第8話:【夏希】草いきれの川土手

「最近、なにしてんの」

「なんも」

「専門学校に行くって言ってなかった?」

「あれ嘘」

「嘘!?」


 チャットに続いて、ガーンと。ショックを受けている、ウサギのスタンプ。これでは説得力がないかもしれないけど、結構な本気度だ。

 私に影響されたのか、小晴も専門学校に行くと聞いていた。地元を出るまでに何度か聞いたけど、資格が取れたら教えると言って教えてくれなかった。

 昼間は学校へ行って、そのままアルバイトをして、食材を買って帰って、教わったことの復習と夕食。

 毎日、毎日。同じことの繰り返し。

 最初のころこそ、ニャーロランドへ行ってみようなんて考えもしたけど。いや実際に、途中まで行ったけど。

 いまはもう、そんな元気はない。

 体力がない、のではないと思う。一緒に実習をする人たちと比べても、その意味では頑丈な気がする。

 でも実習のあとにアルバイトをして、そのあとにカラオケへ行って。みたいな人を見ると、あたしとは違うエネルギー源でもどこかに貯めているのかと思ってしまう。


「じゃあ、ますますなにしてんの」

「なんもしてない」

「調子悪いの?」

「夏希が帰るの待ってる」


 原因は、これかもしれない。

 あたしが卒業して、一人前になって。自分のお店を出せるのなんて、いつになると思っているのか。

 これまでもなんとなくそんな雰囲気は感じていたけど、はっきりそうと聞いて悲しくなった。


「そか、頑張る」

「がんばれー」


 あたしが元気なら、まだまだチャットは続いただろう。でもそこでため息が出て、スマホを伏せて置いた。

 小晴からも、続きのメッセージは来なかった。

 同じ街並み。同じ時間に同じ場所を通る、同じ人たち。同じ教室で、同じ人たちと、同じ基本を繰り返し学ぶ。

 これなら自分で教科書を買って勉強しても、同じじゃないだろうか。


「楽しぐねな……」


 撹拌で張った腕。包丁で指を切るなんて、と思っていたのに、切り傷と火傷の目立つ手。

 ずっと足踏みして、なにも進んでいない気がして。小晴は慰めてくれない。


「これじゃ帰っでも、楽しぐねな」


 あたしの気持ちは、行き場所を見失っていた。


◇◆◇


「こんなとこで、なにしてんの?」


 こんなところと言われても、最寄り駅の駅ビルの、ニャンコマン。この辺りに住んでいる人は、大抵ここで生活雑貨を買うのだと思う。

 出かけるのもかなり面倒だったけど、自分でどうにかしなきゃ、独り暮らしではトイレットペーパーも補充されない。


「あ――ああ、東京駅の人!」

「いや東京駅の人ではないけど」

「あん時だば、お世話になりますた」

「いや大したことはしてないし」


 初めての東京駅は、広かった。あとで地図を見直したら、気が遠くなるほどだった。

 でもそんなことより、とりあえずいま自分が居る空間の端から端まで、が遠い。

 案内図があったと思って行こうとしても、人の波に遮られる。近付いてみたら、地図でもなんでもなかったり。地図を見つけて、目印に書いてある物を探すのに、また地図が欲しいくらいだったり。

 あの人に聞こうと思った駅員さんも、追いかけているうちに見失う。立ち止まっている駅員さんは、必ず誰かと話している。

 そんなこんなで、ここで餓死するのかというときに、助けてくれたのがこの人だ。


「いやそんなことより、なんでこんなとこにいんの? 下北じゃなかったっけ」

「そいは不動産屋さんす。住んでんのは、こごっす」

「ああ……まあ、沿線と言えば沿線か」


 沿線、線路沿い。意味が分からなかったけど、東京の人の常識がなにかあるんだろう。


「んで、パティシエールはどう?」

「あー、おかげさんで勉強中す」

「そっか。あ、学校もこっち?」

「すぐそこだず。お姉さんも、この辺だば住んでんだが?」


 頷いて、あっちのほうと指が向けられた。建物の中だと、それがどっちだか分からない。まあ、近いってことだと思う。


「んー。ねえ、いま暇?」

「い、いま? なんも予定はねえべが」

「んじゃ、付き合ってよ」


 お姉さんは「ちょっと寄り道」と言って、惣菜屋さんに行った。そこでなぜかコロッケを買って、どこかに向かって歩き始めた。


「お姉さん、どごさ行ぐべ?」

「そのお姉さんって、たぶんそっちのが年上だよ。いくつ?」

「もうすぐ十九っす」

「ほらね、私は十七だもの」

「うあぁ、面目ねっす」


 年下だったのか。そういえば初めて会ったとき、制服を着ていたような。困り果てて、そこまでちゃんと覚えていなかった。


「もうすぐって、いつ?」

「七月だず」

「今月じゃん」

「そうっす。ムダに歳ばっかし食っでるはんで。情けねっす」


 東京の夏の日差しは、肌を突き通すような痛みがある。たぶん網に置かれた焼き肉は、こんな気持ちだ。

 こんな中を持ち歩いて、コロッケは大丈夫だろうか。お姉さん、じゃなくてこの人はどこまで行くのだろう。


「さあ着いた」

「着いだって。こご、どご?」


 言っている割りに、まだ立ち止まるつもりはないようだ。目の前に見える小さな丘は、川土手か?


「どう?」


 思ったとおり、広い川と河川敷を挟む土手の上に出た。

 さも、気持ちいいでしょと言いたげな顔に、彼女自身の髪がわしゃわしゃ張り付く。

 耳元で、風の巻く音がヒュルヒュルと鳴る。触れた感じは温いのだけど、これだけ吹けば涼しいと思える。


「って、風つよ!」

「元気いいすな。お姉さ――名前、聞いでもいいがな?」

「あら、うん。いいよ、私も聞きたかったんだ」


 名前を言い合って、座るのにいい場所を探した。あたしたちは、水と草と空のたくさん見える場所に隣り合って腰を下ろす。

 その間も、風はずっと強く吹いていた。


「早霧さん」

「呼び捨てでいいよ。はい、コロッケ」

「なんとも。したら早霧、なしてこごさ?」


 二つ年下の早霧は、やっぱりお姉さんに見えた。

 今日は私服で、あたしのそれよりもセンスが良くて大人っぽい。ジーパンなんか、あたしが履いたら小学生の男の子だ。

 でもきっと、それは本当の理由じゃない。返事の前に「うまっ」とコロッケを頬張ることとか、この土手に来たこととか、さっきあたしに声をかけたこととか。そういうことだろうと思う。


「去年ね、怪我したんだ」

「早霧がか?」

「うん。それで陸上やめないといけなくて、そしたら学校もやめないといけないのかなとか、悩んでた」

「ああ、そいだば難しな……」


 なんの話を始めたのか。彼女自身の経験というのは、もちろん分かる。どういう脈絡かということだ。

 分からないけど、たぶん分かる。やはり早霧は、あたしより随分と大人だ。


「そもそもさ、憧れてた先輩が居たの。その人は中距離で、私は短距離で。同じチームで仲良く出来たらって思った。だからこの高校に入ったんだよ」

「うまぐ行がながったが?」

「うん、入ってすぐ。コーチがね、中距離のほうが向いてるって」


 あたしは帰宅部だった。料理部もあったけど、楽しくやりましょうという感じで、腕を上げるには向かなかった。だから自分で研究していた。

 それが良くなかったのかもしれない。包丁から始まって、道具の使い方に変な癖があると言われた。

 それでは腕が疲れて効率が悪くなるから、直せと。


「そんなわけないんだよ。それじゃあ私を短距離専門にした、中学のコーチは無能だったのかって。私と同じ学年で、私より速い子が三人も居た。そのせいなんだよ」

「そいは酷えな」

「うん。でもそのこと自体は、まだいいんだ。中距離のスタミナも、ないわけじゃなかった」


 その先は、想像がつく。憧れていた先輩というのが、敵になったに違いない。自分に都合のいい派閥を作って、邪魔な相手は排除する。

 みんながそうではないけど、そういう人は間違いなく居る。


「同じ競技になったらさ、もっと仲良くなれるかもって。期待したりさ、バカだよね」

「仲良ぐ出来るほうがいいす」

「まあね。でも無理だった。記録はその先輩より、遅かったよ。でも中距離で入ってきた子より、速かったんだ」


 チームと言ったって、基本的に陸上は単独競技だ。それなら脅威になりそうな相手を、後輩だからと歓迎しない人が居てもおかしくはない。

 現実に、そうなったらしい。その先輩は期待してるからと、自分の練習メニューを押し付けた。

 早霧が自分のメニューをこなした上にだ。そうして彼女は、膝を壊した。


「えと。なんだが、なんて言えばいいが――」

「いんだよ! 愚痴を聞いてもらおうと思ったんじゃないんだ」

「したら?」

「夏希、なんか知らないけど落ち込んでるよね」


 なんとなく、そういうことかなとは感じていた。見透かされて、慰められているのかなと。

 だから驚きはしなかったけど、自分もつらいんだからそっちも頑張れ、みたいな話は嫌だった。


「これ。手術の跡」

「大っけなサポーターだべ」

「うん、そう。これ、学校で着けてると目立ってさ。部活やめた言いわけしてるみたいで、嫌だったの」


 気持ちは分かる。

 あたしなら、どうするだろう。お医者さんが言うとおりに着けるか、誰かから厭味でも言われたらあっさり外すか。

 実際にそうなったわけでもなく、答えが出ない。


「でもね、今は着けてるよ。外してると、自分がつらいから。それを長引かせたって、誰も褒めてくれないもの」

「んだな。そいだば合っでると思う」

「そう思わせてくれた人が居るからだよ」


 指に付いたコロッケの油を、ティッシュで拭き取りながら、早霧は言った。

 最後にこっちを向いたのは、それがあたしだということか、それともティッシュを勧めただけか。


「東京駅でさ、迷い子になって。泣きべそかいてたくせに。パティシエールになるんだーって」

「泣いではねえす……」

「なりたいって子は、まあまあ居るよ。でもあんなに、キラッキラの顔で言う人なんか見たことない。それがパティシエじゃなくてもね」


 今日、あたしを見かけたとき。あたしの上にだけ、黒い雲が浮かんでいるようにさえ見えた。

 早霧はそんなことを言って、あたしの汚したティッシュとコロッケの包み紙を奪い取る。


「みんなが普通だと思うことも、やりたいと思ったらあんなに張り切っていいんだって。知らなかったんだよ。だから私も、なにかそう思えるものはないかなって探してるとこ」


 いつの間にか、風は弱まっていた。それでも気持ちのいいそよ風は、吹き続けている。

 そんな中で、早霧は汗をかいたのだろうか。彼女が話して、前を向き、こちらを向き、動くたびにキラキラが飛び散る。


「ね、なにがあった? 話してよ。それが無理なら、遊びに行こう。どこか行った?」


 新しく出来た友だちに、なにを話そう。なにをしているのか分からない、同じような毎日が終わりを告げた。

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