8.遊びに行こう!
大学生になって初めての定期試験がやってきた。その前に一般教養の講義のレポート提出があって、苦戦しながら書き上げた後のテストは、心理的にかなり大変だった。科目数もそれなりにあったし、なによりテスト勉強のやり方が高校時代とはまるで違った。勉強しても勉強しても、自信が湧いてこない。テストの前日、昂宗は不安で眠れなかったくらいだ。
しかしながら、普段からの積み重ねや、いな穂と協力しながら頑張ったこともあって、どうにか乗り切ることができた。終わってみれば、昂宗は成績が出るのが楽しみなぐらい、自信をもって答案を書くことができたのだった。
『終わったね!』
グーッと伸びをしながら左隣を歩くいな穂が言った――もちろん聞こえては、いないが――昂宗も同じ解放感を感じていた。
明日から8月。もうすっかり夏だ。太陽がガンガンと照り付けて、痛い。この辺りは盆地だから、夏は暑く、冬は寒いという最悪な気候である。気温的には昂宗の地元の方が暑いはずなのに、ここの方がずっと暑く感じる。
暑さにはそれなりに強いつもりだった昂宗だが、太陽にさらされて数秒で空調の効いた建物が恋しい。少し歩くだけで結構な汗をかいていた。額に張り付く髪を持ち上げて、タオルで拭う。
対して、いな穂はそれほどでもないように見える。地元というだけあって慣れているということか。それでも、冷たいお茶を飲みながら歩くいな穂の首元には、きらりと汗が光っていた。昂宗はうちわを取り出して、二人ともに風が当たるように少し大きく煽いだ。なまぬるい風だったが、ないよりはマシだった。
今日くらいは勉強を忘れてしまおうということで、二人でどこかに遊びに行こうかという話になり、とりあえず駅へ向かう道のりを歩いている。行先は市街地へ向かう電車の中で話し合うことにした。
すれ違う人、みな暑さが悩みの種のようだ。顔をしかめて腹立たしげながらも、なんとかそれを忘れようと、光ない眼で遠くを見て歩いている。そんな中、昂宗だけは暑さよりも悩ましいことがあり、それを考えながら少し緊張していた。
帰りに「喫茶ちくわ」に立ち寄ることは、ほとんど毎日であったが、しかしあれは名目上は勉強である。寄り道の枠からはみ出るものではない。そういうことで、いな穂と遊びに出かけるということは、出会って二ケ月以上、平日において、ほぼ毎日を一緒に過ごしておきながら、実のところ一度もなかった。友達のいない昂宗にとっては、今日が大学生になって初めてのお出かけである。何をして遊ぼうか。それをいくら考えたところで、昂宗の頭には、「鬼ごっこ」という単語以外浮かんでこなかった。ほんとうに悩ましいことであった。
そもそもの話であるが、昂宗には「遊ぶ」ということが何をすることなのか、あまりピンとこなかったのであった。
昂宗は基本的にインドアな趣味だったため、中学時代まではギターに没頭、音楽仲間に出会ってからはみんなと音楽活動に熱中していたし、高校になってからも友達と遊ぶとなればゲームをしたり、漫画を読んだり、ダラダラと話をしたりして過ごすことが多かった。そもそも田舎だったので娯楽施設が少なかったというのもある。
また昂宗は、「遊ぶ」ということは友達一緒にいる口実のようなものだ、と思っている節もある。「何をするか」ではなく、「誰と過ごすか」に重きを置いたものであるため、普段から長く一緒にいるいな穂と「遊ぶ」意味を見出せなかったとでもいおうか。
他方、昂宗は未だ、いな穂の私生活がよくわかっていない。
まず、昂宗は彼女の交友関係がいまいち掴み切れていない。同じ大学の医学部に、一つ年上の中学時代からの先輩がいるらしいことはすぐに知った。いな穂は相当その先輩のことが大好きのようで、話を聞いていると、どうやらいな穂はその先輩を追いかけて高校も大学も選んだみたいだ。いわゆる親友といったところだろうか。
——余談ではあるが、いな穂は当初、昂宗を大学で二人目の友達認定していたのだが、大学で最初の友達がこの先輩を指していたらしい。さて、大学に入る前からの親友を大学で一番目の友達と認定するのはどうかと思ったが、その時は大学で実質的な一番の友達といわれたようなものだと気づいた。そして、昂宗以降、おそらくいな穂は、大学では友達を作っていない。いな穂が大学で過ごすほとんどすべての時間を昂宗と共に過ごすことは、その証明だ。
もう一人、最近始めたバイト先の、ひとつ年下だがバイトの先輩である高校生をえらく気に入っていることも聞いた。偶然にもその子は、いな穂が通っていた女子高に通っている後輩でもあるらしかった。バイト先では先輩で、学校では後輩。実にややこしい関係性だ。
休みの日はその親友と過ごしたり、昂宗がおすすめした音楽を聞いたりして過ごしているようだ。いな穂が始めたというバイトというのも、昂宗が古いバンドを勧めるばかりなかなか音源が見つからず、それでも探し求めて、今まで入ったことのなかった近所の中古レコード屋に思い切って飛び込んだ結果、レコードとその後輩の女の子に一目惚れしたということだったらしい。
その二人以外の人物の話をいな穂の口から聞いたことがない。
前々から何となく昂宗は思っていたのであるのが、いな穂はあまり過去の自分を話したくないようだ。現在の話、例えば、今何が好きだとか、何が苦手だとか、昨日何があっただとか、それこそ最近は、音楽の話もかなり気軽にしてくれるようになった——あくまでも昂宗の聴いてきた音楽をなぞり、感想を言ってくれるというだけであるが——。
しかし、いな穂がどういう風に生きてきたのか、どういう音楽に触れてきたのか、何を歌って来たのか、その辺りは何も話してくれない。過去のいな穂に触れた気がしたのは、「歌うことが好きなの」と彼女が漏らしたあの時だけだ。
いい思い出がないのかもしれない。話したくないものを無理に聞き出すのは間違っているとわかる。
だから、昂宗が本当に気になるのは、たった一つだけ。
いな穂は音楽をよく聞く。好きなのだろう。だが、あの時いな穂は言った。「歌うことが好きなの」と。それなのに、なにも言わない。話さない。昂宗の胸に引っかかったままの言葉。その意味とは——いな穂は今もう、歌を歌わないのだろうか。
『どうする?』
左に座るいな穂がお話ノートに書いた。気が付けばすでに電車内。空調が効きすぎている。汗で濡れたシャツが冷えてすこし寒い。醒めてきた。いつの間にか昂宗の思考は大きく逸れていた。そのせいで何をして遊ぶか答えが出なかった。
『あー、どうしよう』
昂宗は誤魔化すようにスマートフォンをチラリと見た。時刻は12時半を回った頃だ。そのタイミングでグゥーッと自分のお腹が鳴ったように感じた。
『お腹空いてない? まずは腹ごしらえからしようよ』
『いいね!』
お腹ペコペコ、と言いながら、いな穂は変な顔をした。空腹の表情なのだろうか?
『なにか食べたい物とかある?』
昂宗はとりあえずスマートフォンで「ランチ」と検索をかけながら聞いた。ズラリと並ぶ検索結果に、一瞬クラリと気が遠くなったが、気合を入れて情報を読み取る。いな穂はというと、腕を組んでややオーバーリアクション気味に考えるポーズをとってから、少し照れたように、
『オシャレなパンケーキとか食べてみたいな』
と書いて見せた。ソワソワと落ち着かない様子だ。
『紫吹さんといったりしないの?』
紫吹知大、いな穂の親友だという先輩のことだ。
『知大は食事をただの栄養補給としか思ってない節があるから。全然興味ないんだよね。あの人は放って置けばサプリ生活に陥りかねないぐらいヤバいの。だから誘っても「めんどー」の一言で一蹴されるよ。というかされた。だから、知大と一緒にいる時のご飯は、いつも「じゃあ二人で作ろうか」ってなるんだよね。作るのは面倒じゃないのかなって、毎度思うんだけれど』
そう書きながらも、満更でもない様子のいな穂だ。
いな穂と中学時代から同じということからわかるように、知大の実家はいな穂の家の近所にある。十分大学に通える範囲にあるわけであるが、知大は大学の近くにアパートを借りて一人暮らしをしているみたいだ。いな穂曰く、「電車が嫌いだからじゃないかな?」ということだ。しかしながら、彼女は大学の研究で日々忙しいにも関わらず、生活費から学費まですべて奨学金とバイトで賄っているらしい。仕送りだけで生活している昂宗には、耳が痛い話だ。
それだけ時間がなければ、食事に対してルーズになる知大の気持ちもわからなくはない。昂宗も食生活に関しては未だに杜撰なものだ。ほとんどをスーパーの総菜で済ましてしまうし、自炊するぐらいなら食べないでいいかと思ってしまう。
ただ、そんな知大を案じて、いな穂はご飯を作るために彼女の部屋へ通っているようなものなのだ。知大のもとを訪れる予定がある日のいな穂は、まるで好きな人に会えるのを待ちわびる乙女のようにキラキラしている。二人はまるで恋人同士のようだ。
そう言うならばと、昂宗は改めて「パンケーキ」と打ち込んで検索をかけた。とりあえず一番上に出てきたリンクをタップする。
『パンケーキ食べるならこの店10選!』
ドンッと、タイトルが現れた。スワイプして眺めていると、
『もちもち!フワフワ!』だとか、『しっとり濃厚!』だとか、『インスタ映え間違いなし!』だとか、『インパクト抜群!』だとか、とにかく似たようなフレーズが並ぶ。
どのお店がいいのか全くわからない。昂宗はできるだけ丁寧に、何度もなんども記事を読み返したが、全く情報が頭に入ってこなかった。すると、昂宗が画面をスワイプする手をいな穂が制しして、その時に映っていたお店を指さして、
『このお店がいい』
と言った。
『ずっと行ってみたかったの』
今度はノートに書いて見せた。昂宗はホッと息を吐いて、
『じゃあ、行ってみようか』
すぐ横に、そう書いた。
『準備万端! 道案内は任せて!』
いな穂は無邪気に笑った。
昂宗には未だ、彼女に友達が少ない理由がわからない。
目的地にたどり着いたところで、昂宗は完全に怖気づいていた。
右を見ればピチピチの女子高生がキャピキャピしている。左を見れば周りの目を憚らずカップルがイチャイチャしている。後ろを見ればこなれた女子大生がペチャクチャおしゃべりしていた。目の前には同じく女子大生のいな穂がパンケーキを楽しみにキラキラしていた。四面楚歌とはこのことだった。少なくともジーパンにポロシャツの昂宗が入っていい店とは思えないオシャレさだった。ネット記事の内容がバカっぽかったから完全に舐めていた。
借りてきた猫よりも大人しい昂宗を余所に、いな穂は相当浮かれていた。聞いてもいないのにお店の話をページいっぱいに書いて教えてくれる。昂宗が大した反応をできないでいるのもまるで気にしない。
『うわぁきた!』
いな穂が目を輝かせるなか、パンケーキがテーブルの上に並んだ。昂宗は一番シンプルなメープルシロップと生クリームがトッピングの物を選んだ。おしゃれだなぁと思いながら、昂宗は何の躊躇もなくナイフとフォークを差し込んだ。対照的に、派手にフルーツで飾られたパンケーキを、いな穂はいつまでも眺めていた。
『食べないの?』
口パクで訊くと
『もったいない!』
そう言って、ナイフとフォークを取りもしない。確かにそう思う気持ちも、わからなくはない。これはある種の芸術だ。皿を回して三六〇度、真上から覗いてみたり、果てには皿を持ち上げてそこを見だしたので、さすがに止めた。
そこでやっと踏ん切りがついたのか、やっとナイフとフォークを手に取った。それと同時に昂宗はそれらを置いたのだが、いな穂が楽しそうならなんでもよかった。
何度もナイフを入れるシミュレーションをしてから、やっと一口食べた。
『あまぁ……』
表情をとろけさせておいしそうに食べるいな穂を見て昂宗は満足だった。昂宗はコーヒーのおかわりをたのんで、いな穂が一口一口を大切にしながら、時間をかけて食べるのを見守った。
会計時、英世さんが3人も出て行ってしまったことに衝撃を覚えた。二度と来ることはないだろうなと思った。
しかし店を出る時、いな穂が隣で少し残念そうだったので、
『また来ようか』
スマートフォンのメモにそう書いて見せた。その途端、ぱぁと表情を明るくして大きく頷いた。
昂宗にとって実にリーズナブルで大満足なランチになったのであった。
まず、雑貨屋を巡った。
昂宗は世の中便利なものが多いんだなぁ、なんて田舎者みたいな感想を抱いた。昂宗は田舎者だから問題ない。昂宗にとっては見るものすべてが新鮮だった。
大学生になってほとんどが家と大学を往復する生活だったし、買い物は必要最低限をスーパーマーケットやコンビニで済ませていた。そもそも大学周辺から離れることが初めてだった。そう思って素直な気持ちをいな穂に伝えるとおじいちゃんみたいだと笑われた。
不本意だったが、一般的には自分の方が少しずれているのかもしれないことは何となく理解できた。いちいち説明書欄を見て使い方に感心する昂宗を尻目に、人々はそれの使い方なんて確認するまでも無く手に取って買っていく。
バカでかいお菓子や実用性のなさそうな見た目のマグカップ、派手な時計に誰が背負うの? と思うような奇形なリュックサック、誰に需要があるのだろうと本気で考えてしまうようなパーティグッズの山。とどめにここは本屋さんなんだと教えられて腰を抜かすかと思った。実際たくさんの本が並んでいた。
また100円ショップの商品の充実ぶりには本当に驚いた。これが100円!? と思うような商品ばかりだ。実家の近所の商店街にあった小さな100円ショップですら、昂宗はそれなりに感心していたのに、ここではくらべものにならない商品の充実ぶりだ。感動してしまった。
するとまた、いな穂に馬鹿にされた。もう、自分が馬鹿なんだと認めざるを得なかった。
それからアーケード街を歩く。見たものすべてに昂宗は反応していな穂を引き留めた。それを嫌がることなくいな穂はしっかり返事を返してくれる。先ほどまでとは完全に立場が入れ替わっていた。
『そういうかわいいの好きなんだね』
昂宗はゆるキャラが集まったサブカル専門店で、どう見ても二番煎じ臭い「だらっクマ」という目つきの悪いダラダラしているクマのコーナーで足を止めて眺めていた。
だらっクマは「高学歴のエリートだったが就活で失敗し、第一志望の職場に就けなかった結果、何となくで受けた滑り止めの会社に就職することになった。しかしそこは超ブラック企業で毎日こき使われた挙句、倒れて入院し入社半年でクビを切られた。それ以来、社会復帰を恐れて毎日堕落した日々を過ごしている」という設定のクマだ。友達のキャラには「すねかじリス」と「さぼタスマニアデビル」がいるが、説明するまでもない、酷い設定の動物たちだ。しかしまあ、3匹とも見た目はゆるキャラらしく、それなりにかわいい。目は死んでいるが。
『変かな』
『いや、ちょっと意外で。昂宗くんってもっとクールな人だと思っていたから。ギャップがあってかわいい』
そう書いてから、いな穂はだらっクマのキーホルダーを手に取って、
『これどう?』
と差し出した。
昂宗は少し悩んでから、指をさす。
その先には昂宗よりも大きい(全長2メートルと書いてある)、巨大なだらっクマのぬいぐるみがあった。当然、いな穂は胸の前で大きく
結局何も買わずに店を出た。
『テンション上がりすぎだよ』
落ち着かせるように昂宗に書いて見せた。
昂宗は基本的に物欲がない。部屋には最低限の家具が置かれているだけで殺伐としている。だから少しでもその部屋を明るくできるのではと思い、だらっクマを欲しいと思ったのだが、冷静になるとあんなの家にあったらとにかく邪魔だろう。
「ありがとう」
感謝の気持ちを込めて言葉にした。
『どういたしまして』
そう言ってニコッと微笑んでくれた。
『今度はわたしの買い物に付き合ってくれる?』
そこからまた攻守交替。昂宗はいな穂に振り回される側になった。
足を踏み入れるだけで失礼なんじゃないかと昂宗がまたまた思うような、オシャレな洋服屋を見て回った。堂々とした足取りで店内を歩き回るいな穂の姿は見ていて頼もしかったが、店員に話し掛けられると途端にテンパって口をパクパクとさせて慌てていた。そういう時は昂宗が間に入ってとりあえず微笑んでおいた。するとマシンガンのように言葉を浴びせる店員も空気を読み、営業スマイルを浮かべてその場から離れてくれる。
ほっとした横顔を見て今度は昂宗が口元を手で隠して揶揄うように見る。
それをいな穂は不愉快そうにジロリと睨みつけるが、ただの上目遣いにしか見えない。ただかわいいだけだ。だから目を逸らしてしまう。
視線を戻すと、いな穂はとっくに洋服選びに集中していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます