第6話:【春菜】始まりの場所へ
四月。
春菜という自分の名前の季節なのに、いままであまり好きではなかったと思う。
前の仕事を辞めると決めて、有給もしっかり消化させてもらって。新しい年度が始まった。
それももう半月以上が過ぎたので、かれこれ岡野さんとも二ヶ月を越えた。
今の弾むような気持ちがそのせいだとしたら、私はなんと現金な、恥ずかしい女なのかと自戒しなくては。
「ええと、ここだな」
「えっ、本当にここですか?」
「住所はそうなってるぞ?」
お店の候補地をたくさん探してくれるし、休日の度にこうして一緒に動いてもくれる。
彼は本当に優しくて、こんなに頼っていいのかと心配になるほどだ。
でも嬉しい気持ちは、それだけではない。まだこれと決まったことはなにもないけど、幼いころからの夢に向かって歩いている。
その実感が堪らないのだ。
「鍵は?」
「ええと、あれ?」
「おいおい。まあ、慌てずに探しなよ」
「たしかに入れた筈なんです! あれ、でも――あれ?」
大きなトートバッグの内ポケット。そこにないとなると、バッグの底に落ちたのか。でも、いくら探しても見つからない。
不動産屋さんから借りた鍵。なくしたら、どうなるのだろう。背中から首すじへ、すうっと気持ちの悪い寒気が走る。
岡野さんを待たせているのも申しわけない。それで焦ると、バッグの中身がこぼれ落ちそうになる。
――あ。
唐突に思い出した。肌身から離すとやはり心配だと思って、スカートのポケットに入れたのだった。
「なるほどね。バッグごとなくしたら大変だからな」
「なんだかすみません……」
あははっと、笑い飛ばしてくれる岡野さん。顔を見ることが出来そうもなくて、私は先に建物の中へ。
ゆったりと、丘を巻いていく坂道。その途中にある、小さな並木道。
広い敷地の中古車屋さんと同じくらいの面積に、駐車場と小さなお店が三つ並んでいる。
一つは、パン屋さん。一つは、雑貨屋さん。その間に、このお店はある。
「詰めれば二十人は座れますね」
「テーブルは、三つくらいか?」
聞いている話によると、ここは元々、喫茶店だったそうだ。店主さんがおじいちゃんになって、続けられなくなって閉店したと。
そのあとは、洋菓子屋さんになったらしい。売り上げが芳しくなくて、それほど長くは続かなかった。
だからカウンターなんかは残っているけど、テーブルやイスはない。
「照明は――換えたほうがいいな」
「壁紙も、ちょっと傷んでますね」
「あれ、持ってきたか?」
「はい、もちろんです」
店内イメージのデザイン画。
それが前の職場での、私の仕事だった。お客さまのイメージを、形にして見せること。そのために使える資材を、あちこちから探してくること。
実際の見積もりや現場管理をする人からは、もう少し現実的になれと何度も言われたっけ。
いま広げたのは、もちろん私の夢の塊だ。
「イメージよりちょっと狭いか。
「オンタイムで千円。オフタイムで七百五十円です」
「採算合うのか?」
「そのはずですが……」
そちらの心配をしてくれつつ、岡野さんの手はスマホの電卓を叩いている。やはり私が出したノートに、素早く数字を書き付けていく。
「概算だが、多分こんなもんだ。上下一割も変わらんと思う」
「えっ、こんなに?」
「きついか」
「いえ、こんなに安い金額になるんですか?」
修繕や内装のやり換え費用を出すのは、岡野さんの本職だ。
だから疑うわけではないけれど、私だってお客さまへの見積書を見ることくらいあった。それと比べると、なにかあくどい手段でも使うのかという金額だった。
「内装ったって、俺たち内装屋が全部やるわけじゃない。実際には、鳶とか左官とか電気工事とか、職人さんがやってくれる」
「それは知ってますけど――」
「それぞれの業界で、暇な時期ってのがあるんだよ。普段ならやらない、買い叩かれたような仕事もやる羽目になる」
それは毎年いつごろと決まっているものではなく、他の業界も含めた大きな流れの中で決まるものなのだそうだ。
その暇な時期に、少し多めに値引いた仕事を頼むことが出来るらしい。
「その代わり、急ぎの仕事にはならないがな」
「そうですね――他の物件も見て、ちゃんと計算してみないと」
「もちろんだ。手伝うよ」
微笑んだ顔を見上げると、まっすぐに視線が返ってくる。同時に、それまでの五百パーセント増しくらいの笑顔まで付いて。
お付き合いするようになっても、まだ私は照れてしまう。数字は苦手だから、結局は計算も任せることになりかねない。
自分が恥ずかしくて、大きな窓に逃げ場を求めた。
「わあ――大きな窓。ここは特等席になりますね」
「そうだな。太い木が使ってあるし、特徴のある形だから、外も塗り直したらいい」
「そうですね。いいですよね、ここ」
外から見たときに本当にここなのかと思ったのは、とても綺麗な外装だったからだ。洋菓子屋さんがなくなってからも、手入れがしてあるように見えた。
その中でも目立っていたのは、まん丸の大きな窓。きっと縁に立ったら、私の身長よりも大きいと思う。
これを赤とか緑とか、可愛い色にしたらとてもいいと思った。絵本にそのままありそうな、お菓子の家みたいになると思った。
けれども外装は朽ちてないから、塗り直すなんてもったいないかなと思ったのだ。
そんな想いを知っているかのように、岡野さんはあっさりと塗り直せばいいと言った。それは単に、彼の仕事で得た判断の結果なのかもしれない。
でも気持ちがぴったり重なっているようで、胸の奥にじわじわくすぐったさが湧いてくる。
「ん。どうしたのかな、あの子」
「なにかありましたか?」
「いや、あの子がね。なにか大きな声を出したから」
三軒並びのお店の前は、共用の駐車スペースになっている。そのいちばん道路側の辺りで、遠くを眺めている様子の女の子を岡野さんは指さした。
「ねえ、どうかしたの?」
事故か、ひったくりか。そんなことだったら大変だから、岡野さんと一緒に声をかけに行った。
「あえ、あたしのごどだが?」
「え、えぇ。なにか大声を出してたって」
「あー、すまねっす。あたしってば声さでけえって、母さんにもよぐ言われで」
東北訛りだろう。そんなことを気にする様子もなく、その子は笑った。
「あたしは、なんでもねっす。なんだがうずくまっでる人さ居だがら、大丈夫がって」
「そうなんだ。お腹でも痛かったのかしら」
「分がんねっす。声かげだら、走っで行っぢまっだっす」
「そう――」
どうしたというのか。どこかで倒れたりしていなければいいけれど。
まあでも考えてみると、もしも私がちょっと不調で休んでいたら、声をかけてくれた人に悪くてごまかしてしまうかもしれない。
とすると自力でどうにか出来る程度だった、ということか。それにしたって心配だけど。
「変な人だけど、まあなんでもないなら良かった」
「そうですね」
「ちょっと俺、お隣の雑貨屋さんを覗いてくるよ」
「あ、はい」
岡野さんはそう言って、さっさとお店に入っていった。それと入れ違いになるように、コンテナを積んだトラックが駐車スペースへ入ってくる。
「邪魔になるね。こっちに来て」
大きな窓の前に女の子を引っ張って、トラックをやり過ごした。どうやらパン屋さんに用事らしい。
コンテナに書いてある文字を見ると、乳製品の卸をしているようだ。ここでお店をやるとしたら、ちょうどいいかもしれない。
「こご、お姉さんのお店すが?」
「ううん。お店を出そうとは思ってるんだけど、どこにするか探してるところ」
「へぇ。窓が可愛ぐで、いいとごと思うっす」
「そうね。私もそう思ってるところなの」
また褒められた。今までは書類の段階でどうかなと思うものばかりで、内見に来たのは今日、ここが初めてだ。
それをこれだけ、みんなが褒めてくれるなんて。私自身と岡野さんと、この女の子だけのみんなだけれど。
もうお店のオーナーになった気分で、舞い上がりそうになってしまう。
「あたし、川の近ぐにある専門学校に通っでるっす」
「え、この下の? 製菓学校?」
「そうっす。住んでんのも、その近ぐっす」
なかなか奇遇な縁かもしれない。私のお店で出すデザートは、自家製で誰かに頼もうと思っている。
でもまだ学生さんか。ここに決めたわけでもないし、さすがに気が早すぎる。
「そうなんだ。でもそれなら、こんなところまでなにしに?」
「ニャーロランドがこの先にあるっで、地図で見たがら。歩いで行げっかなて」
「あ、歩いて?」
思わずその方向へ顔を向ける。たしかにこの道をずっと行けば着くだろうけど、直線距離でも数キロはあるはずだ。
「まだ随分あるよ――?」
「んだ。日ぃ暮れそうだがら、今日は諦めたどごだ」
「今日は、なんだね」
ふと見ると、トラックは荷物の搬入が終わったようだ。カートを折り畳んで片付けると、運転手さんは華麗に乗り込んだ。
また目の前を通るのだろう。少しくらい避けても変わりはないけど、心情的に壁際へなるべく身を寄せてしまう。
エンジンがかかって、トラックは私たちの前を通り過ぎ、ずに止まった。
「こんにちは」
目の前で窓がスーっと開いて、顔を見せたのは女性だった。帽子をかぶっていたから、若い男性かと思っていた。
「あ、こ、こんにちは」
私より、ちょっと歳上だろう。おとなしそうな感じは、私と似ているかもしれない。
その人は私が返事をしても、こちらを見つめたままなにも言わない。
「あの――?」
「ああ、ごめんなさい。ここでなにかやるの?」
「いえ。まだ見に来ただけで」
「そうなんだ。ごめんなさいね、ちょっと好奇心で聞いてみたの」
「いえいえ、大丈夫です」
会話はそれだけで、「じゃあ」とその人は去っていった。女性らしい、ゆっくりと丁寧な運転で。
「したら、あたしも」
「うん。気を付けてね」
「今日はもう行がねっす」
やっぱり、今日はなのね。女の子は元気に手を振って、坂を下る方向に帰っていく。
あの子はとても感じのいい子だったし、トラックの女性も気にしてくれた。このお店は、人の回りがいいのかも。
そんなことで商売の場所を決めてはいけないけれど、私にとっての好感度が高まったのは間違いない。
「あれ。あの子、帰ったの?」
「はい、たった今。雑貨屋さんは、どうでしたか?」
「色々聞いたんだけど、輸入家具なんかも扱えるらしいよ」
「それはいいですね!」
それから一ヶ月ほど、他の物件をたくさん見て回った。しかし結局、私が契約したのはそのお店だった。
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