9.歌ってよ

 久しく人込みを歩くことがなかった昂宗には、思っていたよりも疲労が溜まっていた。そもそものところ、昂宗の地元にはこれほど人が多いところがないため、こんなにも長い間、大きな人波に呑まれていたことはなかった。

『ごめんね』

 人の気配の少ないところを目指して、二人は河原に沿って川をのぼってゆく。顔色がだいぶ落ち着いてきた昂宗に、いな穂は謝った。

「いやいや、だいじょうぶ」

 昂宗は口で答えた。

 買い物があらかた終わった頃、次にどこに行こうかといな穂がウキウキ聞いてきた時に、昂宗の顔が真っ青になっていることに気が付いた。他人事のような表現だが、実際、昂宗自身も全く気付いていなかった。いな穂に鏡を見せられて、そこで初めて自覚し、それからみるみる衰弱していった。

 いな穂は昂宗の手を取って急いで建物を出た。わがままかもしれないが、昂宗としては、これで解散となるのはどうしても嫌だった。駅に向おうとするいな穂を静止して、きれいな空気を吸うために人の少ない河原を歩くことを提案した。

『このままのぼって行けば、ぼくの家に着くし』

 昂宗はスマートフォンのメモに書いた文章で、そう付け加える。確かにこの川は昂宗の近所に流れている川と同じものであるため、たどり着きはするが、簡単に歩ける距離ではない。それに荷物もある。体調の問題もある。いな穂はそれらを考えて怪訝な表情になったが、

『悪化しているように見えたら、すぐに電車だからね』

 昂宗の意見を尊重してくれた。

 それから約30分、ゆっくり歩いた。市街地からかなり離れたため、人はかなり減ってきた。気分が落ち着いてきたところで、今度は肉体的疲労が出てきた。

「ちょっとやすもう」

 昂宗は座れそうな場所を指さしながら、いな穂にいう。コクリと頷いたところで、そこに並んで座った。両手に持った荷物を横にドサリと置く。いな穂がノートを取り出した。太ももに乗せながら書き込む。

『疲れたね』

 昂宗は右ページの部分だけを上手に自分の太ももに乗せて、器用に書き込む。

『うん。いっぱい歩いた』

 午前はテストだったことをすっかり忘れてしまっていた。午前は頭脳、午後は肉体と精神を酷使していた。それなら疲れるのもしかたがないというものだ。

『いっぱい買ったし』

 いな穂は改めて横に置いた荷物の量を見て、苦笑いした。

『いっぱい遊んだね』

 昂宗はそんないな穂を見て笑った。いな穂もキラキラと笑った。満足だった。

『ところでこの服はいつ着たらいいのだろう?』

 昂宗は一つの紙袋を指さす。いな穂の買い物の際、昂宗もいな穂に服を選んでもらった。自分では買おうとも思わないようなオシャレな服を買ったのだった。

『そんなのいつでもいいじゃん』

『それはオシャレさんの物言いだ』

 普段ジャージはジャージで過ごすし、服は必ず無地で暗めの色の地味なものばかり、全身の服代を全部足しても1万円に届くかわからないようなそんな安物の服しか着たことがない。そんな昂宗にとって、この買い物はかなりの冒険だった。

 着ると汚してしまう。洗濯すると傷んでしまう。だからずっとクローゼットにしまっていたかった。けれど着なければ買った意味がない。ひどいジレンマだ。

 だからこそ、ここぞという場面だけで着たいと昂宗は考えるのだが、ではそのタイミングとはいつなのか。いな穂の言うように何でもない日に着たとしよう。普段からださい格好している奴が急にオシャレな格好してきて、次の日にはまたもとに戻っていて、いつしか「あいつあれしかまともな服ねーじゃんw」って気づかれて……。

 考えるだけで顔が真っ赤になって行った。

『ぼくには無理だ!!』

『いやなんでやねん』

 いな穂は思わず声で突っ込んでいた。ひとしきり笑ってから、

『じゃあさ、次会う時に着て来てよ』

 そう書いた。

『大学?』

『違う。だって明日から夏休みでしょう!』

 いな穂はプイっとそっぽ向いた。

『それって夏休みも……』

 そう書いたところで書くのをやめた。塗りつぶして、その下に

『ぼくから誘うね』

 そう書いた。

『うん』

 変わらずいな穂は昂宗の方を見なかったが、いまどんな表情をしているのだろうか。夕日が川面に反射して二人を照らしている。いな穂の耳が赤くなっているのはそのせいだろうか。嬉しくなって、昂宗は落ちていた石を川に向って投げた。偶然にも、石は一度水面をパシャリとはねたのだった。

 それからしばらく、河の流れを二人でただ見つめていた。

 夕暮れという時間もじきに終わる。太陽はだいぶ落ちていて、そろそろ紙に書いた文字が見えなくなりつつある。少ない程度だった人通りも、ほとんどなくなってきた。犬の散歩をする少年が20分ほど前に通りかかってから、長らく二人きりだ。

 昂宗はいつ切り出そうか考えていた。その時、肩をトントンと叩かれた。当然いな穂だ。

 そっちを向く。

『・・・・・、・・んね』

 唇の動きは早すぎた。暗くなってきていることもあって、最後しか読み取れなかった。

 昂宗は首をクイッと傾げて伝わらなかったことを示した。

『何でもない』

 今度ははっきり、唇は動いた。

 いな穂はグーッと背を伸ばして眠そうにファアとあくびをした。つられて昂宗もあくびが出た。昂宗を心配してばかりだったが、いな穂自身だって疲れているはずだった。うつらうつら、少し舟を漕いでいる。

 河原では川から涼しげな空気が流れてくる。心地よい風がサラリと頬を撫でる。街中での人々の熱気とのギャップもあいまって、とても涼しく感じる。明日から八月なのを忘れさせる。

 今だと思った。

 昂宗はノートに書きこむ。それをゆっくりと目で追っていたいな穂の目は、途端にカッと見開いた。

『歌ってよ』

 昂宗は手を止める。いな穂は固まったままだ。だから続きを書いた。

『いな穂ちゃんの歌。聴いてみたいな』

 今日の買い物の途中、カラオケ店の前を何度も通った。初めて通った時、いな穂は足を思わず止めたくせに、「よる?」と昂宗が尋ねてもブンブン首を横に振った。それでも通るたび、見ているのに気づいていた。楽器屋を通ることも、CDショップを通ることもあったのに、そっちには全く反応しなかった。

 あの日、いな穂は『歌うことが好き』と教えてくれた。好きな音楽の「ジャンル」でも「バンド」でも「アイドル」でも、「シンガー」でも「楽器」でもなく、「音楽」と一括りにすることもなく。

 歌うことが好きだ。彼女は、歌いたいのだ。

『こんな外で恥ずかしいよ』

 いな穂はくたびれたように笑う。

『誰もいないから大丈夫だよ』

 昂宗は惑わされて笑ったりしない。うやむやにされてたまるものか。

『昂宗君がいるじゃん』

 依然、ぎこちない表情。

『ぼくは聞こえないから』

 絶対に引けない。

『だったら意味ないじゃない』

 いな穂は目を逸らした。

『意味なくない。ぼくは

 昂宗はいな穂の目の前に回り込む。いな穂は誤魔化そうヘラヘラとしていたが、昂宗の真剣なまなざしを正面から受けて、とうとう俯いてしまった。それからしばらく待ってもいな穂はピクリとも動かなかった。

 仕方ないか。

 昂宗はいな穂の膝の上にあるノートを取り上げて書いてから、諦めたようにいな穂の視線の先にポトリと落とした。

『耳が聞こえないとやっぱり歌ってもらっても意味がないのかな』

 読んだ瞬間、いな穂は顔をあげた。いまにも泣き出しそうな表情で、昂宗のことを見た。

 可哀想なことしちゃったかな。そう思って昂宗は少し反省した。

「いこうか」

 昂宗は立ち上がって、親指を立てて駅の方をクイッと動かし、ジェスチャーでそう伝えた。重なる紙袋の持ち手を集めて、そこに出来たできたアーチに手を入れて持った。

 その時、グッと袖口を引かれた。振り向くと、ペタンと座り込んだままのいな穂がやっぱり見上げていた。けれど、まるで違っていた。昂宗が見惚れていると、隣をペタペタと叩いた。『座れ』と言うことらしい。

 それに従って荷物を置いて座ると、それと入れ違うようにしていな穂がスクッと立ち上がった。強く前を見据えている。

 昂宗が見守る中、いな穂はそれからキュっと目を瞑って、大きく口を開いた。

 その時、何もかも変わった。空気が大きく揺れるのがわかった。グッと心が掴まれる感覚。久しぶりの感覚。懐かしい感覚。苦しいほど捕らわれる、忘れられないあの感覚。

 いな穂は全身でリズムを取りながら、歌っていた。間違いなく、歌っていた。

 決して昂宗の聴覚が復活したわけではない。変わらず昂宗の世界は静寂が支配している。

 それでも確かに、昂宗にその歌声は届いていた。聴こえていた。

 全身に深く響く音の波。稲妻でも受けたかの衝撃。ゾクゾクと気持ちの悪いほどの鳥肌は気持ちがいいことの証明だった。

 いな穂は強く目を瞑ったまま歌っていた。何も見たくない、見られたくないと怯えているように。どうして。そんな馬鹿なことあるか。これを見ないだなんて、、無理な話だ。

「俺は魂で叫んでいるんだから、みんなも魂で聴いてくれ」

 Muneの言葉が思い出される。

 彼女は魂で叫んでいる。

 魂を震わせる、響く。


 そうか。君が——ぼくの——始まりか——。


『大丈夫?』

 昂宗は放心状態だった。いな穂が歌い終わっても、ずっと身体が動かなかった。動かしたくなかった。ずっと余韻に浸っていたかったから。

 しかし心配そうに、そしてどこか不安そうに見つめ続けるいな穂に気づいて、昂宗は努めて笑って、「ありがとう」と伝えた。視界がぼやけているので目をこすると、そこで自分が泣いていることに気づいた。デジャヴだった。

 どう伝えたらいいのだろう。自分の気持ちを言葉にしようと思ってもどうにもならない。どうしようもないんだ。とにかく何か伝えなくては。

 昂宗はそう思って感想をノートに書き始めた。言葉たくさん浮かんでくる。けれどつまらないものばかり。どれだけ書いても、今の自分の感情の0.01パーセントも表現できない。

 やめだ。

 昂宗は書いていたページを破り捨てた。

 言葉は重ねすぎると1つ1つが潰れていき、薄く軽くなる。どう尽くしても、すべてを伝えきれないのだから、ただ短く一言だけ、

「きこえたよ」

 ちゃんと、聴こえた。そう言った。

 すると今度はいな穂が泣き出してしまった。それに誘われて、また昂宗の瞳からポロポロと溢れた。しばらく二人は河原で肩を寄せ合って静かに泣いた。

 

 二人が完全に泣き止む頃には辺りは真っ暗になっていた。

「かえろうか」

 昂宗が立ち上がって、隣で膝を抱えるいな穂に手を差し出す。彼女は黙ってそれを取って立ち上がった。

 離されると思っていた左手は、立ち上がっても強く握られていたので、左手で持つつもりだった荷物を全部右手で持つ。持ち手が手に食い込み、痛いはずなのに、いな穂と繋がれた左手がジンジンと異様に熱くて、それどころじゃなかった。

 最寄りの駅について、ホームで電車を待つ。二人の乗る方向は真逆だ。昂宗は大学の方に戻り、いな穂は離れていく。

 後ろでは昂宗の乗る電車が来ていたが、いな穂をひとりにするのが不安で手を離すことができなかった。

 少し待つと、いな穂の方の電車が来た。それでもいな穂は動かなかったが、軽く手を引くと歩き出した。しかし、いな穂は昂宗の手を強く握ったままだったので引っ張られる形で一緒に乗りそうになってしまった。それに逆らって立ち止まる。

 電車とホームを跨いで二人は向き合うような位置になった。横を見ると駅員が迷惑そうな顔をしながら出発を知らせるホイッスルをピリリリリッと吹いているのが分かった。右手に持った荷物を黄色い線の内側に投げるようにドサッと置いてから、両手でいな穂の右手を包み込みながら、

「またあえるから」

 目を合わせてそう伝えた。そうすると自然に繋がれた手はスルリとほどけた。しびれを切らしたのか駅員さんが近づいてきているのが視界に入った。すぐに昂宗は電車から離れる。それから扉は閉まって電車は行ってしまった。

 それから駅員さんにはおそらく怒られたのだろうが、何も聞こえなかったし、聞きたいとも思わなかったから、とりあえず反省の気持ちを込めて深く頭を下げた。伝わったのかはわからないが、呆れたように戻って行った。十分ほど待って、ホームに入って来た電車に乗ってアパートに帰った。


 部屋に戻るとそこは朝と同じ風景だった。

 今日買った荷物を整理すると、少し風景が変わった。

 一日を振り返る。特別な日だった。思うところはたくさんある。

 それから物置の方を見た。

 まだ勇気は出なかった。

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