4.音のない世界
朝、起きるとやけに静かだった。『とても静か』どころではなかった。完全なる無音状態。
昂宗は眠るときもイヤフォンを耳に突っ込んだまま眠る。そしてそのまま目覚める。だからいつも通り、なにか流れているはずなのに。
昂宗は、疑問に思いながら耳に触れた。寝返りを打つときにイヤフォンが耳から取れてしまうことはしばしばある。しかし、イヤフォンは耳に収まっていた。
断線でもしたのだろうか?
眠っている間にコードが絡まるのもよくあることだ。そのため、知らぬ間にコードへ負担がかかってしまったのだろう。
それなりにいいイヤホンだったのに、と少し残念に思いながら、コトリと机に置いた。
変わらず、静かなままだ。
しかしながら、昂宗はそれに違和感を覚えるどころか、むしろ得心した。
『ああ、朝なら、そりゃあの人たちも寝ているし、静かなのも当たり前か』
見当外れな理解を独り言ちた。そしてラッキーだと思い、替えのイヤフォンはつけないで大学に行く準備を進めた。
昂宗はあの日以降も――音楽を蔑ろにしているとわかっていながら――、音楽でノイズをかき消すということをやめられないでいた。にわかには信じられないことであるが、普段からそのように音楽を利用しながら生活していたことで、昂宗は、キュっと蛇口を捻れば水がジャージャーと流れ出すことも、顔を洗う時パシャパシャとはじけ飛ぶことも、ビニールで包装された食パンを取るときはガサガサとなり、トースターはチンという合図で焼きあがりを知らせてくれることも、家を出て部屋に鍵をかけた時カチャッとなることでしまったことを確認できるということも、『音』というものの何もかもを、忘れていた。
コンコンとつま先を地面で叩いて靴を履いた昂宗は、部屋を出てまず空を見上げた。今日も気持ちのいい青空だった。朝の柔らかい日差しと、ふわりと吹いた涼しげな風が昂宗に挨拶をするようだった。昂宗は呑気に目を細めておはようと呟いた——誰に言うでもなく——。
いい気持ちになったのはつかの間、昂宗はキャップを深くかぶり直し俯いて、周りをほとんど見ないようにしながら、歩き出した。
時間はまだまだ早い朝。車通りはほとんどない。すれ違うのは眠そうにしながらも速足で歩くサラリーマンや、朝練に向かうスポーティーな中高生ばかりだ。昂宗は彼らに見向きもせず、もう見慣れてしまったアスファルトだけをぼんやりと眺めながら、ただただ大学へコツコツと足を進める。ほんの数分で、いつも通りほとんど無人のガランとした大学キャンパスに入った。
あの人の歌を聴いて以来というものの、昂宗の朝のルーティンワークはキャンパス内散歩から、講義室巡りもとい『人探し』に変わっていた。約2週間、毎朝昂宗はあの人を探し回っているが、未だに彼に出会えていない。1時間程かけてすべての講義室を回り、今日もいないことを確認すると、ハァ、とため息が出た。そろそろ登校してきた人がちらほらと見え始めた。人が増える前にさっさと自分の講義室に行き、定位置の席に着いた。
実のところ、もともと昂宗は早起きが得意ではない。常識的に考えて、夜にはギターを弾くことはできない。ギターを取り戻したあの日は特例である。そのため、ご飯を食べてお風呂に入れば、あとはもう眠ることしかすることが無くなる。だから電気を消して布団にくるまって、耳を塞いで、気づけば眠ってしまっている。よって自然と朝早く目が覚めてしまうのだ。
なんとなく眠気が残っているので、昂宗は講義が始まるまで机に伏せて仮眠をとっている。その時ばかりはイヤフォンを取って、講義開始時間が近づくにつれてガヤガヤ騒がしくなってくるのを目覚ましにして、起きるようにしていた。
鞄から筆箱と教科書、ノートを取り出し机の上にズラリと並べる。それからまだ他に誰もいない無音の講義室でひとり、スヤスヤと眠りについた。
しばらくしてまどろみから覚めた。昂宗は目元をゴシゴシとこすって、目やにを払った。周りはまだ無音だった。それほど時間が経っていないのかと思ったが、それにしてはなんだか身体が痛い。長時間机で眠ったとき特有のズシリとした倦怠感がひどかった。グーッっと伸びをすると、腰のあたりがパキパキとなったのが分かった。
それから徐にスマホ取り出して時間を確認すると、すでに講義の半分が過ぎている時間だった。どうしてまだ静かなのか不思議に思いながら前を向くと、教授が教壇に立って口をパクパクさせていた。
意味がわからなかった。
振り返ると人、人、人。
みな真剣に講義を受けているようだった。
真剣に講義を受けていないのは、講義を聞いていないのは——聞こえていないのは、昂宗だけだった。
昂宗は講義室を飛び出した。
悪い夢だと思った。あまりにも現実離れしていると思った。
勢いそのまま逃げるように、アパートへドタドタと駆け出す。走りながら自分の頬をキュッとつねってみる。痛い。足が絡まってこけてしまう。ズボンの膝のあたりはビリッと破け、アスファルトに突いた手はズルりと皮がむけて、血が流れた。ズキズキ痛い。
それでも一心不乱に走った。
鍵を開けて服も着替えないで、手の血も流さないで、鞄をドサッと投げロフトを上ってバサッと布団に潜り込んだ。
いまは調子が少し悪いだけ。
歯がガタガタと鳴る。
目が覚めればきっと元通りだ。
ブルブルと全身の震えが止まらない。
『夢なら早く覚めてくれ!』
キュっと強く目を閉じた。暗くて静か。シンと静か。
——ハッと目が開く。
まるで自分の身体が消えてしまったのかと思った。目を閉じた途端に、自分がいま存在している実感が無くなってしまった。瞬きすら、怖くなった。
必死に自分を抱いて、自分を確かめ続ける。
不安で、孤独で、誰もいない。自分さえ、いない。
それからどのぐらい経ったのだろうか。最近は日の入りもすっかり遅くなったはずなのに、すでに空に太陽はおらず暗い。いつの間にか眠ってしまっていたようだ。
体も心も、ひどく疲れていた。
血まみれの布団からゾンビのように這い出て、真っ暗なままで昂宗はギターの前に立つ。ケースに入れることなく裸のまま雑にネックの根本を握り締めて、部屋を出た。靴を履かずに出たため、靴下はアスファルトに破られて、ほとんど裸足の状態だ。すれ違う人はみな昂宗を振り返った。しかしながら、昂宗はそんなもの気にすることができないで、無心にペタペタと歩く。フラフラと不安定な足取りで向かったのはいつもの河川敷だった。
着くなり、ギターをかき鳴らした。ポロロン。当然のように聞こえない。断線したイヤフォンのように無音だ。
昂宗はみっともなく大声をあげて泣いた、と思う。
何も聞こえなかったから。自分は声を上げていたのか、わからない。
ただ頭にガンガン響く痛みと喉の震えだけが、昂宗に感じ取れる『音』のすべてだ。
昂宗の『音』は、もう無くなってしまった。
朝日がキラキラと眩しくて目が覚めた。叫び疲れて河原で眠ってしまったようだ。瞼はひどく腫れていて開かない。昂宗は目じりを親指でグイッと持ち上げて目を大きく開く。
五月の朝は結構肌寒い。
ただ、いまの自分にはちょうど良かった。またジワジワと熱くなりそうな頭と目がしらを冷やしてくれる。立ち上がってヨロヨロと家路につく。
アパートに着くなり風呂に入り、全身の汚れを落としてさっぱりした。昨日の手の怪我にはペタリと絆創膏を張った。血まみれの布団のシーツも交換した。
そして大学ではなく、朝いちばんで病院に向かった。
病院独特の薬の匂いを嗅ぐと子供の頃に受けた注射を思いだして少し不安になる。昂宗がどうにか受付を済ませ待つことしばらくの間、わざわざ看護師が迎えに来てくれて、診察室に通された。
それから診察は丸一日を費やして行われた。それにも関わらず、結果は原因不明だと言われた。そして治るのかという肝心な部分に、医師は口を濁した。
『須賀屋さんの耳は何ら問題なく機能しているはずです。もしかすると須賀屋さんの心理的な問題が失聴の原因になっているのかもしれません。何か心当たりはありますか?』
医師の説明に、昂宗は思い出す。
心理カウンセラーを紹介されたが、昂宗はそれを断って病院をあとにした。
また熱くなったわけではない。自分でも驚くほど、昂宗は冷静で——何もかも冷え切っていた。
これは『音楽』を侮辱した罪への罰だ。蔑ろにされた『音』の呪いだ。
己の魂の叫びを軽んじられたMuneの怒りだ。
今度こそ、本当に終わってしまった。そう思った。
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