第2話:【美雨】憂いの日々

 分かっていない。分かっていない。誰も分かっていない。

 私はあの子と、春菜と友だちだったはずだ。同期の入社で、春菜、美雨みうと。呼び合う仲だった。

 なのに今は、彼女がどうしているのか知らない。どこに引っ越したかも知らない。

 あの子はたしかに、うっかりしているところはある。でもとても真面目で、人の頼みを忘れることはない。

 本来の仕事だけでも手いっぱいのはずなのに、朝から晩まで数限りなく放られる、無責任な「これやっといて」なんて仕事を全部片付けていた。


「なんだよ。一回くらいは、どうにか出来ただろうよ」

「いや、そんなんじゃないス」


 男性社員同士の、下卑た会話。そういう生き物だと知ってはいるつもりでも、直接に聞いてしまうと、やはり軽蔑してしまう。


「おっと、女性がいらっしゃった。退散、退散」

「先輩。俺、そういうんじゃないスよ」


 睨んでしまったのかもしれない。私の視線に気付いて、二人は行ってしまった。茶髪の子は――長井ながいくんだ。

 彼はどうも、春菜に気があったらしい。見た目の割りに要領が悪くて、空振りするのを何度見たことか。あの子はきっと、気付いてもいない。


「あ、居た居た。君、昼休み中で悪いが、ちょっとだけいいかな」

「――なんでしょう」


 春菜が退職届けを出す前の週末。まあその時だけでなく、いつもと言っていいくらいに彼女を叱っていたバカ課長。

 人の休憩を邪魔してまでなにかと思えば、三日前に締め切りの書類を、今ごろ出したいと言ってきた。

 仕方なく、イヤホンも外してきちんと話す。


「いやさ、ほら。他の書類は、ほとんどデジタル決済だろ? 人事のは紙のが多くて、うっかり忘れちゃうんだよ」

「そうですか、すみません。人事部長に、そう伝えておきます」

「あ、いやっ。そういうことじゃなくてっ。うっかりしてたから、照れ隠しってやつだよ」


 あんたがそんなことしても、不気味なだけだよ。

 というのは表情だけにしておいて、書類は受け取った。それが最後まで通るかは、私の知ったことじゃない。


「受理は出来ますから。それ、ください」

「いやあ話せるねえ。いつも凛々しい顔してるし。仕事が出来る女性ってのは格好いいよ」


 うるさい、早く視界から消えろ。ハゲる呪いをかけるぞ。


「助かった、助かった。食事の邪魔をして悪かったね。あ、これお詫び」

「お気になさらず」


 呪いが効いたのか、バカ課長は去った。ポケットからなにを出したかと思えば、生命保険のおばさんからもらっただろう、飴が一つ。

 別に潔癖症ではないけど、なんだか食べる気はしない。

 ――お前のせいじゃないか。

 春菜が辞めてしまったのは、絶対に、お前のせいじゃないか。

 考えてもみろ。あの日あの子は、あんたの八つ当たりを周りが恐れたせいで、余計な仕事を言いつけられなかった。

 そうしたら時間ぴったりに、というかそのかなり前から手持ち無沙汰で、遠慮がちに帰って行ったじゃないか。前の日から持ち越しもあっただろうに。

 ああ、ダメだ。苛々が募るばかりだ。

 ひとかけ残っていたサンドウィッチを、包装されていたビニールと一緒に丸めた。パックのオレンジジュースは最後まで飲み干して、まとめてコンビニの袋の中へ。

 ああ、うっかり飴も入ったかもしれない。

 出入り口近くのゴミ箱へ捨てて、休憩室を出る。するとそこにある自動販売機コーナーに、また男が居た。

 その人は、春菜と同じ課だけど、違うグループの係長。スマホで誰かと話しているらしい。

 私はほとんど毎日、休憩室で昼食をとる。私以外に続けて利用する人は居ないのに、なぜだか一人きりになることもない。

 鬱陶しいと思ってしまうけど、そこに腹を立てても始まらない。


「――は、意外とせっかちだな。慌てるなよ」


 その人の傍を通り抜けざま、あの子と同じ苗字が聞こえた。漏れ聞こえる相手の声も、女性だった気がする。

 まあ、偶然だろう。珍しい苗字ではないし、今どき女性のクライアントもたくさん居る。


「ああ、あそこか。たしかに駅からのアクセスもいいんだけどな。喫茶店の客層としては、若すぎないかな」


 なるほど、喫茶店のオープンに付き合うという話らしい。

 内装やサイン関係が仕事のうちとしては、最初から最後までと言うならいいお客さまというところだ。カフェ店主を夢見る女性も、まだまだ多いと聞く。

 財布から小銭を探したり、落としてみたり、どれにするか悩んだり。自動販売機を小道具に、小芝居をしばらく続けた。

 そのおかげで、候補地らしい地名をいくつかと、店名を聞き出した。

 怪しまれてはいないと思う。問題は、この冷えたオレンジジュースをどうするかだけだ。


◇◆◇


「まだ四月なのに、暑すぎないスか」

「たまらんな。あ、これ返しといて」

「っス」


 人事と経理は、受け付けも兼ねて、会社の入り口に席がある。だから、とまで言うと筋違いだろうけど、春菜とはフロアまで違っていた。

 賑やかに帰ってきたのは、例の長井くんとその先輩だ。茶髪の彼は、社用車の鍵を返しにこちらへやって来る。


「確認お願いス」

「はい」


 そこまで言ったなら、「しま」を入れられなかったのだろうか。まあ、いいけれども。

 確認と言ったって、ナンバーの書かれたキーホルダーに、車の鍵らしき物が付いているかだけだ。

 ついででやらされる業務に、それ以上の手間を求められても困る。

 彼らが出かける時に書いたはずの欄の下に、返却者と確認者の印を押す。こういうのは、なかなかデジタルにならないものだ。


「あの」

「はい、大丈夫ですよ。鍵は私が戻しておきます」

「ありがとっス。でもそうじゃなくて」

「はい?」


 長井くんは、そこまでを無遠慮に言って、そこから目が泳ぎ始めた。

 なにを言いかねているのか。まさか私に、愛の告白か。

 そんなことはないと分かっているけれども、雰囲気だけで言えばそうとしか見えなかった。


「人事か経理に相談でも?」

「あ、いえ――ええと」

「なるほど、言いにくいことなんですね」


 我ながら、サボり癖というのはなくて、真面目には仕事をしていると思う。上の評価がどうかは知らないけど。

 でもなんだか、この長井くんの話は聞いておくべきだと思った。仕事の話でないのは分かっていても。

 もちろんそれは、春菜に関することだと察しが付いたからではある。

 彼が春菜にどんな想いを抱いているのか、聞けば苛立つのかもしれない。それでも聞いてみたいと思った。


「すみません、相談室に行ってきます」


 近くに居た主任に声をかけて席を外す。相談室と言っても、営業の人たちが商談に使うのと同じスペースだ。

 そう言えば、なんのためにとか聞かれることがない。

 五つあるブースは、幸いに誰も使っていなかった。最も奥に入って、長井くんを手前に座らせる。


「それで、なんですか?」

「あ、ええと。気を遣ってもらって、どうもス」

「それはいいです」


 ここへ来ても、彼はなかなか本題を言わなかった。そのチャラい外見はなんだ。ハッタリか。

 などと言えば人事として問題があるので、理性を活発に働かせる。

 届け出のミスとか、多額の借金を抱えてしまったとか、比較的によくある相談を呼び水に言ってみても話は出てこない。

 今日は無理か。と諦めて、切り上げることにした。そもそも彼が、春菜の今や今後を知っているはずはないのだ。なにを期待していたのやら。


「春菜のことかと思ったけど、言えないならまたにしましょう」


 口にするつもりはなかった。でも春菜が居なくなって、今日だけでも、積もった気持ちはあったのだろう。

 よりにもよって、三つも年下の彼にぶつけてしまうとは。油断していた。


「知ってたんスか」

「――ええ、まあ。そうかな、ってくらいだけど」

「そう、スか」


 きっと話し始める最初の言葉を、探し続けていたんだろう。彼はここまでの、迷い子みたいな顔を消した。

 それにしたって、今度はだだっ子みたいになっただけだけれども。


「俺、春菜先輩に気持ちを伝えたつもりなんス。でも強がっちゃって、遠回しになったかもしれなくて」


 この様子を見る限り、遠回しということはないだろう。

 むしろ直接的すぎて、その場ではなんとも言えない空気だったのではと想像する。


「そしたら、週明けに辞めるって聞いて。俺が余計なこと言ったのかと思ったら、それからもなにも言えなくて」

「そのまま有給消化に入っちゃったんだ?」

「っス」


 よくある話だ。

 片思いとか、告白したけど諦めきれなくてとか。どうアプローチしていいか分からずに、時間切れ。

 そんな話は創作にも現実にも、呆れるくらいに溢れかえっている。

 でもそういう状況になったら、それは終わりだ。そこから逆転なんて、まずあり得ない。諦めるのが、お互いのためだ。

 私はこれを、誰に向けて考えているのか。


「それまでだったんだって、諦めるつもりだったんス」

「そうなんだ」

「でも、ちょっと気になることがあって」


 長井くんの話は、私にも気になる内容だった。彼の上司の係長が、最近よく私用の電話をしているという。

 一日にほんの数分のことなので、それ自体は目くじらを立てることではない。

 でもその相手が、春菜らしい。


「そっか……でも、それが事実だとして、他人がどうこう言うことじゃないよ」

「他人、っスよね」


 彼は、はっと顔を上げて背けた。自分が春菜にとって、なんでもないと気付いた――いや、気付かない振りをしていたのがつらかったのだと思う。

 そうと認識してしまえば、人の恋路に口を出す、変態野郎でしかないのだから。


「同期って聞いたんで、なにか教えてもらえるかもって。失礼しました」

「ううん、いいよ。まあ、またなにか気になったら教えてよ。聞くくらいなら出来るから」

「っス」


 肩を落として、長井くんは去っていった。私も戻らなければいけないのだけど、一つ気になることがあった。

 ポケットから、二つに畳んだ封筒を出す。開くと表に、辞表とだけ書いてある。

 辞表の書き方、みたいなサイトでも見て書いたのだろう。入っていた紙には、きちんと退職届と書いてあった。

 とても真面目で、熱心で、傷付きやすい春菜。

 この会社で、あの子を最初に傷付けてしまったのはきっと私。あのころ、なにもかもうまくいかないなんて思い込んでて、誰でも良かった。でもそれで、私にそういう気持ちもあるって気付いた。

 とても真面目で、熱心で、傷付きやすくて、可愛らしい春菜。


「ついでに資料庫の整理をしてきますね」


 内線で連絡して、その通り資料庫に向かう。調べられる書類はいくらでもあるはずだ。


「あの係長、たしか結婚してたはずなのよね……」

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