第7話:【美雨】静かに染み込むように
「長井くん。これ、岡野係長の住所」
「え――えぇ!? そんなのどうやって。いや、これをどうしろって言うんスか」
「見張るのよ。他になにするの?」
私は人事課だ。社員の住所くらい、メモするのは容易い。
「――見張って、どうするんス?」
「私は春菜の家を見張るから。どうも最近、週末には一緒に出かけてるみたい」
「そんなの、どうやって聞き出したんス?」
「風の噂よ。それより、行き先に近いほうの家の近くで待ち合わせるみたいなの」
一日に回る場所は、一つではない。どこから行くか例え前日に決めていたとしても、急に変わることだってあるだろう。その備えだ。
「そっちか俺か、どっちかは必ず尾行出来るってことスか」
「そうよ。連絡すれば合流出来るしね」
「レンタカーとか使ったほうが早くないスか」
「あなた免許あるの?」
「――ないス」
知っている。対して岡野係長は、運転免許を持っている。だからこの方法を考えたのだ。
黙ってしまった長井くん。免許を持っていないのを恥じて、ということではなさそうだ。
「これはちょっと、やり過ぎじゃないスか」
「そう? むざむざ春菜を取られてもいいなら、無理にとは言わないけど」
直接的で直情的な感のある彼が、こう言われて耐えられるか。
これは試験でもあった。これでやめると言うようなら、いつ寝返るかも知れたものじゃない。
「どうしてそこまでしようってなったんスか」
「私には得がないのに?」
「っス」
「得はあるの。私は春菜の同期だもの。あの子が悩んでるのを、私は気付いてあげられなかった」
得というよりも、自分勝手な贖罪かもね。などと嘯く。私の春菜への気持ちは、春菜だけのものだ。
「不倫だとしたら、止めるのが優しさってことスか」
「そう。でも、そうじゃないかもしれない。それなら邪魔するのは悪い。でしょ?」
春菜がまだここの社員で、岡野係長と不倫をするというなら、違うアプローチはあるだろう。
でもあの子は辞めてしまった。もう長井くんは、赤の他人になってしまった。
それではと岡野係長に物申すには、どうして不倫と分かったのか、説明が出来ない。
本来どうしたってあちらが悪いのだけど、彼の性格ではそこまで割り切れまい。
「どうする?」
「……とりあえず、様子を見に行ってみるっス」
「分かった。連絡してね」
長井くんとはもう、ニャインの交換もしている。無料で、声を出さずに相手と意思疎通出来るとは、なんて便利なツールだろう。
「おや、君たち。最近よく一緒だね」
「あっ、はい! いえ!」
呪いをかけたはずなのに、なかなかハゲないバカ課長。あれから「来てみるとなかなかいいね」などと、休憩室へよく来るようになった。
長井くんと相談する場所は、別に考えたほうがいいかもしれない。昼食も当然にだ。
「申しわけありません。なにか不都合があるようでしたら、改善します」
「えっ? いやいやいや。別にうちは、社内恋愛禁止じゃないし。若い人同士、いいことだねぇってだけだよ」
「そうですか、良かったです。それはそれで誤解とだけ、訂正させていただきますが」
私は人事課だ。社員の悩みを聞く係でもある。私の口から、彼の悩みを聞いているところだとは言えないが、普通の頭脳があれば察せられるはず。
「あ、ああ――なるほど。長井くん、あんまり考え込まないほうがいいよ。なにごともね」
「っス。ありがとうございます」
「それではお先に」
「そう? まあ二人とも、気を付けて」
バカ課長でも、定型の回答くらいは出来るらしい。
着けていたイヤホンを外し、パンの包みなんかをひとまとめにして、私と長井くんは休憩室をあとにした。
◇◆◇
「よく考えたんスけど、やっぱり春菜先輩に悪いっス」
「本当に不倫だったらどうするの?」
「なんかお店をやるんスよね。場所が決まったら、見に行ってみるス」
日曜日。どうも出かけるのは、昼を過ぎてかららしい。それは金曜日の時点で、岡野係長が言うのを聞いていた。
念のために私は、春菜のマンションの前で朝から待っていた。だがやはり、その予定に変更はないようだ。
そろそろ彼にも待機してもらおうと、連絡しようとした矢先。長井くんから、ニャインのメッセージが来た。
「それじゃあ遅いかもしれない」
「それはそうかもしれないス。でもだからって、これはやっぱり違うと思うっス」
「そう、分かった。じゃあせめて、邪魔はしないでね」
「了解ス。一応いま、岡野係長がマンションを出たっス」
どうもレンタカーショップに行く方向だと、長井くんは言った。もちろんそれも、それ以外も、ニャインのメッセージでの会話だ。
これ以降、彼からメッセージが来ることはなかった。
「まあどうせ、彼も邪魔になるしね」
彼の目当てが春菜である以上、最後にはそうなってしまう。それまでは便利に使わせてもらうつもりだったけど、こうなったものは仕方がない。
「レンタカーってことは、タクシーか――」
最初の行き先には、それで問題なく着いていけるだろう。問題はそのあとだ。タクシーを待たせていたら目立つ場所なら、どうしたものか。
そういうときに二手に分かれられると、便利だったのに。
「情けない男ね」
岡野係長が来る前に、タクシーを捕まえに行った。降りたあとは、またなるようになるしかない。
「えぇ? あの車を尾行するんですか。刑事さんとかです?」
「そうよ、私は探偵。あの二人の調査を依頼されてるの」
「あー、なるほど。そういうの多いですやね」
レンタカーをつけるように言うと、ドライバーの男性は、やれやれという顔をした。
頭がどうかしたのかというような、よほど変な目で見られるかと思ったのに、そうでもなかった。
道々で聞いた話からすると、そういう素人は多いらしい。
「そこへ行くとおたくさんは、プロだから大変だねえ。遊びに付き合わされるのは、こっちも御免だからね」
もちろん私も素人だが、ドライバーにだけは玄人だとおもってもらったほうが都合がいい。
「郊外だねえ。ホテルの前に、なにかあるのかねえ」
「そうみたいね」
ドライバーの言うとおり、二人の車は郊外の丘陵地帯に入った。最初に聞いていた場所の、どれとも違う。
私が知っているよりも、もっと多く連絡を取り合っているようだ。
やがて坂の途中で並木道に入って、そこが候補地らしいテナントの駐車スペースへ車は止められた。
「通り過ぎたところで止めて」
「はい、了解。お嬢さん、なんなら私、待ってましょうか?」
「待ってる間のお金は出せないけど?」
「構いませんよ。どうせ私も休憩は取るし」
私が本物の探偵だったとしても、やっているのは不倫調査だ。それは分かっているはずなのに、なにを使命感に燃えたのやら。
まあそう言ってくれるなら、こちらも助かる。通りの奥のほうで、待っていてもらうことにした。
「なにやってるの……」
とりあえず精算したお金を払ったりしていたのに、二人はまだ中に入っていなかった。
バッグの中をごそごそやっているようだから、鍵が見つからないとかだろうか。
――ようやく中に入ったので、外から覗いてみることにする。
いつもはいわゆる事務服ばかりなのだけど、今日はクリーニングに出したてのパンツスーツ。髪もアップにまとめた。
探偵の設定に信憑性を加えたのは、このせいか。ともかくこれなら、後ろ姿を見られたくらいでは私とは分からないはず。
「窓が――大きすぎでしょ」
中を覗きやすいのはいいけど、中からもそれは同じだろう。絵本を意識したような、少女趣味の感もある窓の陰へ、そっと忍び寄る。
春菜が嬉しそうに、大きな紙をカウンターに広げた。岡野係長はそれを見ながら、なにやらスマホを操作する。
改装費用でも計算しているのだろう。岡野係長は、取引先からの信頼も高いと聞いている。概算くらいならすぐに出せるに違いない。
やはりそこに数字が出ているらしく、それから少しの間、それを見ながら話をしていた。残念ながら、声は全く聞こえない。
「おっと……」
急に春菜が、こちらを向いた。いや私にでなく、窓に意識を向けたようだ。
そのままこちらに来るようなので、壁に張り付くように、姿勢を低く。
「お姉さん、大丈夫け?」
誰だろうか。やたら大きな声で話しているのは。そのお姉さんとやらも、すぐに返事をすればいいのに。
気になって、声のしたであろう方向を、ちらと見る。高校生くらいの、幼い感じのする女の子が居た。
「お姉さん!」
「えぇ……」
その子が見ているのは、明らかに私だ。
なんの用事があるというのか、彼女はこちらへずんずん向かってくる。
あの大きな声で、春菜の居るテナントの前で、話しかけられるのはまずい。
仕方ない、この場から離れなければ。立ち上がって、タクシーの待っている方向に走り出す。
「お姉さん、大丈夫っすが? 腹でも痛えのが?」
構わずに走る。下手に話して印象を残すよりも、顔も見えなかったけど変な人が居たというほうが被害は少ない。
タクシーに乗るまで、ずっとあの声が聞こえていた気がした。二人にも、背中くらいは見られたかもしれない。
少なくとも服を着替えないと、尾行は無理だ。
「失敗しちゃった――」
「ああ、お嬢さん若いからね。どんな仕事でも、最初は失敗ばかりだと思うよ」
タクシーのドライバーだけは、私を疑うことが最後までなかった。
それからも二人のことは、調べ続けた。尾行するのも、慣れた気がする。そんな日々が、二ヶ月ほども続いただろうか。
「え、なんですかこれは」
呼び出された会議室に、人事部長が待っていた。その隣には、あのバカ課長。
「あまり駆け引きめいたことはしたくない。これは、君に退職を勧める席だ」
「退職――ですか?」
「心当たりが、あるはずだ」
その会議室を出る時には、私の退職が決まっていた。
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