『好き』の気候はどれですか?
須能 雪羽
第1話:【春菜】旅立ちの季節
女は、これだから。
泣けば済むとでも、思ってんの?
私はたしかに、要領が悪い。あとで自分で考えて、泣くほどでないことでも涙が出る。
でもそうしようと思って、しているわけじゃない。十分に気を付けたつもりでも、どこか抜けている。耐えなきゃと思う前に、鼻すじが濡れてしまう。
そんな自分が歯がゆい。でももう、どうしていいのか見失って久しい。
「
やっと一年目を終えようとしている、後輩くん。彼は大学卒で私は短大卒で、歳は一つしか違わない。
いかにもチャラい感じの彼は、私と同じ部署。彼の仕事を、私がチェックすることもある。
教育係とかではないので、それほど多く話してきてはいない。なのにどうして、誰も使わない非常階段にやって来るのか。
誰も居ないところで、涙を出しきろうとした私を見つけてしまうのか。
「んっ、だ、大丈夫。どうしたの? お昼ごはんは?」
鼻声で、ご丁寧に鼻をすすって。みっともない。
「これ、要るかなと思って」
差し出されたのは、私のポーチ。メイク直しとか、あれやらこれやら。小さくまとめようとしたのに、パンパンに張り詰めたポーチ。
いつも机の足元の棚に置いているのだけど、知られていたのが恥ずかしい。持ってくるまで、まじまじ見られたと思うと、恥ずかしい。
「あ――うん。ありがと」
「っス」
ありがたくなくはない、けど。というような、素直にお礼を言えない気持ち。
どうして、そんなことを知ってたの?
どうして、ここに居ると分かったの?
「えと、なんで――」
持っていたハンカチはもう、びしょびしょのドロドロだ。それで顔面を隠すのにも限界があるし、せっかくポーチが手元に来たのだから、すぐにでもトイレに行きたい。
でも今を逃すと「あの時のことだけど」なんて、改めて聞くことなんか出来ない。そう思ってしまうと、聞かない選択肢がなくなった。
「ああ、すんません。なんか俺、春菜先輩のこと気になっちゃって。落ち込んでるの、見てられないっつか。目が離せないっつか」
「ええ? それってどういう――」
これを偏見と呼ぶなら申しわけないけど、チャラい人はどうにも苦手だ。好き嫌いの話ではなく、なにを話せばいいのか分からなくなる。
「どういうもこういうも、そういうことっスよ。それはさすがに、察してくださいよ」
「あぁええと……うん」
一瞬、眉が寄ったのはなんだろう。すぐに笑ったのは、仮にも「うん」と私が言ったからだろうか。それならすぐに、訂正しないと。
「あっ、だいじょぶっス。ポーチの中、見たりしてないんで。俺そういう距離感、分かってるつもりなんで」
「う、うん。ありがと。顔、洗ってくるね」
どうも聞けそうにない。彼が悪いわけじゃなくて、そんな簡単な言葉を言えない私のせいだ。
「余計なお世話かもしれないけど、春菜先輩が一生懸命なの、俺は知ってるっスよ」
すれ違いざま、彼は言った。本当にそう思ってくれているのか、励まそうと思っただけなのか。どちらにしても、嬉しかった。
この建物の中で、これだけはっきりとした温かい言葉を聞いたのは、いつぶりだろう。
また別の涙が溢れそうになって、「ごめんね」と逃げ出した。
◇◆◇
怒らせてしまった課長は、あれきり私に視線を向けようともしなかった。係長はそのご機嫌とりか、応接ブースでずっとお世話係だ。
男性陣は外回りから帰らず、私以外の女性陣はこぞってどこかへ雲隠れ。そんなだからやることがなくなって、図らずも久しぶりの定時退社になってしまった。
なのにどうして、お酒を飲めもしないのに、私は居酒屋に居るのだろうか。
もう一つどうして、私の隣に、隣の島の係長が居るのだろうか。
「――ああ、あいつな。どうしても今聞かないと、発注が間に合わないとか言うから。悪いと思ったんだが、すまんな」
「いえ、そういうことだったんですか」
チャラい彼は、普段から私のことを気にかけてなんかいなかった。得点稼ぎに来ただけだったらしい。
私なんかにそんなことをしても、得はないのに。安く見られたのかなと思って、いや実際に安いのかなと思って、二重に落ち込む。
「
「うんまあ、たまたまな。帰社してそのままトイレに行こうとしたら、見かけたんだ」
「そうなんですね。お見苦しいものを」
「見苦しくはないよ」
岡野さんはお昼前、つまり私が叱られ終わるまで出かけていたので、その場面は見ていない。いちいちなにかあったのかなんて、ほかの社員から噂を仕入れる、下世話な人でもない。
だから社屋から出がけに、「一人じゃつまらんから付き合え」と言ってきたのも偶然だ。
いつも私は遅くまで残業をしているので、そんな時間に見るのが珍しかったとか、そういうことだと思う。
「お前さ、やりたいこととかないの?」
「やりたいこと――もっとうまく仕事が出来るようになりたいです」
「ああ、いや。そうじゃなくて、一生の中でとか、趣味でもいいや」
お前と呼ばれるのは、得意じゃない。価値観的にどうとか難しいことでなく、単純に怖れを抱いてしまう。
それでも岡野さんなら、そういう人でないと思い込むくらいは出来る。褒められたことはないけど、頭ごなしに叱ることもなかった唯一の人だ。
「うーん……」
「ないのか」
なくはない。
でもそれを口にしていいものか。笑われはしないか。意外と真面目に考えていたりするのもあって、躊躇してしまう。
突き出しの南瓜を、岡野さんはつつき回す。返事を待つ間を潰しているのだ。それとも即答出来ないことで、呆れられたか。
――そっと。顔を盗み見た、つもりだった。それがしっかり、視線が合ってしまう。
カウンター席で、すぐ隣の人と向き合うことは意外とない。だから慌てて、顔を背けた。
どうしよう。
どうしよう。
とても感じが悪い。謝らなきゃと思うのと、今見た表情を考えるのが同時に働いてしまう。
なんだか残念そうな、困ったような顔だった。
「ああっと、すまん。いきなり聞かれても、思いつかないよな。すまん」
「いえっ、そうじゃなくて!」
二度も、すまんと言わせてしまった。会社でよく聞く、「俺は知らん」と同じ発音の「本当すまん」ではなかった。
「ん、なにかあるのか?」
「ええと、実は。私が出たのは、調理師とか栄養士とかの短大で――」
「ああ、そういえば言ってたな。忘年会の時だったか?」
忘年会?
一次会だけはなんとか耐えたあの席で、そんな話をしただろうか。
――ああ。課長が学歴の話をした時だ。うちの会社の事業に関係ない学部で、「ふうん」とさえも言われなかった。
あれを覚えていてくれたのか。
「いつか、遠い話なんですけど。お店をやりたいと思ってて」
「店? 食べ物屋だよな」
「ええ。カフェっていうか、喫茶店っていうか。常連さんが入り浸ってくれるような、小さなお店をしたいなとは思ってます」
「へえ、今風のじゃなくてってことだな」
「ですね。おばあちゃんがやってても、似合う店です」
岡野さんは聞き上手で、私は幼いころからの夢を得々と語った。
料理はあれもこれもと欲張らず、日替わりで二、三品を。甘味は専門の誰かに、自家製で。郊外の住宅地近くで、徒歩でも車でも、ふらっと来れるようなお店。
「結構しっかり考えてるじゃないか」
「そんなことは。子どものころから、夢の上乗せを続けてるだけです」
仕事の注文書みたいに、岡野さんは紙ナプキンへ書き付けていった。「大体これくらいか?」と聞き終わると、もう一度最初から復唱する。
「あ、あの。恥ずかしいです」
「――うん。あのな、勘違いをしてほしくないんだが」
「はい?」
「お前。うちの会社、辞めたほうが良くないか?」
「……えっ」
夢の話をして、なんだか気が紛れて楽しい気分だったのに。いきなりどん底に突き落とされた気がした。
顔色も変わったのだろう。岡野さんが慌てて言葉を継ぎ足す。
「い、いや! そういう意味じゃない! お前を否定したいわけじゃなくて――とりあえず、聞いてくれないか」
「え、えぇ……」
普段の私の顔色が、日に日に悪くなっていると岡野さんは言った。休日を挟んでも回復しているように見えなくて、頬や首がやつれているとも。
「これは否定になってしまうかもしれない。でも俺が思うに、お前は違うことのほうが向いてると思う」
「違うこと?」
「そうだ。なにか作ったり、それを売ったり。ちょうどお前の夢の話が、ぴったりだと思う」
夢ではなく、現実として考えてみろ。岡野さんは、そう言った。
「そんな。いくらなんでも突然、急にそうとは思えませんよ」
「どうしてだ? いや、分かる。新しい道に行くには勇気が要る。だが今の道は、お前の歩幅に合ってない」
「そうかもしれませんけど……」
この場でそうと決めろなんて、無茶を言う気はない。岡野さんはそう言って、でも真剣に考えてみろと続けた。
「お前は人からの評価を、気にしすぎなんだよ。だから見え見えの口説きに引っかかるんだ」
「そんなこと……あるかもしれませんね。見栄とか冗談とか、嘘とか。すぐ真に受けるし」
「俺はお前に嘘を吐いたことはないぞ」
「他にはあるんですか?」
「取引先には、しょっちゅうだ」
ははっ、と。いかにも冗談という風に、岡野さんは笑う。
でも冗談とだけは分かっても、実際には全く言わないのか、方便というものはあるのか、それさえ分からない。
考えて、分かるための知識も経験もなくて、寂しくなった。
「おっ、おい。なんで今ので泣くんだよ」
「すみません……泣きたいわけじゃないんですが、勝手に」
大丈夫。これくらいなら、おしぼりを目に当てていればすぐに引っ込む。そのままを言って、黙らせてもらった。
二、三分ほど。岡野さんも黙って、ビールとおつまみを口に運ぶ気配があった。でも間が持たないのか、独り言みたいな声が聞こえる。
「俺が勝手に思ってるだけだが、やっぱりお前は、その夢を叶えたほうがいい。俺も出来るだけ手伝う。うちの仕事として、安く請け負ってもいい」
「……どうして。どうしてそこまで言ってくださるんですか?」
「そりゃあお前――」
どうしたって、なにか仕事はしないと生きていけない。広島に帰ろうかとも思ったけど、帰ったって当てはない。
ずっと一人で生きていけ、ってことなのかな。
「すまん。俺もついさっき、お前に嘘を吐いた」
「え……」
「帰社した時にたまたま見かけたって、あれは嘘だ」
その次の月曜日。私は会社に、辞表を出した。
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