第9話:【雪絵】融けゆく想い
あのチラシを見ても、あのテナントだとは気付かなかった。住所しか書いてないんだから、分かるわけない。
でも一週間に二回、隣のパン屋さんに通ううち、ここがそうかと思い至った。
開店したら行こうって。あの約束、忘れてくれないかな。
「悪いですね、雪絵さん。同乗させてもらって」
「新規はそうすることになってるんだから、仕方ないじゃないですか。それより
「あ、いや。ごめん、ダメだった? 他の奥さんたちがね、親しくなりたいなら名前で呼んじゃえって」
中肉中背。地方企業の、東京営業所の主任。年齢は私よりも一つ上。
顔立ちは、似た人が思い浮かばない。いつも下手くそなアイロンのかかったスーツを着て、安売りの革靴とネクタイ。
髪は美容院だろうか。だいたい月に一度くらいで、綺麗になっている。ただしそれまでは、もみあげや襟足を揃えたりする気はないようだ。
ひと言で言えば、普通の人。
「はあ……その思い切りはすごいと思いますけど、そういう気にならないって言いましたよね」
「うん。ごめん、そうだよね。みんながそうしろって言って、いいのかなって勘違いしちゃったよ」
みんなが、ね。
「あ、違うよ! あの人たちのせいって言ってるんじゃなくて、冗談だと分かってるはずなのに、調子に乗ったのは僕だから!」
言いわけには違いないけど、嘘でもないんだろう。夫と違って、不器用な人だ。
そこが好印象ではあるけど、頼りない人だとマイナスでもある。なにをやっても、平均点の人。
「もうすぐ着きますよ。準備はいいんですか」
「あ、うん。会社を出る前に、必要な物は全部確認したから」
本当か? と疑ったけど、今日はカバンとは別に、ファイルケースを持参したらしい。
どうみても百均のやつだけど、それできちんと管理出来るなら問題ない。
「まあでも一応は、もう一回見ておこうかな」
「そうしてください」
私は配送ドライバーで、書類には触れない。伝票にサインをもらうのがせいぜいだ。
なのにどうして私が、上司である主任さんの心配をしなきゃいけないんだ。
「あっ」
「忘れ物ですか」
「――いや、大丈夫。カバンに予備があるやつだった」
「それは良かった」
なんだろ、このため息は。胸のときめきとか、そういうのでないのは間違いなかった。
「ここです」
「どれ? パン屋さん?」
「そっちは既存客です。真ん中ですよ」
どう見たってパン屋さんは、もう何年も営業している。まあそういう新規さんが、ないわけではないけど。
書類の頭に、喫茶、軽食等と書いてあるのが、横目にも見える。
「いいね、このまん丸の窓。船室の窓みたいだ」
「そうですね」
私が知ってるのは、人の頭が通るかどうかくらいの小さな物だけど。ああそうか、ガラスが大きくて、十字に分割されてるのがそれっぽいと言ってるのか。
窓枠だけでなく外装がすっかり塗り直されて、どうしても何かに例えるならクリスマスリースに思える。
そもそもこの人が船を好きだとかいう話も、聞いたことがない。
案の定、少し眺めた程度で中に入っていった。どうせこの分だと、自分から話を振って自滅するとかいう落ちだ。
「お忙しいところ失礼致します。配送のご契約の件で――」
扉が開かれて、私もあとに続いた。
思わず息を止めて、池に飛び込むような気持ちで店内へ。眩しくもないのに目を細めて、足元から目の前を。そこからまた奥を、おそるおそる見回した。
――良かった。どうやら店主の女性だけらしい。
「外回り、見せていただきましたが、綺麗になりましたね。赤い窓枠が、とても女性らしいです」
窓枠は、緑色だった。
その女性は気分を害した様子もなく、にこやかに「ありがとうございます」と答えた。
ええと、春菜という名前だったかな。女性としてはまあまあ背が高くて、華奢な感じがする。
それは私が、よく言われる印象と同じ。
違うのは、この人がいつもスカートを履いていること。
初めてこの店の前で見かけたときも、それから何度、同じくお店の前で見かけても、いつもスカートを履いている。
しかもそれは、ひざ丈のよく風に膨らみそうな柔らかい生地。
私も履かなくはないけど、ミモレより短いのは学生服以来だ。
「お届けする商品ですが、こちらのカタログに」
「まあ、すごくたくさんあるんですね」
春菜さんは、よく笑う。
カタログを見るのも、アクセサリーでも選ぶみたいに楽しそうに。
私だったら、たぶん今そうしているように、ひたすら黙って真剣に選ぶだろう。
いや、彼女がふざけているわけじゃない。真面目に楽しめる人なのだと思う。
「それではこれで、契約と注文は完了です。以降の連絡は、彼女に言っていただければ」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
黙って真剣が聞いて呆れる。どうもぼんやり、眺めてしまっていた。一瞬も二瞬も遅れて「いえ、こちらこそ」と返事をした。
「じゃあ僕は、パン屋さんに荷をお届けしてくるから」
「あ、はい。すみません」
日村さんが出ていって、二人きりにされてしまった。
どうしよう。言ったほうがいいのか。
言うにしたって、今なのか?
どんな顔をして言えばいいのか。あなたの彼氏は私の元旦那です、なんて。
「なんだか最初から気にかけてくださって」
「あっ、え?」
「覚えてらっしゃいますか? ここで店をやるのかって聞いてくださったでしょ?」
「ええ。ええ、もちろん。覚えてますよ」
「それだけ、じゃないんですけど。なんだかここがいいのかなって、決めるきっかけになったんです」
私には気付いているはず。でも彼は、春菜さんになにも言っていないようだ。
そうでないと、こんなこととても言えない。
「そうなんですか。なんだか責任重大ですね」
「いえっ、そういうつもりじゃ。勇気をくださって、ありがとうございます。お礼を言いたかったんです」
困った顔をして、また笑いがこぼれて。
なるほど、これはやられるわ。
「会社員をしてたんですけど、向いてないと分かって。それも人に言われたんですけど。でもこれが向いてるのかっていうと、もちろん自信はなくて」
「彼氏さんですか?」
「え?」
「いえ、時々お見かけするので。あの男性に言われたのかなと」
やってしまった。二人の関係性を知りたかった、というのはある。でもこれでは、こそこそ探る探偵みたいだ。
「そうなんです。上役だったあの人に言われて、でもどんなお店にするかとか、どこにするかとか、意見を全然言ってくれないんですよ」
「へえ――なにも?」
「そうです。私がこうしようと思うって言ったら、こういうメリットやデメリットがあるとか、金額はこうなるとか、そういうのは教えてくれるんですけどね」
なんだろう。私の知っている彼とは違う。彼は優しそうに見えて、私の意思を奪う人だった。
「じゃあ、この可愛い内装も? カントリーって言うんですかね。私は好きですけど」
「そうなんです。私が決めました」
「なるほど――それならあの人も、手配のしがいがありますね」
なにかおかしなことを言っただろうか。春菜さんはちょっと首を傾げて、でもまたにっこり笑って、おかげさまですと言った。
「雪絵さん」
荷運びが終わったらしい日村さんが、戻ってきた。また名前で呼ばれたので、じろっと睨みつける。
「っと、失礼しました。ええと、挨拶はすんだ?」
「ええ」
「じゃあ行きましょうか。これからよろしくお願いします」
出発を促すと、春菜さんに頭を下げて日村さんはトラックに戻っていく。
今日の配送はまだ終わっていない。私も早く行かないと。
「じゃあ、今日はこれで」
「えっと。雪絵さん、とお呼びしていいですか?」
「え? えぇ。構いません」
「私は春菜と言います」
「よろしくお願いします、春菜さん」
彼女も、よろしくお願いしますと。素朴な笑顔を咲き誇らせた。名前の通り、春の菜の花みたいな人だと思う。
「あの、もしも――」
「はい?」
あなたの彼氏が、あなたを騙しているのだとしたら。今は違っても、この先そうなったら。
扉を開けつつ、そんなことを聞きそうになった。
でもそれを聞いたら、どうなるというのか。あいつは悪いやつだから、やめておけと言うのか。
ここで春菜さんと話す前の私なら、言っていただろう。
「いえ。食材のことだけじゃなく、なにか困ったことがあったら言ってください。女同士、助け合いましょう」
自分の店に、牛乳やバターを運ぶだけのドライバー。そんな女が、なにを言っているのか。
仮にあの男に泣かされたとして、私なんかに言うわけがない。
ほら。また驚いて、きょとんとしているじゃないか。変なことを言ってすみませんと、取り消すなら今だ。
「あの――」
「はい、お願いします!」
「え。ああっと、お願い、します」
春菜さんは、店の外まで見送りに出てくれた。オープンまであと一ヶ月を切って、忙しいだろうに。
「さっそく仲良くなったみたいだね」
「そうみたいです」
乗り込んだ運転席の窓の向こうに、春菜さんが回り込んできた。振られる両手に、思わず私も手を振り返す。
万が一にも彼女をひかないように、ゆっくりと。ゆっくりと慎重にトラックを進ませた。
道路から駐車スペースに目を向けると、まだ手を振っている春菜さんが居た。
「あのさ。今月中に、夏休み取らないといけないんだけど」
「取ればいいじゃないですか」
「雪絵さん、どこか行きたいところない?」
運転しながら、ずっこけそうになった。この人は女を口説こうというのに、行き先まで丸投げなのか。
そう思ってしまったことに気付いて、鼻の奥が少し。ほんの少し、ツンと熱くなった。
「休みを合わせてさ。ダメかな」
「肉」
「え?」
「肉が食べたいです。でっかいステーキ」
「あ、ああ、いいよ! ステーキ食べよう!」
まあ一度くらい、遊んであげるのもいいだろう。まだ暑いことだし、ひざ丈のスカートでも買いに行こう。
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