第4話:【雪絵】降り積もる想い

 配送先のお店に、手描きのチラシがあった。その近くに、新しくカフェがオープンするらしい。

 手描きコピーだし、名前も聞いたことがないし、大手のチェーンでないのに大丈夫なのだろうか。字や絵を見ると、女性が描いたように思えるけど。

 まあ店主が描いたとは限らないし、大丈夫でなくても私になにが出来るわけでもない。なにかする理由もない。


雪絵ゆきえさん、一緒に行ってみない?」

「ええ、いいわね。でも十月オープンだから、まだ先ね」


 お店のパートの女性に誘われて、二つ返事だ。一人でなら、行ってみようとは考えなかったと思う。

 ルート配送の仕事で、やり甲斐とかはないかもしれない。でも私は運がいいのか、行く先行く先で仲良くしてくれる人が居る。


「ありがとうございましたぁー!」


 検品を受けて、伝票を確認したら、声を張る。それはもちろん店頭でなく、バックルームで。


「またねー」


 再会の約束。とはちょっと違うのだろうけど、間違いなく私に向けられた言葉。振られている手。

 とても温かい。

 一トンのコンテナを開けて、崩れないように荷物を再確認して、扉を閉めて。

 運転席に乗り込んで、行き先は決まっているけど、一応は伝票を見て。シートベルトを締めたら、出発。

 朝から夕方まで、それを繰り返せば仕事は終わる。どうすれば百点なのかは分からないけど、ミスがなければ七十点か八十点くらいはもらえるに違いない。

 誰からかは知らないけど。


「――ただいまー」


 玄関の扉を開けて、照明のスイッチをカチッと入れて。廊下の奥にただいまと言う。

 これもルーティンと言うのだろうか。家に帰ったら、誰が居ようが居まいが、ただいまくらい言えと。そう言ったのは母だ。


「居ようが居まいがって、居たら怖いけど」


 今の私は、独り暮らしだ。去年までは結婚していたけど、別れた。二十代最後の年だった。

 理由はなんだろう。直接には決定的なのがあるけれども、そういうことじゃなく。

 たぶん、私はつまらなかったのだ。

 田舎の野山を、男の子と一緒に駆け回っていた。東京に住む人たちが田舎と聞いて思うような都会でなく、本物の田舎だった。

 そんな山猿がなにを思ったか東京の大学に進み、そこで彼氏なんてものを見つけ、結婚した。

 私がどうしたいのか、どうしてほしいのか、夫は気を回した。

 完璧に理解してくれて百点、ではなかったけど、やはり七十点くらいでやってくれたのではと思う。

 もちろんそれは、いま思い返せばということだ。その時はそんな夫になにを返せばいいのか、日々考えていた。


「あ……お米なかったんだった」


 お米のボックスには、ひと粒たりとも残っていない。昨日の夜、明日買うからと除菌までしたのだった。

 食パンとパスタはある。でも、たくさん食べるわけではないけど、ひと口もご飯がないのは寂しい。

 食事をしたという気になれない。


「おにぎりでも買ってこよ」


 配送の時に使っているウエストポーチを、またお腹に巻き付ける。おしゃれではないけど、出し入れして忘れ物に繋がるのが嫌だ。

 オートロックとか、そういうセキュリティ設備のないアパート。でも人通りのある通りからは、すぐ裏手。


「てぃろりろりー、てぃろりろりー」


 緑色の看板をくぐって、入店者を知らせるチャイムを真似てしまう。

 高校生、いや大学生? 入れ替わりで出ていった女の子が、くすっと笑った。

 山猿を舐めるな、そんなのちっとも恥ずかしくないぞ。でも田舎くさくて、可愛らしい子だったな。なんて強がりながら、足早におにぎりコーナーへ。

 結婚している時は、あまりコンビニを訪れる機会はなかった。どこかへ出かけた時に、飲み物を買うくらいだ。

 食事は自宅か、外食するならちゃんとしたお店で。

 いや高いところということでなくて、ラーメンが食べたいならインスタントを食べずに、ラーメン屋さんへ行こうという話。

 旅行の立ち回り先も、食事も。日常のちょっとした用事も。全て夫が決めてくれていた。それも手間な部分は、ほとんど夫がやっていた。

 私は不自由なく、用意された出来事を楽しめば良かった。


「たらこー、たらこー」


 中学生か高校生くらいの時にやっていたCM。それとは関係なく、私はこのおにぎりが好きだ。

 一緒にツナマヨも買ってしまう辺り、たらこすら関係なく、マヨネーズ好きなだけかもしれない。

 注文するものが子どもっぽいと言われて、その次からは大人っぽいものはどれか、考え始めたことがある。

 別にあれは夫が感想を言っただけで、おかしいと言われたわけでない。くすっと笑われたのが、気になっただけだ。

 あれが「可愛い」とまでは望めずとも、「面白い」くらい言ってくれれば違っていたかも。

 後出しジャンケンも甚だしいが。


「レシートは、ご入り用ですか?」

「いいえ、ありがとうございました」


 こちらは客なんだから、店員に礼を言う必要はない。という意見があるそうだ。

 うーん。まあ、絶対にそれはおかしい、とまで言える根拠もないけど。

 顔を合わせたのだから、気持ちよく立ち去れたほうが良くないだろうか。

 夫にも、「丁寧だね」と言われたことがある。いつも微笑んでいるから、その言葉がどういう意図なのか判断する材料がなかった。

 皮肉を言ったのではないと思う。

 でもそれなら、笑みを強めてくれるか、丁寧でいいね、などと言ってもらえたら分かりやすかった。


「てぃろりろりー」


 真似たチャイムを、自動ドアの向こうへ置き去りにする。

 自分の家まで、百メートルくらい。夜道と呼ぶには、明るすぎる。実家の周囲なら、懐中電灯もなしに歩くことは出来ない。

 満月があれば別だけど。

 離婚すると言った時、母は根掘り葉掘り聞いた。原因は私じゃないのだ。なんでそうなったのなんて聞かれても、答えられない。

 父は聞くともなしに聞いていて、母が聞き漏らしたことを、最後にいくつかビシっと聞いてきた。

 その瞬間は心が萎れていて、もう勘弁してよとか思った。でも時間が経ってみると、聞いていてもらって良かったことはいくつもあった。

 名前が元に戻って、その手続きがどうこうとか。そういう現実的な話で言えば、二十点くらいだった。

 でも自分を責めたり、夫に憎しみを抱いたり、強すぎる気持ちを持たなくて済んだのは、そのおかげではと思う。

 いや具体的なアドバイスとして役に立ったのでなくて、聞いてもらったという安心感で。


「ただいまー」


 今日、二度目のただいま。

 照明は点いたままで、作ったおかずは冷めている。幸いに、誰かに盗み食いされてはいない。


「されてたら怖いって」


 明るすぎるなんて言った割りに、夜道を歩いたことで少し動悸がする。

 危機感とまでは言わないけど、なにかあったらどうしようとは、どこかで思っている。

 そういう点で、夫は百点だっただろう。一緒に居る時には。

 結局私は、スリルが欲しかったのだろうか。

 夫と居ると、なんでも約束されていて、失敗なんて言葉がほとんどなかった。仮にあっても、夫がすぐにリカバリーした。

 離婚してから実家に戻らなかったのは、そういう部分があったようにも思う。

 実家は好きだけど、まだあそこでのんびり出来ればいいという境地にはなっていない。なんだかんだ、都会は面白い。

 仕事だって、今日みたいに新しい予定に繋がることもある。ゆっくりでもいいから、変化が欲しくてやっている面はある。


「三、二、一、ゼロ」


 チーン。とは、最近の電子レンジは言わない。実家のは言う。

 熱々のお皿。手を拭くためにかけてあるタオルを、さっと取って持つ。

 それでもテーブルに置くときに、ちょっと当たって「あちっ」と言ってしまう、どんくさい私。

 ど真ん中にフォークを突っ込んで、ふぅっふぅっ、と。猫の舌が耐えられるように冷ます。


「いただきまーはむっ」


 いただきますを言う間に、煮物は口へ投じられた。

 冷たい。

 欲張って盛りすぎたか。それともふた皿同時は無謀だったか。なんにしても、どうせレンチンするならと、冷蔵庫の作り置きまで投入したのが敗因だ。

 もう一度立つのも面倒なので、表面の熱いのと底の冷たいのをかき混ぜる。湯気がすぐに消えて、フォークを舐めてみると、冷たい寄りの温いになった。


「でもまだお皿は熱いのよね」


 浮気をしていた。

 家に居るときになんでもやってくれていたのは、余計なことを考えさせないため。

 パートに出たり、役所や銀行へ行ったりさせず、なんでも夫任せにしていれば、疑問を抱かないだろうと。

 そんな告白を聞いたときの私がちょうど、このお皿だったかもしれない。

 子どもは出来なかった。

 不妊治療を受けたほうがいいのか考えたけど、無理をすることはないと夫に言われて、そうなんだと思っていた。

 優しい言葉、優しい態度。そんなものが全て、私をあしらうための嘘だった。

 表面だけの、温かさだった。


「それでも今は楽しいからいいのさー」


 テレビは見ない。借りて来たDVDを見るために、電源を入れた。案の定、バラエティ番組の予定された笑い声が聞こえてくる。

 すぐに入力切替ボタンを。

 再生すると、本編が始まる前の広告とか、映画会社のロゴ表示とかが面倒くさい。

 寄り道やイレギュラーは面白いけど、これだけは要らない。ああ、イレギュラーじゃないのか。

 ようやく始まるというところで、スマホがなにやら音を立てた。


「面倒くさいなぁ……」


 ニャインの通知。勤め先の主任さん。最初の数文字を読んだだけで、私用なのが分かる。


「既読無視ぃ」


 表示させなかったので、実際には既読でもない。でもとにかくそう言いながら、電源を切る。


「邪魔すんじゃねーぞー」


 それほど飲めないチューハイを、ぷしっと開けた。映画が終わるまで、起きていられるだろうか。

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