除機をかけながら、
《いいよ》
短く返事をした後ろに住所を書いて送った。
《ありがとう! お菓子買っていくけどなにがいい?》
《ぼくは何でも。弟は芋けんぴ好きだから、買って来てあげて》
《了解!》
取り込んだ洗濯物をたたんでクローゼットに収納し、散らばる教科書や講義ノートを棚に戻す。そして、玄関から覗いて自分の部屋がおかしくないことを確かめる。
おかしいものを見つけた。机の上に取り残されている冷めたチャーハンだ。5分で胃にぶち込み、皿の片づけをした。これで大丈夫。
昂宗はスマートフォンを確認した。すると3分前にいな穂から《着いたよ》と連絡が来ていた。急いで扉を開ける。
『久しぶり!』
相も変わらない、屈託のない笑顔のいな穂がいた。
「ごめんね」
暑い中に呼びつけて、加えて部屋の前で待たせてしまったことを昂宗は謝りながら、部屋にいな穂を案内する。『涼しー! お邪魔しまーす』と言いながら入って行った。いな穂に、卓袱台の前に置いた座布団に座ってもらい、昂宗は冷たいお茶の入ったペットボトルとコップ2つを持ってきて、その隣に座った。
『ご迷惑おかけします』
いな穂が取り出したノートに昂宗が書きだす。もちろん、「きてくれてありがとう」と口で伝えることも忘れない。
『いやいや。昂宗くんがどんな部屋で生活しているのか見たかったから、むしろ楽しい!』
部屋の中をグルグル見回すいな穂だった。なにか探しているのだろうか? あいにく昂宗はいわゆる『そういう本』は持っていない。現代っ子らしくデジタル派である。パソコンを見られない限り、大丈夫だ。何がとは言わないが。
『もしかして、緊張している?』
そう書いたところで、いな穂の顔がみるみると赤くなっていった。それを見て、昂宗も顔が赤くなる。
『久しぶりだよね! いつぶりだっ……』
誤魔化そうといな穂が途中まで書いたところで、思い出した。その話題を持ち出すことは完全に自爆だった。その爆風に昂宗も当然巻き込まれた。気まずい。
昂宗はゴクリとコップに入ったお茶を飲んだ。いな穂が丸い目をして昂宗に注目する。
『弟がいま、ロフトで寝ている』
昂宗がロフトの方を指さすと、いな穂は『そうだった』と口を動かして、指を鼻の前にもっていってシーッというジェスチャーをした。
『ぼくのことはまだ話していない。どうしたらいいと思う?』
母からの連絡で思い出した。昂宗は家族に自分の失聴のことをなにも伝えていない。実家に帰る気もなかったので、かなり不測の事態である。何の備えもしていなかった。
唐突にそのことを伝えたとして、きっと朝水は驚くだろう。そして心配してくれる。そうなると、勉強に身が入らず、受験に支障が出るかもしれない。そりゃ大学受験が人生のすべてではない——受験後の生活でつまずいた昂宗自身がいい例だ——が、人生を大きく左右することは間違いない。弟には望む進路を歩んでほしいと思っている。
それに、朝水に知られれば、実家にも伝わるだろう。基本的に過保護な両親は間違いなく昂宗の下に飛んでくる。迷惑は掛けたくないし、少なくともこれを伝えるのは、このタイミングではない。
『要するに、昂宗くんは隠したいんだね』
いな穂は腕を組みながら頬を膨らませて考えている。
『まず話さなくてもいい口実だよね……、それなら風邪でのどが痛い、っていうのはいけるんじゃない?』
『なるほど。それは確かに。朝水(弟の名前)はいわゆる天然キャラだからたぶん信じてくれると思う。それにぼくのこと大好きだし』
朝水はブラコンである。昂宗がひとり暮らしすることにただ一人反対していた。それならば追いかけようと思って、朝水は昂宗と同じ大学を受験しようと考えているのだろう。
『じゃあ、それはそうとして、今度は昂宗くんが聞えないことをどうするかだね』
『それはさ、同じで行こう。偶然にもいな穂ちゃんも風邪で喉を潰していて話せない。だから、いな穂ちゃんも筆談。それで、過半数が筆談なんだから、朝水にも筆談でしようって提案する。たぶんそれで行けるよ』
それを読むと、いな穂は眉を顰めた。表現しようのない歪んだ表情。
『ダメかな?』
『いやさ、無理でしょ』
いな穂はそう書いた後、笑った。
『朝水君、そんなに馬鹿じゃないでしょ?』
『でもあいつ、天然だから』
『いやいや。天然と言っても限度があるでしょ!』
昂宗はヤレヤレと大袈裟にため息をついた。
『わかってないなぁ。朝水はね、勉強はできるけれど、本当にアホなんだ』
いな穂は全然わかっていないようだったのでコホンと咳払いをしてから語り始める。
『じゃあ1つエピソードを。
ぼくが高校2年生だった頃のとある雨の日、雨はその中を数十秒歩くだけでビシャビシャになるくらい相当強めに降っていたんだ。まさにバケツをひっくり返したようなという表現がピッタリな感じ。
ぼくと朝水は同じ高校に通っていたんだけれど、その日の下校時間、傘を忘れて昇降口で立ち往生する朝水に会ったんだ。
ぼくはちょっと用事があってまだ帰れなかったから、傘を貸してあげようと思って声を掛けたんだ。その時冗談で、「雨は降っていないと思えば降っていないんだ」といったんだ……あ、ちょっといな穂ちゃん、そんな目をしないで。つまんないこと言ってた自覚はあったよ。そうつまらないこと言ったつもりだったんだ。
けれど、それを聞いた朝水はまじめな顔で「降ってない」って呟いた後、普通に歩き出した。もちろんその雨の中をね。急いで昇降口に引っ張り込んだよ。そしてどうしてって聞いたら、「雨は降ってないから」って。
まあ、こういう話があと14個ぐらいある』
いな穂はドン引きだった。
『とにかく、たぶんぼくから伝えれば、朝水は信じてくれるよ』
『わかったよ。それでいこう』
作戦会議終了。けれどしばらくいな穂は昂宗に少し冷たかった。
いな穂が訪れて2時間程たった頃、朝水はロフトから降りてきた。
『おはよ』
そう言ってから朝水はいな穂を一瞥したが、それだけだった。そのまま洗面所で顔を洗って戻ってきた朝水を手招きして、正面に座らせた。
昂宗の隣に座るいな穂をもう一度見て、
『彼女?』
と聞いたので、昂宗は首を横に振ってから、
『いま、風邪ひいていて、声が出せない。実は、いな穂ちゃん(横の子。友達)も同じだから、申し訳ないけれど筆談だ。そこで、まあ、朝水も筆談でやろうぜ。今日はそういうルールだ。筆談以外は、まるで聞こえてないように無視するから。そういうことでよろしく』
そう書いてから、昂宗は朝水に新しいノートとペンを渡した。朝水はまたいな穂を一瞥してから、
『わかったよ』
そう書きこんだ。いな穂は驚愕の反応である。その横で誇らしげな昂宗は、思い出したように、
『そう言えば、突然来るのはやめてよ。びっくりしたんだから。母さんから連絡があったから今はもういいけれど、寝るならせめて説明してからにしなさい』
『ごめんよ。けれど、母さんが連絡しちゃダメって言うんだもん』
『それならしょうがないか。うん。じゃあいいや。そう言えば勉強の調子はどうだ? ぼくらと同じ大学目指しているらしいけど学部とかは……』
それから、しばらく二人の近況報告に入った。久しぶりに会った朝水はやっぱり変わりなく、変な弟だった。それなりに楽しそうに過ごしているようだ。昂宗は失聴していることのみを伏せて、だいたいの自分の現状を話した。
『それで、二人は仲良くなったんだ』
そこで初めて朝水はいな穂に話を振った。
『うん。改めて、霧切いな穂です。昂宗くんとは仲良くさせてもらってます。よろしくね』
『はい。兄ちゃんの弟の朝水です。よろしくお願いします。いな穂姉ちゃん』
姉ちゃん、といな穂は反応した後、少し顔を赤らめた。どうやら嬉しかったらしい。照れ隠しに、いな穂はガサガサと自分の鞄から芋けんぴを取り出した。それを見た途端、朝水の目の色が輝いた。
『そんなに好きなの?』
若干ビビりながらいな穂が聞くと、朝水は食い気味に頷いた。
『この世で一番おいしい食べものです』
そう書きながら、カリカリと芋けんぴを食べる。
『わたし、昂宗くんの言ってたことがわかった気がする。天然っていうか、不思議ちゃんっていうか……』
『でも朝水、勉強はめちゃくちゃできるから、まあ面白い子だよ』
クスクスと笑いあう二人を、朝水は不思議そうに見たが、すぐに芋けんぴに戻った。
芋けんぴをきっかけに朝水はいな穂と打ち解けた。
『芋けんぴくれる人はみんないい人です。だからいな穂姉ちゃんもいい人です』
とのことらしい。
『兄ちゃんが昔、そう言ってました』
それを聞いていな穂はため息をついた。昂宗は目を逸らして、ピューと口笛を吹いていた。
三人でのんびりと過ごしていると、あっという間に晩ご飯の時間になった。料理はいな穂が腕を振るってくれるらしかった。その間に昂宗はスーパーに買い出しに出ることにした。朝水が付いて来ようしたけれど、勉強をしていなさいと窘めると大人しく参考書を開いた。
普段からよく行く近所のスーパーで買い物を済ませた昂宗は、その帰り道、部屋の前まで来て、足を止めた。今日は久しぶりに朝水とご飯が食べられる。そのご飯はいな穂が作ってくれる。こんなに楽しい晩ご飯はなかなか無い。
昂宗は財布に余裕があることを確認すると、次に時間を確認した。ギリギリになるだろうが、まだケーキ屋は開いている。回れ右。
朝水の襲来を、二人はどうやらうまく乗り切れそうだ。こうなれば、朝水が帰るまでの短い時間は、ただただ楽しい貴重な時間だ。大切に過ごそう。
ケーキ屋に向かう昂宗の足取りは軽やかだった。
☆
昂宗が部屋を出てから、いな穂はテキパキと調理を進めていた。親友である知大と普段から料理をしているだけあって、かなり手際が良い。
冷凍してあったご飯を三人分、電子レンジで解凍する。その間に沸かしたお湯に、コンソメと適当に切った野菜たちとソーセージを入れて、ポトフを作ってしまう。そして、解凍したご飯、缶詰のコーンとツナ、そしてケチャップ、塩コショウ少々を一緒にフライパンで炒めて、チキンライスの完成。それぞれお皿に盛りつけてから、卵を溶く。
「オムライスですか」
いな穂がビックリして卵の入ったボールを落としそうになったところを見事キャッチしたのは、驚かせた張本人の朝水だ。
「好きなんですよね。あ、でも俺白身が完全に黄身と混ざっている方が好きなんですよ。混ぜさせてください」
そう言って、朝水は箸もいな穂から取って混ぜ始めた。いな穂は口を開こうとしたが、喉を潰している設定があったことを思い出す。書くものを取りに行こうとしたとき、
「ああ、別にいいですよ。兄ちゃんいませんし、喋ってくれて」
いな穂は口をパクパクさせて躊躇したけれど、意を決して、
「いつから」
そう聞いた。朝水は面食らったように、
「あなたは——」
いな穂の質問に答えないで、聞き返した。しかし、それを食って、
「別に、違う」
いな穂は答えた。
それで朝水は察したようだった。
「——そうですか」
「それで、いつから気づいていたの?」
「それって、いな穂姉ちゃんが話せること? それとも兄ちゃんの耳が聞こえないこと?」
いな穂は目を見開く。朝水は全てお見通しといった様子だった。どこが不思議ちゃんだ。瞬時に察した。朝水はきっと、ものすごく頭がキレる。
「あ、待ってください。兄ちゃんのこと気が付いたのは俺の観察眼とかそういうんじゃないです。たまたま聞いちゃったんです」
「……誰から?」
「俺がこの部屋を訪れた時です。当然チャイムを鳴らしますよね。いくら鳴らしても開けてくれなかったんですよ。留守でないことはすぐにわかりました——その時、兄ちゃん明らかに料理してましたから——、だから居留守を使う気がないこともわかります。そこで思ったのです。耳にイヤホンでも入っているんじゃないかって。だからしつこく鳴らし続けたんです。
すると、隣の部屋の扉が開きました。中から出てきたのは派手な男の人でした。寝起きの様子で、きっと俺の鳴らし続けたチャイムで目を覚ましてしまったのでしょう。うるさいと一喝されるのかと思いました。すると意外にも丁寧に、お隣さんに用事ですか? とおっしゃいました。俺が肯定すると、続けておっしゃいました。
お隣さんは、耳に障がいがあるみたいだから、チャイムをいくら鳴らしても意味がないよ、と。
理解できませんでしたよ。まるで自分の知らない言語のようでした。
扉を強く叩けば部屋が揺れるから、気づいてもらえるかも、とアドバイスをくださって、部屋に戻られました。だから力いっぱい叩きましたよ。そうしたら、兄ちゃんが出てきました。さも、来客に今気づいたかのように。
兄ちゃんに会ったらまず言いたいことがいっぱいあったはずなのに、全部忘れました。気づかれないように必死で溢れそうなものを堪えて、兄ちゃんに背を向けながら俺は訊いたんです。
俺の声、聞こえないの? って。
振り返ると、俺の来訪を困りながらも喜ぶだけの兄ちゃんがいました。
そこで、確信しました。けれどやっぱり気持ちは追いつきませんでした。だからしばらく布団に引きこもったわけです。そうしたらいな穂さんがいらっしゃって、ひそひそと筆談でやり取りをしている。ときどき兄ちゃんのぎこちない言葉が聞えて、その癖風邪をひいていると嘘を付き、とどめに俺に筆談を求めてきた。兄ちゃんは俺に気づかれたくないんだとわかったので、それに乗ったということです」
朝水は大きく息を吐いた。いな穂は朝水の顔を見れなかった。なにも言えなかった。
「俺はいな穂姉ちゃんを責める気はありません。例え、姉ちゃんが大嘘つきであっても、兄ちゃんを利用する気だったとしても」
「どうして——」
いな穂は絶句した。
「兄ちゃんの耳が聞こえないこととか、そのこととかを使って、さっき兄ちゃんから聞いた話の隙間を埋めれば、だいたい見当がつきます」
朝水はいな穂側から見たストーリーを推測して、話した。ほとんど真実だった。わずかな情報だけで、朝水はいな穂の正体に辿り着いた。
「お願い。昂宗くんには、言わないで欲しい」
唇を噛みながら、いな穂は強く言った。
「もとより、そんなことをする気はありません。兄ちゃんがいな穂姉ちゃんに救われているという事実は変わりませんし、変に兄ちゃんを動揺させたくないですから。何より、いな穂姉ちゃんの目的と、俺の望みは一致しています」
俺たちは共犯者です。
朝水はそう言った。
「朝水くんって、どこが天然なの? とんでもない策士じゃない」
いな穂は口を尖らせながら、ぼやく。
「いやいや。天然さんなのは兄ちゃんの方ですから。自分が俺に揶揄われていることに、18年間気づいていません」
朝水は笑った。
「芋けんぴ好きなのも?」
いな穂はウケを狙って訊いたのだが、
「いえ、芋けんぴはまじで好きです」
朝水は笑わなかった。
いな穂はひとりで昂宗の帰りを迎えることになった。朝水はもともと泊まる気はなかったらしく、ホテルを予約していた。しかしチェックインの時間をすっかり忘れていたようで、昂宗の帰りを待つことなく、けれどなぜかのんびりと部屋を出た。その時に、いな穂は土産として、タッパーにオムライスを詰め魔法瓶にポトフを入れて渡した。
「ありがとうございます」
靴を履きながらいう朝水に、
「勉強頑張ってね。明日のオープンキャンパスも楽しんできて」
そう声を掛けた。朝水は、はい、と返事をしてから、
「わかっていると思いますけど、そのことはいつか、きちんと兄ちゃんに伝えてください」
いな穂は苦い顔になる。それを見て、
「大丈夫。俺の兄ちゃんですから」
得意げに言って部屋をあとにした。その得意げな表情は昂宗にそっくりで、出会って初めて二人は兄弟なんだと思った。
ほとんどそれにすれ違うように昂宗が帰ってきた。
朝水がホテルを取っていたこと、そしてそちらに帰ったことを伝えると、右手に持った箱——受け取るとケーキが入っていた——を見ながら、昂宗は心底残念そうだった。
『朝水、ぼくになにか言っていた?』
昂宗は器用に左手でスマートフォンを操作しながら——おそらく朝水へ連絡を入れているのだろう——訊くので、
『彼女がいるのに、泊まれないよだって。揶揄われちゃった』
いな穂はまた嘘を重ねた。
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