第10話:【早霧】見えない境界

 素敵なお店があるんだ、と。夏希に誘われて行った。

 なにかを褒めるのに、素敵なんて言葉。誰かが本当に言うのを聞いたのは、初めてじゃないかな。

 それにお店って、オープン準備中とは思わなかった。たしかにオーナーの春菜さんは素敵な人だったけど、普通はオープンしてから行くんじゃね?


「あれ、誰が来だが?」

「そうだね。まあ、なにかあったら呼ばれるでしょ」

「んだな」


 とかなんとか、準備を手伝うようになって、一ヶ月くらい経った。

 先週までちょこちょこと、手直しの工事があったりして、なんともゆっくりな準備だけど。

 それでももう来週にはオープンってこともあって、消耗品とか食材とか、今日は一斉に運び込まれた。

 私は昼からずっと、夏希と二人で倉庫の整理だ。


「ん……?」

「なんした?」


 お店はそれほど広くない。四畳くらいの倉庫は、その一番奥。聞く気はなくても、声が聞こえる。

 どうもさっき来た誰かの声に、聞き覚えがあった。それもなんだか、春菜さんが困っているようでもある。

 大人の話っぽいけど、どうしたもんか。


「ねえ、なにしてんの――」

「ん、えあ、早霧!?」


 悩もうとしたけど、気になってしまったらそれどころじゃなかった。顔を出してみると、いとこの兄ちゃんが椅子に座ってる。


「あら、早霧ちゃんと知り合いなの?」

「知り合いってか、ええとっスね……」

「長井の兄ちゃんは、私のいとこです。妹ちゃんとは仲が良くて、この前も泊まりに」


 店内に片付ける荷物が、まだまだたくさんカウンターに載ってる。岡野さんは、さらに足りない物を買い出しに行ってる。

 そんなクソ忙しい春菜さんは、兄ちゃんの対面に座ってた。ご丁寧に人数分のお茶まで紙コップで出して。


「どしたの。結婚でもすんの」

「そういうんじゃ――余計なこと言わないでくれよ」


 余計なこと?

 カチンと来たけど、ややこしくなりそうだから我慢する。

 そんなことより、兄ちゃんの隣に座ってる女の人だ。すごく落ち込んでるように見えて、なんだか危なげだ。


「あれ。お姉さん、お腹治っだが?」

「え――」


 唐突に夏希が言って、その人がこっちを向いた。ショートヘアの美人タイプ。兄ちゃんと付き合いそうには見えない。


「お腹?」

「あたしが最初にこごさ来だ時の――」

「あー、そんなこと言ってたね」


 私にはなんだか分からないけど、春菜さんにも心当たりがあるみたい。ショートのお姉さんは、居心地悪そうに顔を伏せた。


「あー、早霧。大事な話があるから、向こうへ」

「大事な話? それ、春菜さんにとって? 兄ちゃんにとって? 春菜さんは、このお店の準備が大事なはずだけど?」


 この中で余計なのは誰かと言ったら、そっちでしょ。なんて、さっきの仕返しのつもりで強く言う。

 そうしたら兄ちゃんは、悔しそうな顔で黙ってしまった。


「え、ええと。早霧ちゃん、夏希ちゃん。すぐすませてもらうから、ちょっとだけ――」

「いいわ」

「え、でも美雨」

「いいって言ったの。もう会社じゅうに知られてるし、恥ずかしいことなんてないわ」


 ショートのお姉さんは、美雨というらしい。真っ青な顔をして、変な感じに覚悟を決めたっぽい。


「私、クビになったの」

「えっ、クビ?」

「ええそう。あちこちに盗聴器を仕掛けて、聞いてたから」

「……なんでそんなこと」


 思った以上に、ヤバい人みたいだ。春菜さんもかなり驚いたみたいだけど、色々と言葉を飲み込んで、ようやく返事をした。


「私、あれからもずっと好きだったのよ。だから、春菜のことを知っていたくて。でもそれが癖になって、春菜が居なくなってもやめられなかった」

「ここにも、何度か来たみたいなんス。俺も最初は協力してしまったっス。すみませんス!」


 えっ、なに。あちこち振りきってて、どこに驚けばいいのか分かんない。

 春菜さんも予想外過ぎたんだろう。目の前の二人と私たちと、交互に顔を見て戸惑ってる。

 どうやらさすがに、席を外したほうが良さそうだ。そう思って夏希を見ると、エサを食べる鯉みたいに口をパクパクさせてた。


「……たまげだ」

「ね」


 私たちは倉庫に戻って、作業を続けることにした。

 でもなんだか音を立てないように、そっと動いてしまう。それにやっぱり近いんだから、そうしなくてもほとんど聞こえる。

 どうやら美雨さんは、入社してすぐの歓迎会と兼ねた慰安旅行で、春菜さんと同じ部屋だったらしい。

 最初はそういうつもりはなかったけど、酔ってふざけているうちに、本気で好きだと言ってしまった。本気でそう思い始めた。

 兄ちゃんはそれとは関係なく、岡野さんが不倫をしていると美雨さんに聞かされたみたい。

 春菜さんを好きな兄ちゃんは、それを止めないとと思ってやって来たと言った。


「うん。知ってる」

「知ってる? 知ってて続けるんスか!?」

「ううん、そうじゃないの。岡野さんはもう、離婚してるの。その理由も聞いた」


 はー、あの人バツイチだったのか。まあ清潔感あるし、春菜さん以外に付き合ったことないって言われるほうが信じられないけど。


「えっ。不倫じゃ、ない?」

「そんな! 人事の資料にはそんなのなかった」

「資料って、古いのを見たの? それならないと思うよ、別れたのは去年だもの」

「あ……」


 誤解だと、納得がいったらしい。

 美雨さんが大きく息を吐いて黙ってしまうと、兄ちゃんも何も言えないみたい。

 そりゃあ聞いてたら、美雨さんの話を鵜呑みにしてたっぽいし。そうもなる。


「途中まで、知らなかったの。でももしかしてそうかなって思って、聞いたらそうだった」

「毎度お世話になりまぁーす!」

「あっ、やば。雪絵さんだ」


 元気よく扉が開いて、私も何度か顔を合わせた、優しいお姉さんがやって来た。

 今日は飲み物を作る練習のために、ミルクなんかも届くと聞いてたけど。しかしなんて最高に、最悪なタイミングで来るんだろう。

 いや逆にいいのか? 関係のない人が来れば、ここまでにしようとなるかもしれない。


「あれ、お客さま? すみません、お邪魔しちゃって」

「大丈夫ですよ」

「他を回って、また来ましょうか?」

「いえ、大丈夫なんです。でもちょっとだけ待っててもらっていいですか?」

「それはいいですけど――」


 夏希は代わりに、応対に出ようとしていた。でも春菜さんはどういうわけだか、そのまま待つように言った。


「出なぐでいいのがな」

「分かんないけど、たぶん」


 息を潜めているのが、野次馬みたいで心苦しい。こっちへ来ずに、店の外に出ていれば良かったんだと、今になって気付いた。


「結婚してたこと。言い出せなくて、隠しててみたいで悪かったって、謝られた。でも今度こそ大事にしたくて、思えば思うほど怖くて言えなくなったって」


 その言いぶりだと、岡野さんが原因で別れたってことか。

 なんとなく、気持ちは分かる。自分が悪いと思ってたら、どうするのがいいか分かっててもそう出来ない。

 あの先輩に遠慮する必要なんかないと分かってても、そうする勇気をくれたのは夏希だ。


「都合のいい、逃げ口上に聞こえるけど」


 美雨さんの声からは、暗い感じの凄みみたいなのがなくなってた。

 だからこれは、単に悪あがきだ。

 しかしある意味、そうかと私は納得してしまった。つじつまは合っているけど、後からならなんとでも言えるというやつだ。

 それに気付く大人ってすごいけど、面倒くさいとも思う。


「そうかもしれない……でも、私に合った道を歩けって言ってくれた人だから。私も信用しないとなって」


 人を疑うのって、とても疲れる。責めたり、謝ったりするのも。

 どうしてもしなきゃいけないことはあるんだろうけど、そうでないなら。春菜さんの言葉に賛成だった。


「……分かった」


 しばらく誰もなにも言わなくて、ようやく喋ったのは美雨さん。

 なにもかも合点がいった、なんてことはないだろうけど、言えることもなくなったはず。

 立ち去ろうと、椅子を動かす音が響いた。


「あの、美雨? もしもなんだけど、経理も出来たよね。このお店の会計を――」

「これ以上、恥をかかせないで」


 春菜さんの人の良さが裏目に出る。

 誰だってあんな立場になって、あっそう? なんて引き受けられるわけない。

 冷たく断られた春菜さんは「ごめんなさい」と、萎れそうな声で謝った。

 ここで何も言えないようだから、兄ちゃんはやっぱり勝ち目がない。


「……私の頭が冷えたら、たまには売り上げに貢献しに来るから。それで許して」

「う、うん。必ず来て!」


 美雨さんと兄ちゃんは、出ていったみたいだ。だけどすぐに出ていくのもどうなんだか、進んでいない倉庫の整理も気になってきた。

 と、夏希が春菜さんのほうへ行こうとしている。


「待って」

「な、なんした?」


 肩をつかんで止めたはいいけど、どうするのがいいのか。

 大変でしたねとか、慰めるのか。なんのことだかと、とぼけるのか。

 急いで考えたけど、高校生には荷が重い。


「夏希、あのね」

「なんが?」

「私たち、なにも聞いてない。聞いてないよね」


 なにを言ってるんだ? という目が、ぱちぱちと瞬いて、ぐるっと倉庫の中を見回した。


「んだねや。あたしたづ、荷物の片付けしでだはんで、なんも分がんね」


 そう言うと、夏希はすごい勢いで荷物を棚に押し込み始めた。


「ダメだって。場所が決まってんだから」

「あー、うかっとしでだべ」


 それは彼女が、気持ちを切り替えようとわざとした冗談なのか、本気で間違えたのかは分からない。

 でもきっと大切なのは、二人でクスっと笑えたことだ。


「ねえ。奥さんのこと、聞いたの?」

「いえ、まだです。でもたぶん、私はその人と仲良くなれると思うんです」

「へえ……」


 そういえば、どうしてわざわざ雪絵さんを待たせたんだろう。荷物を受け取るだけなら、夏希でも私でも出来たのに。

 まああっちも楽しそうに笑い始めたから、問題ないか。

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