7.情けは人の為ならず

 昂宗といな穂は、日常生活を送る中で、お互いに直接的なコミュニケーションを取り合うタイミングが、案外なかったりする。気持ちや考えを端的に伝えるような、意思の疎通程度のことならばできるが、「会話」はとなれば簡単ではない。講義中はもちろん無理。お昼ごはんを食べる時は、食べながらものを書くのがかなり面倒くさい。初めの頃はどうにか頑張っていたが、食べる手が止まってしまい、講義に遅れそうになったことがあったのでやめることにした。移動しながらも難しい。講義の間の休憩時間は短すぎるので、どうしても必要な場合でないならば、やはりしようとは思わない。

 だから、放課後の「喫茶ちくわ」で過ごすの時間が、二人が仲を深めるために確実に会話することができる、ほとんど唯一の機会である。

「ありがとう」

 今日も今日とて、復習を済ませて、いな穂にノートを返す。ここからは時間の許す限り、雑談タイムだ。昂宗はこの時間をかなり気に入っている。

『いやー、今日も疲れた』

『そうだね。それにしても昂宗くんはいつも頑張りすぎなんじゃない? もっとリラックスしていこうよ』

 いな穂は左手で器用にコーラフロートのフロートの部分を食べながら書いた。

『でも頑張るのって楽しいからさ。なんというか、いっぱいいっぱいになりながら苦しいのが意外とさあ、ね?』

『……変態なの?』

『ちげーよ!』

 こんな風に他愛のない会話を積み重ねる。いな穂は楽しそうにしてくれている。昂宗にとってとても心地よい時間だ。

『別にわざわざ疲れを溜めたいとは思わないからね? そうだ、いな穂ちゃんは何かリラックスしたいときってどうしている? ストレス発散法みたいなのってある?』

 なぜか、いな穂は一瞬、キュっと眉間にしわを寄せたが、すぐに戻して、腕を組みあごに手をあてて「THE 考える仕草」を取った。足を汲めば完璧だった。

 思っているよりも時間がかかっているようだった。マグカップに手を伸ばしたが、すでに飲み干してしまっていた。昂宗は手持無沙汰だったので少し書き加えた。

『ぼくはそういうのないから教えて欲しいな』

 それをとどめに、いな穂は完全に決まりの悪そうな顔になった。

 それを不思議に見つめていると、

『わたし、歌うことが好きなの』

 少し震えた文字で書かれていた。まだ彼女の手はプルプルと震えている。

 ああ、そういうことか。歌は耳の聞こえない昂宗には真似できないことだ。気を遣ってくれたのだろうか。そして、それでも隠さずにきちんと伝えてくれた。確実に心の距離が近づいていることが実感できて、少し嬉しくなった。

『そうなんだ。まあ、薄々気づいていたんけれどね』

 昂宗はカラカラと冗談っぽく笑いながら返した。いな穂も決まり悪そうにニヘラと笑った。

『え、嘘? どうして?』

 そう書いて見せたいな穂は後ろめたそうに昂宗から視線を少し逸らした。彼女は昂宗に隠しているつもりだったのだろう。そう思うと、昂宗はなんだか自分が彼女に悪いことを言ったように感じた。だから昂宗は努めて明るく、茶化すように根拠を書き込む。

『だって、あれだけ羨ましそうに見ているんだもん。さすがに気づくよ』

 昂宗は先ほどのお返しとばかりに悪戯な笑顔で見せた。

 2人でキャンパス内を歩いていると、隣にいたはずのいな穂が突然消えることがよくあった。今日もあった。そういう時は振り返れば、だいたいそこに立ち尽くしている。ボーッと突っ立って何かを見つめている。そして『ごめん』といいながらトコトコ小走りで追いかけてくる。それを何度か経験するうちになんとなくわかった。

 たぶん、音楽だ。彼女の視線のさきではなんらかの音楽が鳴っているとか、軽音サークルのライブの宣伝ポスターが張ってあったりするとか、路上演奏が行われているとか、そういうことだったのだ。いな穂がキャンパス内でよく見上げている教室は軽音サークルの部室らしいし、しょっちゅうギターやベースを背負う大学生を羨ましそうな目で見ていた。

 以上を簡潔にまとめていな穂に書いて見せると、今度はポカンとして動かなくなった。

 いな穂の気遣いをあばいた風で何となく申し訳ない気持ちになったが、昂宗的にはむしろ、あれでいな穂が隠せているつもりだったことに驚いた。いな穂は素直で優しい子だから嘘を付けないのだろう。

 昂宗は失笑した。我慢できなかった。

 やっと意識が帰って来たいな穂は顔をカッと真っ赤にして手で顔を覆った。それでも昂宗はケラケラと笑いが止まらなかった。

『もう帰る!』

 ドンッと机を両手で強く叩いていな穂は立ち上がった。その衝撃で目の前のがグラグラと大きく揺れていた。

『ごめん、ごめん』

 急いで昂宗はパチンと両手を合わせて謝った。なんとか席に着いてくれたがプクリとふくれっ面だ。

『今日は奢るからさ』

 書くと、その途端満足そうにニンマリと笑った。どうやら怒ったふりだったらしい。やれやれと昂宗が呆れていると、

『男に二言はないよね!』

 と書いた紙をヒラヒラとさせながら田中さんを呼ぶ彼女は、とてもいい表情だった。


 「喫茶ちくわ」で過ごすこと約1時間、雲行きが怪しくなってきたので解散することにした。あんなことを言っておきながら、結局、いな穂は自分の分は自分で支払った。

 いな穂は大学に電車で通っている。母校が大学の近所だというから家もこの辺りなのかと思っていたが、案外遠いらしい。大学は市の北の方にあり、いな穂の実家はその真逆に位置している。大学くるには市を縦断しなければならないようだ。電車で一時間弱はかかる。

 いつも通り、昂宗は駅までいな穂を送ってからひとり帰り道をトボトボ歩いていた。その足取りは少し重い。店を出た時はなんだか晴れ始めていたと思ったのだが、気づけば今にも雨が降り出しそうだった。それでもアパートに向かう足取りはやはり変わらない。

「うたがすき、か」

 昂宗は呟いてみた。

 この前の一件以来、いな穂は無理なふるまいをしなくなった。昂宗もいな穂に対して不要な遠慮しないようにしている。探り探りではあるが、確かに関係は良い方に変わって行っている——と昂宗が思っているだけではないか?

 いや、その前提を疑うのはやめよう。そう決めたのではないか。

 けれど昂宗は考えることをやめられない。

 いな穂は歌が好きなのだ。

 好きなものを好きだと、あんなに苦しそうにしか言えないなんて。自分のせいで、彼女は自分の好きなことすら楽しくことができない。

 彼女は駅の改札を抜けてから振り返って『忘れてね』と言って笑った。無理な話だ。

 胸にはずっしりと罪悪感が、その存在を強く主張してくる。

 二人の時間を心から楽しんでいるのは自分だけなんじゃないか。

「もうやめよう」

 もともと大人しいわけじゃなくて、本当はもっといろんな話がしたいんじゃないのか。

「かんがえたっていみがないって」

 見たものをそのままに口にしてもっと気楽にコミュニケーションを取りたいんじゃないのか。

「しんじるってきめたじゃないか」

 聞こえない人間に聞こえることを気遣いながら生活するのはとんでもなく負担になっているんじゃないのか。

「いなほちゃんはそんなことおもっていない」

 友達といってしまった以上、変に距離を開けると昂宗が傷ついてしまうと思って無理に一緒にいてくれるんじゃないのか。

「もういいって——」

 負の思考がトクトク溢れる。雪崩は起こってしまえば止まらない。行き着くところまで流れ続ける。


「ぼくはなんて、じゃまなんだろう」


 その時、グイっと思い切り腕を引きちぎらんばかりに引っ張られた。受け身も取れずゴロゴロとそっちの方へ転がった。瞬間、さっきまで昂宗のいたところを大型バイクがビュンと通りすぎた。

 そして数十メートル先で止まり、振り返っている。マジックミラー加工のフルフェイスのヘルメットは数秒してまた発進した。何か文句を言ったのだろうか? 心配してくれたのかもしれない。しかし、昂宗にはまるで分らなかった。

 ただ一つ理解できるのは、危なかった。引っ張られなければ、あのバイクに撥ねられて死んでいたかもしれないということだ。バイクが通り過ぎたのが普通に車道であったことから、気づかぬ間に自分が歩道から飛び出していたとわかった。

 トントン、と肩を叩かれてそちらを見ると、

『大丈夫ですか?』

 ホッとした表情で制服姿の女子高生が手を差し伸べてくれていた。素直に手を借りながら昂宗は立ち上がった。

『危なかったですよ』

 心底安心したように彼女は言っている。昂宗は口を開こうとして、やっぱりやめた。発音に自信がない。驚かせてしまうかもしれないと思った。

 スマホのメモアプリを開き、打ち込む。礼も言わずにポチポチとスマホを無言で操作する不躾な態度に怒るどころか不愉快な顔すら見せず、彼女は待ってくれていた。

『ありがとうございました。危うく死ぬところでした。礼も言わずにこんな失礼な態度ですみません。実は耳が悪くてうまく話せないのです。できることなら許してほしいです。ほんとうにありがとうございました。助かりました』

 その画面を見せると彼女はニパッと嬉しそうに笑って、『それ、貸してください』と口をゆっくり動かしながら手を差し出した。それに従うと、ササッと慣れた手つきで打ち込み終わり、今度は彼女が画面を見せてくれた。

『情けは人のためならず。僕は自分のためにあなたを助けたのです。感謝なんてされる覚えはないのですよ』

 そう一度見せてから、もう一度、何やら打ち始めた。少し長めの文章らしい。数十秒後、昂宗にスマホを返した。昂宗が文章を確認する暇もなく、彼女は『それじゃ』と言ってお辞儀をしてから、ひざ下あたりまである少し長めのスカートをフワリと翻し、颯爽と去って行った。

 なんて大物な女の子だ。せめて名前だけでも、といえば名乗るほどのものではありませんといいそうだった。

 しばらく呆然としてしまった。顔に真っ赤になった夕日が差し込んで眩しいとギュッと目を瞑ったところでハッとした。とりあえずスマホの画面を見ると、こんな文章があった。


『確かに、あなたは邪魔だったかもしれません。ですが、それはあなたが車道に立っていたからです。では歩道だったら? それもたぶん邪魔でしょうね。だったら待ち合わせ場所に立っていたならば? ……残念ながら邪魔かもしれません。しかし、その場合は、あなたを見つけてくれる人が必ずいます。

 世界のどこにいても、大勢の人があなたを邪魔だと言います。そして客観的に自分を見ても邪魔で間違いないと感じます。それでも、世界のどこかに、あなたを探している人が、必ずいます。

 あなたが必要だ、と言う人がいるのです。それを忘れてはいけません』


 昂宗はその画面をスクリーンショットし、待ち受け画面にすることにした。

 なんとも鮮烈な出会いをした。何のことを考えていたのか、そんなこと簡単に吹っ飛ぶような衝撃的な出来事だった。

 黒い雲はいつの間にか消えていて、空は綺麗な茜色に染まっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る