3.終わり始める
大学生活も始まって、あっという間に一か月が過ぎた。
本当にあっという間だった。何をするにも一生懸命じゃないといけたかったため、昂宗は余計なことを考える暇がなかったのだ。だが、ここにきてやっとひとり暮らしの要領もつかみ始めた。おかげで心に余裕も出てきた。
ところが、その余裕が昂宗に新たな問題を生み出した。
時に、昂宗の住むアパートの条件がとてもいいのに、家賃が安い。しかしながら、そんな都合のいい物件があるはずがないのだ。安いのには、当然理由があったのだった。
今日も隣の部屋から楽しそうな笑い声が聞こえる。
そう、昂宗の住むアパートは、もはや布一枚と言ってもいいほどに壁が薄いのだった。
自宅は絶対的に外界や他者と隔絶されたプライベート空間であるはずなのに、この部屋は全くその機能を果たしていない。まるで同じ空間に放り込まれているのではないかと思うほど、隣の部屋から音がする。
このアパートには下宿の学生が多いみたいだ。2階建てのアパートの各のフロアには4つの部屋が並んでおり、1階の左から2番目が昂宗の部屋である。その両隣には、昂宗の通う大学の近隣にある他大学や専門学校に通っている下宿生が住んでいるようで、どちらもどうやら派手な人間のようだ。宅飲みなのか何なのかわからないが、毎晩と言っていいほどに、どちらかの部屋で人が集まって騒いでいる。げらげらと下品な笑い声の暴風に、けたたましい会話の雨、そしてたまに、女性の艶やかな喘ぎ声——それも複数の——が雷のように鳴り響いて、昂宗の全身を撃つ。
心底、迷惑極まりなかった。けれど彼らの迷惑を被っているのは、きっと昂宗だけだ。彼らが楽しんでいるのをやめてくれと昂宗が言うのは、自分の都合で彼らの楽しみに水を差すのと同じように思えた。それに民主主義的に多数決を取れば彼らが正義となる。例え、民主主義では少数派を尊重し切り捨ててはならないというのが原則だとしても、たぶん彼らには通じないだろう。そう思うと昂宗は何も言えなかった。言い返されるのが怖くて何も言えなかった。
それでも一度だけ、あまりにひどかったので勇気を出してやめてくださいと言いに行こうと思ったことがあった。昂宗は部屋から出て、声のする方の隣の部屋のドアの前に立った。しかし部屋の電気は消えていて、まったく人気がなかった。代わりにもう一つ奥から、さっきと同じ声が聞こえていた。
なんと昂宗が聞いていたのは隣の隣の部屋の住人の騒ぎ声だったのだ。
あまりの出来事に、昂宗は絶句した。
この時から、——いや、そもそも始めからこの部屋は、昂宗の空間ではなかったのだ。
そうは言っても、外を出歩くのも辛い。街中でも大学でも、どこへ行っても皆幸せそうに笑っている。
うるさい……、うるさい。うるさい!
その喧騒は昂宗をどんどん追い詰めた。
ある時——Muneの音楽に身を委ねている時、思いついてしまった。最悪な方法を——かき消せばいいんだ。
昂宗は耳にイヤフォンを突っ込んだ。いつでも、どこでも、常に耳を塞いで、全部から逃れるために、周りの音なんてまるで聞こえないような音量で音楽を垂れ流し続けた。
当然、音を楽しむためではない。
音をかき消す、音楽を利用した。
それはとんでもない、音楽への冒涜だった。
けれど、どうしようもなかった。無感情に、自分に言い訳をした。
それからも昂宗は、淡々と退屈な単純作業のように、大学生活をこなした。講義も聴いていてなぜかつまらなかった。それでも何となく板書をして、教授の講義に耳を傾けメモを取る。講義が終わっても何をしたいとも思わず、何をしようとも思わない。部屋に戻って、耳を塞いで、ただ次の講義の時間まで待つ。
自分はなにをしているのだろう。
いつも考えていた。味気ない、退屈の日々をただ消費していく自分を客観的に見つめて、たくさん考えた。それでも何も思えなかった。いたずらに時間は浪費されてゆく。
Muneを聴いても、無感動だった。魂は震えなかった。その時の昂宗にとって、Muneの音楽は、ノイズを消すためのただの『道具』に過ぎなかった。
ここまでくると、もはや辛いとも思うこともできないような『無』の生活だったが、それでも臆病で小心者の昂宗はそれを捨てることはできなかった。学生をやっているという自意識にすがるしか、方法がなかった。
昂宗は大学の講義がある日、誰よりも早く大学に向かう。他人を見るだけで息がつまってしまう。だから、昂宗は登校してきた他の学生によってできる人込みを絶対に避けたいのだ。そのため、講義が始まる一時間ほど前には、講義室にいるようにしている。そして教授以外誰も視界に入らない最前列のど真ん中に座って、俯きながら、耳を塞ぎながら、じっと講義開始を待つ。早くもこれが昂宗の習慣になっていた。
朝に弱い人間には、この生活こそ辛いと思われるだろうか? しかし、昂宗にとっては、これこそ癒しだった。昂宗は朝早くの大学が好きだった。
いつも人で溢れかえって喧しいキャンパスに、人が全くいないという不気味で不自然な光景が、不思議に思えて神秘的に見えて、かえって昂宗の心を落ち着けた。この時だけは、この大学を自分の大学だと思えた。ここだけが自分の居場所のように思えた。
その日も、昂宗は大学に朝早く来ていた。いままでは講義室に直行していたが、最近はそれよりもさらに早く来る分、キャンパス内を散歩する。これがちょっとした趣味のようなものになっていた。
昂宗は大学に着くなり、常に装着しているイヤフォンを外す。キャンパス内はとても静かだから、雑音はいらない。鳥のさえずりと風でこすれる木の葉のささやきに心地よさを感じながら、のんびりとただ歩いた。空は澄み切っていて、所々に柔らかそうな雲が浮かんでいる。それだけで、昂宗の心は洗われていく気がした。
1時間ほど歩いてから——それでも講義まで1時間以上ある——、講義室に向かうことにした。
講義室のある校舎に入って階段を上っていると、どういうわけか、かすかに歌声が聞こえいた。不思議に思って昂宗は耳に自分の触れる。昂宗の耳にイヤフォンは着いていない。
なぜ? その歌声は、昂宗が講義室に近づくにつれて、次第に大きくなっていった。
昂宗は不思議に思った。どうして、こんなに心躍るのだろうと。どうして、魅せられているのだろう。
ドキドキする。ワクワクする。ゾクゾクする。歌声が大きくなってゆくにつれて、昂宗の心臓も、強く、大きく打った。鳥肌が止まらない。全身の震えが止まらない。上手く力が入らない。だけれど、昂宗の足はどんどんそちらへ吸い寄せられていった。無意識に歩みは速くなっていった。最後には全力で走っていた。
やっとというべきか、早くもというべきか、講義室にたどり着いた。
それから気が付いた。
頬に触れた手が濡れた。
昂宗は、涙を流していた。
そしていつの日か感じた、あの気持ち。どうしようもない感情。
魂に響いている感覚。この歌声なのか?
昂宗の魂に共鳴し、震わせる。
『本物』にしかできない、魂からの叫び。
昂宗は扉の前で立ちすくみ、腰が抜けてぺたりと座り込んでしまい、しばらく動けなかった。
そして、動きたくなかった。少しでも長く、この気持ちを味わっていたかった。
『終わり始めたねぇ。まだ終わってない。いつまでだって、終わり続ける』
その言葉がふっと浮かんだ。
「まさか…………」
やっと終わり始めた。そう思った。
歌い終わったのか、歌声が止んだ。そこでやっと正気が戻ってきて、歌っていた本人に伝えたくなった。
僕と一緒に——。
そのために気合を入れて立ち上がる。ガクガクと震える膝を一度強く叩いて、握力皆無の手で講義室の扉を掴んで、根性で立ち上がる。あと少し。あと少しで……、
「だれっ!!」
その時、中から怒鳴り声が聞えた。低く、恐ろしい声だった。その声が真に迫っていたので、昂宗は自分が何だか悪いことをしているように思えてしまった。だから隠れるように反射的に体が縮こまってしまって、またこけてしまう。それからしばらく中から音はしなかった。
「ああ、べつに隠れることはないじゃないか」
よく考えると、昂宗は歌声の主に気持ちを伝えたかったのだ。今度こそ、とゆっくりと体を起こしていると、バタンッ! と向こうにある扉が勢いよく開き、誰かが飛び出してきた。真っ黒なパーカーにフードを被った姿。涙が邪魔で背格好も性別さえも、よくわからない。まさに人影だった。わかるのは、その人がこちらを振り返ることなく駆けていくということだけだ。
「待って!」
しかし、当然それに従うことはない。
「せめて名前だけでも!」
その人は、そのまま走り去っていった。生まれたての小鹿のような足腰の昂宗には、ただその後ろ姿を見送ることしかできなかった。数分後、やっと力が入るようになって、それから急いで後を追いかけたが、見つけることはできなかった。しばらくキャンパス内を走り回って探したが、だいぶ人が増えて来ていたので、昂宗は諦めるしかなかった。逃げるように講義室へ戻った。
昂宗はがっくりと項垂れた。
その日は一日中、その人の歌が頭から離れなかった。その人の歌声が、その人の歌う、昂宗も聞いたことがないその歌が、ずっとずっと響いていた。いつまで経ってもこのどうしようもない悶々とした気持ちが晴れることはなかった。
講義中はいつもとは少し違った上の空。
いつものような過ぎ去ることになんの興味もなく、しかし早く過ぎて欲しいとも思わない無関心な退屈ではない。いうなれば、まるで大好きな女の子とのデートを待ちわびるかのような、けれどそんな時間でさえ楽しんでしまっている、充実感に溢れたもどかしい緊張とでもいおうか。
講義が全て終わると昂宗はすぐにアパートへ戻った。そして荷物が積み重なった収納スペースから、大きな長方形の箱を引っ張り出した。高級感のあるハードケース。
それを開く。
これをやめた日、他の数本はすべて売ってしまった。しかし初めて買ったこれだけは、売らなかった。捨てられなかった。それだけは、できなかったのだ。そして下宿先に持ってきてしまっていた。
なぜなら、昂宗は期待していたから。みっともなく、あれだけ思い知ったにも関わらず、自分の才能に。これを捨ててしまえば、全部なかったことになるような気がして、自分が『本物』ではないことを思い知らされたことよりも、遥かに恐ろしいことだと思った。
約三年ぶりにそれを見て、怖いと感じた。あの日の絶望をまた思い出した。それでも昂宗は、迷うことなくこれを————ギターを手に取った。今日、それを超える希望に出会えた気がしたから。
初めて触った頃、大きすぎると感じたボディはすっかり体に馴染むようになっていた。太すぎるネックも、今では簡単に指が届く。
軽く弦を弾くと奇妙な音がした。弦がすっかり錆びてしまっているせいだ。チューニングをしても音が合わなかった。ネックは反っていて弾きにくい。あらゆる金属パーツも錆びていて、埃っぽくて、全体的に汚い。
それでも彼の出す音は、昂宗をしびれさせる。懐かしい記憶をよみがえらせる。
あの頃のこと。あの日のこと。あの時のこと。あのライブのこと。
あの人のこと。
ギターをつま弾くほどに次々と思い出が溢れて、止まらなかった。久々に、昂宗は笑った。夢中になって弾いてしまった。
だが、隣の人が壁を殴った音を聞いて我に返った。それと同時に力が入ってしまい弦が切れてしまった。
昂宗は思い出に耽っているところを邪魔された。それも普段散々うるさくしているような相手に、理不尽な怒りをぶつけられた。
ところが、昂宗は憤るどころか確かに近所迷惑だった、と反省した。殺されても笑って許してしまいそうな程、いまの昂宗は気分がよかった。
その日、すぐに楽器屋に向かい、ギターの整備に必要な道具を一通り買い揃えると、またすぐにアパートに戻って早速整備の作業に取り掛かった。
夕方から始めた整備だったが、気が付けば空が白んでいた。それでも眠いと思わず、昂宗は今すぐに弾きたいと思った。
整備道具と共に買ってきたソフトケースにギターを入れて、家を飛び出した。
大学のすぐそばには大きな川が流れていて、そこの河川敷なら時間を問わずギターを弾くことができるだろうと思った。
河川敷に向かうと住宅から適度に離れていて、かつ橋の下で綺麗に音が響くちょうどいい感じのスペースが広がっている場所があった。そこに適当に腰を下ろし、昂宗は早速ギターを取り出した。ボディのくびれの部分を右の腿に乗せる。
さて、何から弾こうか?
考える間もなく、思い至った。
あの歌にしよう。あの歌を弾きたい。
今も昂宗の頭から離れない、彼女が歌っていた、あの歌に。
自分だったらどういうアレンジを加えて伴奏するだろうか?
すぐにアイデアが頭に溢れた。それでもとめどなく湧いてきた。片っ端から音にしていく。楽しくて仕方がなかった。
これでいいじゃないか。別にMuneのようにならなくたっていい。
『本物』じゃなくたっていい。
音楽をする。
音を楽しむ。
それだけでよかったんだ。
それだけで憑き物が落ちたようにさっぱりとした。
もう一度、音楽がしたい。
今度こそ、音楽がしたい。
それからというものの、昂宗は毎日、河川敷でギターを弾いた。大学にまでギターを持ち歩き、お昼休みや空きコマ、帰り道に必ず河川敷に行ってギターを弾いた。
やっとぼくの音楽は終わり始めた。そう思った。
それからしばらくして、昂宗は変な夢を見た。
目の前にMuneが降りて来て、昂宗はそれをただ見ているだけ。
Muneは笑ってそっと昂宗の耳を塞いだ。
目覚めると、昂宗は聴覚を失っていた。
それは突然のことだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます