第20話 スティーブの野望

 ようやく二人は目的地にたどりついた。かつてフォックスを探すため、和也と交代で双眼鏡を向け続けた大地は、色づく季節も終焉を迎え、冬支度をする動物たちに今年最後の恵みを与えている。まっすぐに続く道の両側は背の高い枯れすすきがたなびいているが、いずれ雪に覆われ、そこはフォックスの舞台になるのだ。二人はその場所にやってきた。当時は小さな小屋だったと記憶しているが、現在は立て替えられ、貸し別荘になっている。持ち主から借りてきた鍵を差し込むと、柿渋で程よい色合いに塗り込められた木扉を開けた。まだ新しい建物なのか、中に入ると木の香りが部屋中に満ちている。

「居心地の良さそうな場所ですね。」

 和也はこの別荘が気に入った様子だった。二人は荷物を片付けると、まずは外に出て暖炉の燃料となる薪を準備しなければならなかった。最近は暖冬続きで、本格的な冬の到来が遅れる年も増えてきたが、十月下旬ともなれば日中は温かくとも、日が沈めば暖房なしでは過ごすことができない。

 入院のためすっかり体力が低下した和也に代わって、シュリーは斧を振り上げ薪を割り始めた。

「あはは、シュリー、腰がふらついていますよ。」

「薪割りなどしたことがないからな。」

「頑張ってくれないと、僕たち凍えてしまいますからね。」

 和也の明るい笑い声を聞いてシュリーは安心した。環境が変わり、親しい者たちから離れることで、記憶を取り戻さなければならないというプレッシャーから少し解放されたのかもしれない。

 どうにか一日分の薪を確保すると、二人は部屋に入り、暖炉に火を入れた。ぱちぱちと小枝の燃える音とともにゆっくりと炎が上がっていく。薪の燃える香りは心を落ち着かせ、炎のゆらめきは時間の流れを穏やかにする。シュリーはコーヒーを淹れ、暖炉の前にくつろいで座る和也にカップを差し出した。

「どうもありがとう。こうして暖炉の前に座っていると、なんか落ち着くなあ。」

「それは良かった。」

「そういえば、こちらで仕事があると言ってましたよね。音楽の仕事ですか。」

「ああ、音楽に関係した仕事ではあるね。私の親しい友人がこちらでリゾート開発をすることになってね。その施設の一部をプロデュースすることになっているんだ。」

「リゾート計画ですか。ゴルフ場?それとも温泉施設か何かですか。」

「私もまだ詳しくは知らないのだが、どちらかというと娯楽要素を重視した滞在型のリゾート地になるらしい。だからコンサートホールや劇場、映画館、レストランやショッピングモールなど一つの街ができる感じなのではないかと思う。」

「すごいですね。大都市ではなくて、こんな北の大地に?」

「自然は多いし、冬はスノースポーツもできるしね。食べ物はおいしいし、意外と海外からの交通の便もいいと聞いている。」

「入院中にテレビや雑誌でも読みましたけど、地方では不況で破綻しかけている自治体も多いらしいですね。その計画が地域を活性化させるきっかけになるならとてもいいことなんだろうな。」

「そう願うよ。」

 リゾート計画を進めているS&F社のプロジェクトチームは、旭川市に事務所を置いていた。シュリーは午後の数時間だけ打ち合わせなどのために出かけるつもりでいた。

 別荘の居間は二十畳ほどの広さがあり、天井にはいくつかのランプが灯るようになっていた。一枚板のテーブルはやや低めで、数人が一度に卓を囲める広さがある。その周囲に置いてある椅子は寄せ集めのようにさまざまな形をしていた。和也は揺り椅子が気に入ったらしく、暖炉の前で身をうずめながら子供のように足を投げ出して椅子を揺らし続けていた。しばらくすると和也は何かを思いついたように部屋の中を歩き出した。暖炉の横にある出窓から外を見たり、その傍らにあるチェストの引き出しを開けてみたりした。シュリーは黙って和也を見守った。こちらに来てからは和也の記憶をたどる邪魔をしないように和也を自由にさせようと考えていた。和也は一つ一つ家具を確認するように眺めると、最後に居間の端に置かれた一台のアップライトピアノに興味を示した。持ち主が置き場に困って別荘に持ち込んだのだろうか。深い茶系の木目が美しいピアノはこの空間に溶け込んでいる。和也は鍵盤を覆う蓋を開けると、おそるおそる人差し指でキーを押した。鍵盤が押し込められる音とともに澄んだ単音が鳴り響いた。和也は振り向いた。

「何か弾いてもらえませんか。」

 シュリーはだまってうなずくと、ピアノの椅子に腰掛け、いくつかの和音を奏でた。和也はピアノの音とシュリーの様子を見ただけでなぜか緊張と共に心が躍るのを感じた。

「リクエストは?」

 きっと記憶があったころの自分ならば、シュリーに次々とリクエストをしたのだろう。しかし今は曲のタイトルさえ浮かんでこない。

「僕が以前好きだった曲を。」

 シュリーはしばらく考えていたが、やがて静かに弾きだした。それは、『Fox Tail』のクライマックスで演奏されるバラード曲だった。生で聴く演奏から受ける感動とともに、シュリーが正真正銘の音楽家であることを和也は認識した。入院中は、CDで聴く演奏と目の前の作曲家が結びつくことはなく、自分がそのファンであったという事実を知識としては知っても、全くの他人事としてしか感じられなかったのだ。曲が終わるころには、和也の目から次々と涙が溢れ出した。シュリーは演奏を終え、立ち上がると和也の肩に手をかけた。

「大丈夫か。」

「大丈夫です。何かを思い出したというわけではないけど、あなたの演奏が心を揺さぶったことは確かです。」

「あせらずにゆっくりでいい。弾いてほしいと思ったときには遠慮なく言ってくれ。」

 その後、毎日ではなかったが、和也はシュリーにピアノ演奏を頼んだ。シュリーはさまざまな曲を弾いたが、和也は最後に必ずこのバラード曲をリクエストした。和也はその曲を聴くと、心の奥ではっきりとは結ばない映像の輪郭を何度か感じることができた。思い出したいけれども思い出せないという葛藤の後には辛さだけが残ったが、自分自身や周囲の人々のために努力したいという思いは強まっていった。


 二週間後、シュリーはいつものように旭川の事務所で仕事を進めていた。スティーブ・ロードがひと月ぶりに進捗状況を確認に来た。

「シュリー、久しぶりだ。身体はすっかりよいのかい。」

「心配をおかけしました。私はもう大丈夫です。」

「君は今、市街のホテルではなく、ソウウンキョウ近くの民家にいるそうだね。」

「ええ、日本人の友人と一緒です。」

「この間、君を助けたエイジのことかな。」

 スティーブは探るように問いかけてきた。

「いいえ、エイジの友人と一緒です。」

「フーン。」

 彼は興味を削がれたようにトーンダウンした。

「スティーブ、質問ですが、リゾート地の詳細な計画について、私にもご説明をいただけますか。私が担当する分野についての構想はすでにできあがっているのですが。」

「おー、そうだったね。君が倒れた後、僕もアメリカ本社での問題に時間を取られていたからね。説明する機会がなかったわけだ。」

「その通りです。まず知りたいのは、リゾート地の規模と場所です。この辺は国が管理している所が多いわけですから、場所が限定されてくるのではないかと思ったのです。それによって各施設の機能も変わってくるでしょう。」

「うーん、それについてはあまり気にしなくていいよ。君が構想しているエンタテイメント部門はこの計画の主要部分だからね。必要な規模は確保するつもりだ。はじめから条件をつけると発想も変わってしまうだろう?君のアイディアはすべて生かすつもりだよ。」

「とはいえ、市街からどの程度距離があるかによって盛り込む機能は大きく変わりますよ。」

「確かにそうだね。その点については、市街との連動は全く考えずに、独立し完結した街を考えてほしい。一歩外に出れば、ツキノワグマが出てくる大自然を想定してくれるかい。」

「正確な位置を教えてもらえますか。」

 スティーブは秘書に地図を持ってこさせた。

「現在、我々がいる旭川市がここだ。君が今いるのはソウウンキョウ、ここだね。リゾート建設予定地は、ここだよ。」

 スティーブが指差したのは、国立公園にすっぽり入る層雲峡近くの平地部分だった。

「こんな場所に許可が下りたのですか。」

「もちろんさ。我々の計画に自治体も国土交通省も歓迎の意を表してくれたよ。」

 その場所はフォックスが出現する場所の一部でもあり、英次がNPO活動によって保護しようとしている地域と重なっていた。スティーブはシュリーの驚きを想定していたかのように、平然とした態度で見下ろした。

「今度はこちらから質問をしたい。」

 スティーブの声がやや硬化したように聞こえた。

「君はこの地域に現れる『美しいキツネ』を知っているだろう。」

 シュリーは地図上に落としていた視線をスティーブに向けた。二人は強い視線をぶつけることになった。

「肢体は白く、全身が発光するそうだね。その目撃者は少ない。もちろんその生態を知っているものもほとんどいない。その話を聞いて僕は場所を変更したんだよ。」

 スティーブはかすかに微笑みを浮かべて話し続けた。

「君が『Fox Tail』の仕事に今までにないほどの情熱を傾けていることと、日本行きを提案したときに見せた困惑の表情とが、すべてこのきつねに関連しているのだと知ったのはつい最近のことだ。」

 シュリーが親友である自分に秘密を持っていることをやさしく責めるような言い方だった。

「二十年前、君が解散のきっかけになったワールドツアーに出かけた時、最終の日本公演中にこのきつねに出会ったのだろう?そして君が去った後も、その追跡は弟さんたち仲間によって続けられた。」

 シュリーは「ブラザー」という言葉に動揺を隠すことができなかった。

「兄弟のような、という意味だよ。」

 スティーブは言い直したが、英次と自分の関係を知っていることは明らかだった。

 しばらく二人の間に沈黙が流れた。スティーブは何も語らないシュリーに提案を持ちかけた。

「どうだろう、僕たちのプロジェクトに君の友人たちの協力がほしい。」

「協力?」

「そう。その美しいきつねにも出会えるかもしれないということを売りにしたい。」

「フォックスを客寄せに使うということですか。」

「何か問題でもあるのかい。世界にはまだまだ珍しい生物はたくさんいるだろう。一生かかっても見ることができない、メディアの中でしか知りえない生物に、もしかしたら遭遇できるかもしれない。これは究極のエンタテイメントだよ。我々の趣旨にあっている。しかも、希少生物としての指定を受けていないのならば、ツヅキエイジをこのリゾート地に常駐させ、NPO活動を円滑にできるよう我々が支援することでそれが実現できる。彼ならばきつねの生態を詳細に研究し、多くの人々に遭遇の確率を高めてくれるだろう。百パーセントでなくていいのさ。遭うことのできる者とできない者がいることによって、より話題性も高まる。リピーターも多くなり、ここを訪れる者は増えるだろう。どうだ、とても良い案だとは思わないかい?」

 スティーブがいかに時代を先取りし、類まれなる発想と経営手腕によってS&F社を発展させてきたか、近くで見てきたシュリーはよく知っていた。優良企業家としての評判も高く、人物にも信頼を置けたからこそ、今まで自分も仕事上での協力を惜しまなかった。しかしフォックスにまで彼の商魂が及ぶとは当然のことながらシュリーは想像すらしていなかった。

「単刀直入に言おう。ツヅキエイジに会わせてほしい。もちろん君がノーと言ったとしても、これはビジネス上の話だから直接コンタクトを取るつもりだ。」

 スティーブがここまで強気で言うということは、ビジネス上でのメリットが大きいということだ。

「だが、君がつないでくれるならば、彼もこの話についてさまざまな点から検討してくれるだろう。そのほうが、双方にとって都合がよいことは確かだ。もちろん、君たちのプライバシーについてはすべて守られる。特に父上であるユステール氏を僕は敵に回したくないのでね。」

 いうまでもなくS&F社は最先端新鋭企業の代表であり、ライバル関係にはないヨーロッパファッション界の代表ともいえるユステール社と良い関係を築いていきたいというのがスティーブの本音である。しかし、シュリーが父親と絶縁に近い状況にあることは彼もよく知っていた。分野が違うこともあり、直接の利害関係を結ぶ機会がなかったこともあるが、シュリーと父親の仲が違っていれば、スティーブは積極的にユステール氏に接近しただろう。

 シュリーは追い込まれた。父親のことは置いておくとしても、フォックスや英次を取り引きに使われたことで返答につまった。スティーブは計算済みだった。ただ「きつね」の話を持ち出しただけではシュリーが協力しないことはわかっている。英次との関係に触れたときにはいささか良心が痛んだが、自分の計画はすべての者が利益を得るように仕組まれている。シュリーに考える時間を与えれば、すべて自分の思い通りになると彼は確信していた。

「考える時間をいただきたい。」

 そういうのが精一杯だった。

「もちろんさ。しかし時間はあまりない。年内には着工したいのでね。ここは雪国だからただでさえ工期が遅れがちになる。私は再来年の雪解けと同時にアジアで最大、最高のリゾート地をオープンさせるつもりだ。」


 別荘に戻ると和也は不在だった。

(今日は彼女のところに行っているんだな。)

 彼女とは北泉閣の女将上田美智子のことである。英次の計らいで、時々和也は温泉に入るため北泉閣を訪ねていた。

シュリーは暖炉に火をおこすと、ワインボトルに手を伸ばした。飲まずにはいられない。再び日本に来たことへの後悔が心の中に広がっていく。自分のせいでまた英次たちを面倒なことに巻き込んでいるのではないかと思う。

シュリーはピアノの前に座った。ここのところ、和也に頼まれない限り自ら弾くことはなかったが、今は行き場のない感情を収めるために何かに頼りたかった。シュリーは自由に思いついた曲を弾き始めた。なぜか自分が作曲した曲ではなく、昔レッスンしたバッハやモーツァルトなどのクラシックばかりが浮かんできた。スティーブが初めて自分の前で父の話を持ち出したせいかもしれないが、シュリーは父のことを思った。もう二十年以上も会っていない。ユステール社の秘書や支社の社員にアメリカでの滞在先まで何度も来られ、帰るように説得されたが、シュリーは父にだけは会うつもりがなかった。なぜこんなにも頑なに拒むのか、これだけ時間が経ってしまうと最初の原因さえ忘れかけてしまっている。シュリーは物思いに耽りながら、自分の手が覚えている曲を弾きつづけ、漫然と父のことを思い出し続けていた。


和也は温泉でくつろいだ後、美智子とのおしゃべりを楽しみ、北泉閣のマイクロバスで別荘まで送ってもらった。

「いつもありがとうございます。」

 和也はバスの運転手にお礼を言うと、別荘の入口に立って振り返った。日暮れが早くなり、太陽が地平線に沈むのが見えた。北海道の夕日は美しい、と和也は思った。そのとき分厚いドアの向こう側からピアノの音色が聞こえてきた。和也はしばらくその場に佇んで漏れ聞こえてくる音楽を聴いていた。いつもリクエストしている曲とは違うが、どこかで聴いたことのある懐かしいメロディーだ。和也は目を閉じた。まぶたを通して、オレンジ色の光がゆっくりと染み入ってきた。光はゆらゆらと何かの形を結び始めた。ピアノの音色に合わせて変化しているように見えた。しばらくすると、和也の中で何かがはじけるような音がした。それと同時に、遠くからかすかな風音とともに懐かしい鳴き声が聞こえてきた。

(この鳴き声は…)

 和也のまぶたの裏で金色の光の輪郭が蘇った。

(フォックス…だ。)

 かつてフォックス探しのために詰めていた小屋の中で、シュリーがある曲を歌っているのをドアの外で聴いていた自分を、「思い出す」というような意識の作用ではなく、まさに同じ場面を体験しはっきりと身体が反応するのを実感した。

(あの時の曲が…)

 和也がドアのほうに向き直ってノブに手をかけたのと同時に、内側からシュリーがドアを開けた。シュリーはフォックスの声が聞こえて急いで外に出ようとしたのだ。

「シュリー、フォックスの声だ。」

 和也の力強い叫びは自然で、一瞬記憶を失ったはずの人物であることを忘れるほどだった。

「近くにいるんじゃないか。探しに行こう。」

 和也の声には何もかもが明確になったという自信の響きがあった。

 シュリーは和也の表情が見えなかった。それは夕日の逆光のせいなのか、自分の涙のせいなのか定かではなかったが、思わず和也を抱き寄せ、フォックスの声がかき消されるほど大きな声で歓声を上げた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

テイル・オブ・ザ・フォックス @viennakatze

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ