第19話 北の地で蘇る

「和也をお願いします。」

 北へ向かう列車が止まるホームは、平日の夕方というのに多くの旅客で賑わっていた。旅の出発にふさわしい明るい空気に包まれ、活気に満ちていた。

和也は二十日ほど入院したが、記憶以外は健康上の問題がなく退院した。しかし、大学はしばらく休職することになった。この機会を利用し、和也の記憶を取り戻すため、できる限りのことをしようと、北海道行きを提案したのはシュリーだった。英次と翔子は仕事のため同行できない。おそらく自分たちには理解できないことがこの二人の間に起こったのだ。今はシュリーに預けるのが一番だと英次は判断した。

 列車を選択したのは、和也に少しでも多くの刺激を与えたかったからだ。今までのさまざまな経験の内、何が引き金になって思い出すかわからない。学生時代、英次とともに北へ向かうときはいつも列車を乗り継いで行ったものだ。ただ、切符を手配するときに、和也の現在の体力が減退していることや、シュリーを普通列車に何時間も乗せることに配慮し、人気のある寝台特急を選んだ。翔子の同僚山本の奮闘のおかげで、人気のチケットを運よく押さえることができた。

「これが連絡先です。すべて伝えてあります。向こうでは準備を整えて待ってくれています。」

 英次は北海道で最初の滞在先になる「北泉閣」のリーフレットを渡した。シュリーと和也はそこで数日滞在し、その後、二十年前にフォックスが現れた時に過ごした小屋へと移動することになっている。

「ありがとう。では行ってくる。」

 和也は寝台特急の乗車口の前で振り返った。心細そうな表情だった。英次は少し切ない思いがよぎったが、笑って手を振った。

「和也、大丈夫。楽しんで来いよ。」


「こんな僕のために付き合わせてしまって申し訳ありません。」

 列車に乗ってからほとんど二人は言葉を交わさなかったが、食堂車で向き合うと、和也の方から切り出した。以前の快活さは感じられず、退院してからはますます自信を失い、消極的で控えめな人格に変わってしまったように見える。

「心配は要らない。私も向こうで仕事があるし、ちょうどよかった。」

 シュリーは自分からあまり語りかけないようにしていた。他人から聞いた情報と和也の記憶の混同を避けたかったからだ。入院中に見舞い客から様々なことを聞き、自分自身で整理する時間も必要だろう。さらに旅に出たことで、言葉という情報ではなく、五感が与える刺激や経験的な情報が多く和也に押し寄せてくるだろう。シュリーは聞き役に徹し、必要なときにサポートするつもりでいた。

「僕は一体どうしてしまったのでしょうか。時々自分の身体が自分のものではないような、宙に浮いたような感覚に襲われるのです。」

 入院中、シュリーが訪ねた際、三度ほど「翠」という人格が出てきたときのことを言っているのかもしれない

「あせるな。カズヤはカズヤ自身でしかない。抵抗せずにゆっくりと周りを見回しながら、自分の中で受け入れていけばいい。」

 ワインボトルがテーブルに運ばれてきた。二十年前、彼らが高校生だったあの記念すべき旅の急行列車で、シュリーは一人離れた席から英次たちを観察しつつ、当時日本で流行っていた軽いワインを何本も飲んだことを思い出した。

「飲むか?」

 和也は首を横に振った。シュリーは笑って、しかし和也の分もグラスにワインを注いだ。

「あなたのことを話してもらえませんか。僕があなたのファンだということはわかりました。入院中にCDも聴いたし。でもこうして一緒にいてもあなたの音楽の一つも思い出せないんです。」

 シュリーはゆっくりと一杯目のワインを飲んだ。慎重に和也に接しようと思いつつも、酔いが回ればいつもの強引さが少しずつ顔を出す。シュリーは自分のことをよく見ろ、といわんばかりに和也の鼻先に顔を近づけた。

「君は私の音楽を熱心に聴いていた。人生の多くの部分を私の音楽とともにすごしてきたといってもいい。」

 和也はシュリーの行動に触発されたのか、突然、ワイングラスをつかんで一気に飲み干した。久しぶりのアルコールに和也の顔はすぐに紅潮し始めた。シュリーの強気の発言に、少し反抗的な気分にもなっていた。

「そんなにも長い時間聴いていたなら、僕の身体の細胞はあなたの音楽で成長したんでしょうねえ。」

 十代の頃、シュリーが突然目の前に現れたとき、当然のことながら和也は興奮を覚えた。しかし和也は敬愛する相手であっても遠慮したり卑下したりするような人物ではなかったのだ。どちらかというと生のシュリーに出会って、その人間的な部分に触れるにつれ、自分と変わらないということを知り、ますます親近感を覚えた。さらに自分はシュリーの音楽を理解できるという自信があったため、他の人間よりもシュリーの近くにいる資格があるとまで自負していた。そんな和也のものの言い方の片鱗が今の発言に感じられたことがシュリーは嬉しかった。

「その通り。君はわたしの音楽をよく理解していた。」

「ふーん。あなたはよく日本に来ていたのですか。」

「いや、三回目だ。前に来たのは、二十年前だ。そのときも君に会っている。」

「そんなに昔ですか。僕はそのころどんな人間だったんだろう。」

「行動力のある勘のいい奴だった。それが私の一番印象に残っていることだ。」

「信じられないな。今の僕はどこにも力の入らない、糸の切れた凧のように拠り所のない存在に思えるから。」

 シュリーはふと和也の立場を想像した。自分は周りの人間を全く知らないのに、その人間たちは自分のことをよく知っている。全く逆の経験ではあるが、アメリカに渡ったとき、自分の名前を伏せ、周囲に知る人間は一人もいない中で味わった孤独感を思い出した。しかし和也は孤独感よりも恐怖感の方が勝っているのではないか。

 シュリーは再び二つのグラスにワインを注いだ。和也にグラスを渡すと、自分のグラスを近づけて傾けた。

「君が覚えていなくても、周りの私たちが君のことをよく覚えている。それは君にとって大きな違和感かもしれない。でも誰も君に危害を与えることはない。だから安心して自分のことだけを考えればいい。時間は充分にある。私はカズヤの記憶が戻ることを確信しているし、戻るまで協力するつもりだ。さあ、飲むと気持ちが解放される。列車の旅は長い。リラックスすることだ。」

 和也は勧められるままにワインを飲んだ。気分がより開放的になり、身体が温まったせいか、よく話し笑った。

「妹に聞いたんすけど、この間見舞いに来てくれた安曇良子さんて、英次の元奥さんだったんすね。」

 その話は初耳だった。

「良子さんも僕の同級生だったらしいですけど、きれいな人だなあ。別れちゃうなんてもったいない。そう思いません?」

 シュリーは二十年前の旅で良子に会っている。デザイナー志望だった彼女が、シュリーの父ユステールブランドのファンであることから時々話をしたことを覚えている。英次が良子に好意を寄せていることは傍から見てもすぐに分かった。シュリーは英次に対する屈折した思いから、良子にちょっかいを出し、英次を怒らせた。シュリーにとってみれば、ほとんど忘れかけている思い出でしかない。

「二人は結婚していたのか。知らなかった。エイジが好意を寄せているのは感じていたが。」

「やっぱり。高校生のときからだったんですね。僕はどうだったんだろ。誰かのことを好きだったのかな。」

 シュリーはその言葉を聞いて強く心が痛んだ。かすれ気味の声で言った。

「君のフィアンセはショウコだろう。」

「わかっています。彼女、本当にいい人ですよね。毎日来てくれて、僕がこんななのに…。本当に申し訳なくて。」

 和也は涙声になった。酒のせいか気分のアップダウンが激しい。翔子のことについては自分からはコメントしづらい。うしろめたさがまだ残っている。シュリーは「そろそろ戻ろう」と和也をなだめ、食堂の席を立ち上がった。


 和也は寝台に戻るとすぐに眠ってしまった。夜行列車は規則正しい音を立てながら、闇の中を進み続けている。風景の見えない暗い窓の外を眺めながら、シュリーは遠い昔のことを思い出していた。それは、英次や和也たちと出会う前のことだった。

 恵子の乗った飛行機が事故に遭い、それが元で家出をした後、シュリーはパリの酒場を転々とした。十七歳の少年はたった一つの特技であるピアノを弾くことで毎日を何とか生き延びていた。ある日、仕事が終わってステージを降りると、一人の女性に声をかけられた。アンヌと名乗るその女性にシュリーは見覚えがなかった。

「坊や、ジャン・デニの息子でしょ。」

 ジャン・デニとは父のファーストネームだ。シュリーは驚いた。

「何でこんなところに居るの?家出でもしたって訳?」

 シュリーの素性をよく知っていると言わんばかりの言い方だった。

「父には、ここに居ることを言わないでください。」

 シュリーは相手が父親の知り合いだと思い、強く懇願した。

「やっぱり家出なのね。あんたいくつになったの。十六かしら。」

「十七です。」

 すっかり相手のペースに乗せられていた。アンヌは意地悪い笑みを浮かべるとシュリーのあごをつかんで乱暴に言った。

「ジャンにばれたくなかったら、私の客になりなさい。」

 シュリーは意味が分からずアンヌの顔を見つめた。

「かわいい顔してるじゃない。ジャンよりも母親に似たってこと?」

 アンヌの手が震えているのが伝わってくる。怒りのようにも感じられた。

「僕はお金を持っていません。」

 シュリーは相手の要求を理解し、やっと答えた。

「ばれたくないなら、一緒に来るのよ。そうでなきゃ、この辺りでは仕事ができなくなるわよ。」

 自分がここにいることが知れれば、すぐに引き戻されるだろう。未成年の自分が酒場でピアノを弾いていることも問題になる。シュリーはアンヌの言葉に従う以外になかった。

 パリに生まれ育ったシュリーも、さすがに裏町の様子までは知らなかった。雑然とした古い建物が立ち並ぶ路地を方向感覚がなくなるほど何度も曲がると、煉瓦の壁面が今にも崩れ落ちそうな細長い建物の中にアンヌは入っていった。彼女の家はその三階にあった。

 中は狭くかび臭さが立ち込めていた。小さな丸テーブルと椅子、シーツや毛布がしわくちゃになっているベッドが目に入った。

 アンヌはテーブルにコップを二つ並べると、薄明かりで毒々しい色に見える赤ワインを乱暴についだ。そしてシュリーにコップを突き出した。

「お酒は飲めません。」

 シュリーは弱々しく拒否したが、アンヌはシュリーの手に無理やりコップを持たせた。

「飲みなさい。私の命令がきけないの。」

 さっきからアンヌの態度にはシュリーに対する憎しみの感情が表れているとしか思えなかった。シュリーはまた仕方なくコップに口をつけた。

 この女は、アンヌ・フランソワといい、シュリーの父、ジャン・デニ・ユステールのかつての妻である。アンヌはユステールと離婚後、莫大な慰謝料を手にしていたにも関わらず、数年で使い果たし、夜の仕事に身を投じていた。

 シュリーを探して聞き込みをしていたユステール社の古い社員が、たまたまアンヌの勤めている店にやってきたのだ。シュリーがピアノを弾いている店は、一般人には入りにくい場所にあった。アンヌはその店の新しいピアノ弾きの評判が高いことを聞いており、もしやと思って確認しにきたのだった。

 アンヌにはジャン・デニ・ユステールの下積み時代から会社を興すまでの、苦しいときを支えたのは自分であるという自負があった。結果、ブランドユステールは繁栄の道を歩み、成功者の妻という安泰を獲得したはずだった。生活はよくなり、できなかった贅沢を味わえるようになった。数々の社交の場に夫と共にでかけ、ユステールブランドに集まる名声や富を、まるで自分のものであるかのように感じていた。夫の気持ちが自分から離れつつあることなど考えもしなかった。気付いたときには、夫は外に女を作り、自分との間にはなかった子どもができたことを知る。自分の浮気は棚に上げて、プライドの高いアンヌには受け入れがたい状況が起こっていた。当然のことながら、アンヌにとってシュリーとは、自分の幸せを壊した象徴的な存在以外の何者でもない。憎しみは果てしない。

 アンヌは、シュリーを利用し、ユステールを脅迫しようと画策した。生きのびるために今やプライドもモラルも捨て去ったアンヌにとって、シュリーが目の前に居ることは天から与えられた恵みなのだ。息子がかつての妻の手元に捕らえられ、その手に染められたと知ったら、ユステールはどんな顔をするだろうか。想像しただけで笑いがこみあげ、復讐成功後の美酒に酔いしれたような快感が全身を満たす。久しぶりにアンヌは、生きる実感に包まれた。

 しかし、事態はアンヌの思う方向に進まなかった。最初はそれほど似ていないと思ったシュリーにユステールの面影を見るたび、かつての貧しくも美しい毎日を送っていた頃の思い出が蘇ってくる。それは、アンヌにとって自分自身が一番夫を愛し、努力していた時代でもあった。

シュリーは大人しくアンヌの言いつけを守り、逆らうことなくアンヌの部屋と酒場を行き来していた。日中、シュリーは古いアンヌの部屋を修理したり、アンヌのために料理をしたりして過ごした。一週間もたたぬうちに、暗く湿ったその部屋は、風通しのよい整頓された部屋に変わり、テーブルには花が飾られるようになった。どぎつい化粧をして年よりも老けて見えていたアンヌの外見にも変化が見られるようになった。

一方シュリーは、アンヌの部屋に寝泊りさせてもらえるようになり、酒場の隅の固いソファーで眠るよりも数段待遇がよくなったことに感謝さえし、アンヌに恩義を感じていた。アンヌの肌は女性というよりも、シュリーの知らない母親のような安心感を与え、家を出てからはじめて深く眠ることができた。

この時期の経験が、シュリーの感性に大きな影響を与えたことは間違いないだろう。それまで何不自由なく与えられるままに生きてきたシュリーにとって、同じ街にこのような厳しい場所があることを知り、自分の意志で渡りきらなければならない状況に追い込まれたことは、彼の表現に深みを与え、感性に磨きをかけるよい機会ともなった。

ある日、シュリーが目覚めると、アンヌの姿が見えなかった。自分よりも早く起きることは珍しい。シュリーはいつものように部屋を掃除し、昼食を用意してアンヌの帰りを待った。

アンヌはシュリーが酒場の仕事から帰っても戻っていなかった。その夜は眠らずにアンヌを待ちながら、その当時始めていた曲作りに集中した。

翌日の午前中のことだった。階段を上ってくる大きな足音がしたので、シュリーはアンヌが帰ってきたと思い、勢いよく扉を開けた。しかしそこに立っていたのは警察官だった。

「アンヌ・フランソワさんの家ですね。」

「はい。そうです。」

「失礼ですが、あなたは?」

 シュリーは答えに窮したが、親戚の者だと答えた。

「フランソワさんがセーヌ川で発見されました。」

 警察官はいかにも事務的な声で告げた。シュリーは聞き返した。

「他殺と自殺の両方から現在検視に回すところです。フランソワさん本人かどうか確認を願えますか。」

 シュリーは両足の力が抜け、その場に座り込んでいた。その後、どうやって警察までたどりついたか覚えていない。人は大きな衝撃を受けると、自分自身の意志を持つことができなくなり、外で起こる出来事を「ただ見る」ことしかできなくなることを知った。

 アンヌに関する聴取が終わった後、シュリーが通された部屋で待っていたのは、ユステー社の秘書と家の執事バルダだった。

「お父様が心配をしていらっしゃいます。」

 シュリーは自分の育ての親とも言えるバルダが現れたことで動揺した。

「なぜ、ここに居るのですか。」

 ジャックは言葉につまった。秘書もしばらく黙っていたが、意を決したように話し始めた。

「亡くなった、アンヌ・フランソワさんは、あなたのお父様の前の夫人でした。あなたが社長の息子であることを知って、社長を脅迫しに来たのです。」

 感覚が麻痺しすぎていたのか、シュリーはもう何を言われても驚かなかった。瞬きもせず秘書の顔を見つめていた。

「あなたを利用すれば、社長からお金を引き出すことができると考えたのです。あの方は先週、本社に姿を現しました。社長は不在だったので、私がお話を伺いました。もちろんあなたの安全が第一です。社長に要求をお伝えする約束をしてお帰りいただきました。」

「それが、なぜこんなことになるのです。」

 シュリーは目の前の秘書がフランソワの死について何かを知っているのではないかと疑った。

「わかりません。ただ、あの方はお金に困っていたのです。警察の話によれば、フランソワさんの勤めていた店は、違法な取引が行われるような場所だそうです。以前から警察も目をつけていたと先程聞きました。あの方もそういった危険な取引にまきこまれていたのかもしれません。」

 あくまでフランソワの死は自業自得とでもいいたげな秘書の冷たい言葉にシュリーは疑問と反発がこみあげてきた。

「さあ、一緒に帰りましょう。あそこは、あなたのような人が居るところではありません。これ以上、社長を悲しませないでください。」


 バルダに肩を支えられながら警察を出ると、そこには迎えの車が来ていた。運転手がドアを開け、シュリーに一礼をした。目礼を返したシュリーは車に乗り込むふりをすると、一瞬にして車のドアから身を翻し、全力で駆け出した。うしろからバルダの声と運転手が追ってくる足音が聞こえた。しかしシュリーは何度も何度も迷うほど路地を曲がって、ついに追手をまくと、雑然とした裏街の中に逃げ込んだ。

 シュリーはもう何もかもが信じられなくなっていた。父親に対する反発はこの時点で強い憎悪の感情に変化し、すべての元凶をそこに見出そうとしていた。シュリーは今までにない激しい感情をコントロールできずにいた。

 それまで酒場で弾いていたシュリーのピアノは、どこか行儀の良い品のよさが漂うことで、新鮮に感じる客と不満を表す客がいた。しかしその日からシュリーは変わった。酒の力を借りながら常に感情を露にし、激しいタッチで弾くことが多くなった。それが客に受け、シュリーのピアノを聴くことを目的に多くの客がやってくるようになった。外見からは少年らしさが消え、ほとんど笑うこともなく常に憂鬱そうな影が彼のオーラに混じるようになった。それが返って若い女性客の心をくすぐり、多くの女性客からシュリーは言い寄られるようになった。シュリーは気が向くとステージの後、そんな女性の相手をするようにもなった。

 ある日、黒いサングラスに黒い革の上下を身にまとった男性がステージの後、シュリーのところにやってきた。

「君、ロック音楽に興味はあるかい。」

 その男は英語で話しかけてきた。

「ロック?」

「そう。君のピアノは崩しているけど、クラシックがベースだろ。相当訓練してきた感じだね。」

 店ではシャンソン歌手の伴奏やジャズを中心に演奏をしていた。男の耳は正確だった。

「もうクラシックはやめました。今は自由に好きな曲だけを弾きたいんです。」

「じゃあさ、イギリスの有名なロックグループくらいなら知ってる?」

「ビートルズやストーンズですか。」

「そうそう。あまり好きじゃない?」

「そんなことはないですよ。少しは知っています。でもロックは歴史が浅いせいか、僕にとっては今ひとつ深みを感じられない。表現が単調です。それならジャズの方がいい。」

「確かにそうだね。ロックはこれからの音楽なんだよ。音楽史に革命をおこしつつあるのさ。」

「それが僕と何か関係あるんですか。」

「あーごめんごめん。これを聴いてみてくれないかな。」

 男は一本のカセットテープをシュリーに差し出した。

「何ですか。これは。」

「私が今プロデュースしているロックグループの一つなんだ。このバンドに新しいメンバーを入れたいと思っている。キーボードでね。できれば曲が作れるメンバーを。君、作曲はするの?」

 シュリーはフランソワの死以来、再び酒場の隅に寝泊りするようになり、ほとんど眠れない日が多かった。そんなときにはピアノを弾きながら、発表するあてもなく曲を作っていた。

「まあ。作ることもあります。」

「本当かい?来週もう一度来るから、ぜひ君の曲を聞かせてくれないかな。それまでにこのテープを聴いておいて。ね、頼んだよ。」

 男は強引にテープを押し付け、愉快そうに鼻歌交じりで酒場を後にした。


 シュリーは男の話にさして興味を感じなかった。しかし眠れない夜は長く、闇の中でカセットテープの存在感が大きく見えた。店には一台の埃がかぶったカセットテープデッキが置いてあった。シュリーは、テープをセットし再生ボタンを押してみた。ツインギター、ベース、ドラム、ボーカルのどれもが、大音量で激しい音楽を奏でていた。クラシックの楽器とは違い、電子楽器の金属音は、音量の大きさだけが取り柄であり、音楽の豊かさを表現するには物足りないとシュリーは思っていた。一つだけ、シンセサイザーには興味を持っていた。クラシックのピアノでは到底表現することのできない多種の音色を作り出せることは、電子的な音でありながらシュリーの好奇心を刺激したことがある。パリの街を恵子に案内したとき、発売されたばかりのシンセサイザー搭載のキーボードをプレゼントしてくれたことを思い出す。ほとんど触れなかった楽器はそのまま実家の部屋に置かれているだろう。

 しばらく聞いているうちに、シュリーはもしこの曲にピアノを足したらどうなるだろうか、と思いついた。そして、鍵盤に向かい、テープデッキから聴こえてくる音楽に合わせてアドリブで合わせてみた。何度か試してみると、意外に楽しいことがわかり、シュリーはテープに入っている曲のすべてにキーボードパートを付加した。


 男は一週間後に再びやってきた。

「どう?聴いてくれた?」

 クローズした店にはシュリーと男の二人だけが残った。

「ええ。聴きました。」

「どうだった?」

「確かにピアノなどのキーボードが入ることで音楽に厚みが出ると思います。」

「そうでしょ。その他の感想は?」

「ボーカルがもう少し繊細な方がいいと思いますけど。僕の好みもありますが。」

「なるほど。うまい奴なんだが、力みすぎているんだな。そうだ、君の曲を聞かせてくれない?」

 シュリーはピアノに向かうと、テープデッキの再生ボタンを押した。そして、この一週間で作り上げた、キーボードパートを曲に乗せて弾き始めた。ピアノが入ることで曲のイメージが大きく変化していることに男は驚いた。シュリーの技術の高さと、アレンジ力に男は舌を巻いた。

「君、すごいよ。このままレコーディングできそうなくらい完成度が高い。」

 男は大きな才能を発掘したことを確信した。シュリーは男の賛辞をそっちのけで、次に自分の作曲したものの中で特に気に入っている曲を弾き始めた。それは静かな美しい旋律のバラードだった。男は曲を聴きながら何か昔の思い出でも蘇ったのか、胸の奥底からこみあげてくるものをこらえきれなくなり、目頭を押さえた。

「君、ぜひ『ギアー』のキーボードとして参加してくれないか。」

「『ギアー』ですか?」

 一度も聴いたことのないグループ名だった。

「ロックミュージックは、イギリスから火がついて、今はアメリカ中心の時代を迎えている。僕はその両方で仕事をしてきたんだが、この間君が言ったみたいに、ロックはまだ成熟していないジャンルなんだ。いろいろな可能性を持っている音楽なんだよ。僕は新しい可能性を求めて、UKやアメリカ以外にも才能を求めた。『ギアー』は、ドイツとイギリス、そして君が入ればフランスと三つの国の融合グループになる。メンバーは必ずしもロック一筋でやってきた奴ばかりではない。多様性に富んだ新しい音楽をロックで作り上げたいんだ。」

 シュリーは熱く語る男のまだ名前も知らないことに気付いた。

「あなたの名前を教えてもらえますか。」

「やーすまない。まだ名乗っていなかったね。ジョージ・ラックスマンだよ。」

 ラックスマンはイギリスとアメリカで新人のアーチストを発掘し、次々とスターダムに押し上げてきた、敏腕と言われた名プロデューサーだった。もちろんシュリーは男の名前も、プロデューサーという仕事についてもこのときは知らなかった。

「僕はね、この新しい試みを成功させて、『ギアー』を世界で最も有名なグループにしたいのさ。世界ツアーをして最高の動員を挙げるつもりさ。」

「世界ツアー?」

「そう、ヨーロッパをはじめ、アメリカ、カナダ、オーストラリアといった国々を回ってね。」

 シュリーはその言葉に反応した。

「日本へは行きますか。」

「え?日本?そうか、忘れていたよ。アジアで最も経済発展している日本をね。もちろんさ、世界ツアーの最終地点が日本になるだろうね。なんといっても『日出づる国』だからね。」

 シュリーはその言葉に大きく心が動いた。

「どうだろう、明日にでも僕たちのグループを見に来てくれないか。善は急げ、だ。メンバーにさっきのアレンジを聴かせてやってほしいのさ。」


 ラックスマンはシュリーに約束を取り付けると、酒場を出て、数十メートル先に止まっていた一台の車に乗り込んだ。

「うまくいきそうですか。」

「いやあ、びっくりですね。彼は僕がスカウトしなかったとしても、いずれ音楽の世界でメジャーになる才能を持っていますよ。こちらの方が感謝しないと。」

 ラックスマンを車で待っていたのはユステール社の秘書、クレール・リヴォーだった。警察からシュリーを連れ帰るのに失敗した後、シュリーの居所を突き止め、シュリーを現在の場所から脱出させるため、ラックスマンに依頼した。ラックスマンはユステールブランドのショーで何度か音楽を担当したことがある。リヴォーは音楽の仕事ならばシュリーを動かすことができると考えた。たまたまラックスマンも『ギアー』のメンバー探しをしているところだったので、何度か酒場へ足を運び、シュリーの技量を確認してから『ギアー』のメンバーとしてスカウトする話を持ちかけたのだ。

「私は音楽のことはよくわからないが、社長は彼が小さい頃から音楽の道に進ませたかったようです。高等音楽院を勧めたのも社長だったようです。」

「そりゃすごい。最近はロックの世界でもクラシックの素養を持った優秀なアーチストが少しずつ増えていましてね。彼らのおかげでロック音楽の質が上がっている。アメリカでは楽器演奏の技量がないと通用しないのですよ。」

「しかし、彼はロック音楽に興味を持ちましたか。」

「これからでしょうね。しかし、アレンジ力と作曲の才能を両方持っている。ロックが好きか嫌いかは別として、音楽業界では通用するでしょう。」

「うまくいけば、こちらの全面的な協力は約束します。」

「それはありがたい話です。なんせ、アメリカの産業的なロック音楽と対抗していくには、スポンサーの力がどうしても必要なんです。ヨーロッパの一流ブランドがバックについてくれれば、イメージ戦略的にもうまくいく。これからのロックはビジュアルの時代ですからね。メディア露出度が高くなるでしょう。シュリーは文句なし、そちらの方面でも成功すると確信していますよ。」


 三日後、シュリーはラックスマンとともにロンドンに渡った。『ギアー』はデビューの準備をしながら、定期的にイギリスのライブハウスに出演していた。今回、シュリーが正式に入ることで、具体的なアルバム録音の予定が立った。

 メンバーはイギリス人が三名とドイツ人が二人で、リーダーはドラムのアレックスである。アレックスが最年長の二十三歳、その他のメンバーも二十歳以上の中で、シュリーだけが十代、最年少のメンバーとなった。

 メンバーの容貌やスタイルは、今まで見たことがないような独特のものだった。メンバーは皆、髪の色を青やピンクなど派手に染めている。自分も同じような格好をするのかと思うとシュリーは憂鬱になった。

 ラックスマンに紹介されたシュリーを、メンバーは冷たい視線で眺めただけだった。

「シュリー、この間のちょっと弾いてみて。」

 ピアノではなく、キーボードの前に座らされ、シュリーは戸惑った。楽器の操作盤をあれこれと試しながら、何とか音を決めると、ラックスマンに合図をした。ラックスマンの指示で全員の演奏が始まった。テープに入っていたデビュー予定曲だ。

 演奏が終わる頃にはメンバーのシュリーに対する見方は一八〇度変わっていた。ラックスマンも満足そうな笑みを浮かべていた。一人でピアノに向かうのとは全く違う楽しさがある。シュリーは初めて出会ったメンバーと一体感を持って演奏できたことに新鮮さを感じた。


 和也が寝返りをうって、左手がシュリーの膝に触れた。過去の回想から一旦引き戻され、和也の腕をそっとベッドに戻すと、毛布を掛け直した。

 常に過ぎ去った日々から目をそらして生きてきた。かといって未来に希望を持つこともなかった。自分自身から派生する関係性を断ち切ることと、なるべく新しい関係を築かないことに神経を使ってきたように思う。今回スティーブから依頼されたこととはいえ、偶然にも日本に再び来ることになり、あのたった三ヶ月足らずの間に、いずれほどくことになる課題を置き去りにしていたことを、シュリーは痛感した。

 列車は北へ向かいながらさらに濃い闇の中を進み続けた。


 デビュー後、ギアーの人気に火がつくまではさほどの期間を要しなかった。デビューアルバムは、シュリーの作った曲を中心に再構成し録音された。メンバーのスタイルは一新され、積極的にメディアに登場することにより、音楽の実力だけでなく、若者のファッションにも大きな影響を与えた。もちろんユステール社が全面的に関わっていたのである。最初、シュリーはそのことに気付かなかった。家を出る前のシュリーは、ブランド物を自ら選んで身につけるような年齢に達しておらず、ユステール社がどのようなファッションを発信しているかということについてどちらかというと疎かった。ギアーのスタイリストたちがユステール社から派遣されていることも、かなり後になってから知ることになる。

 メンバーの中で最も人気を博したのはシュリーだった。年齢が一番下であり、他のメンバーに比べるとまだ少年らしい初々しさが残っていたことも人気の一因だった。しかしシュリーは自分自身でも気付いていないカリスマ性を早い時期から発揮した。ルックスの点でも、フランス出身とされながら、実際は日本人の母の血筋を引いていることからも、純粋なフランス人にはない要素がその魅力を引き立てたのかもしれない。完全なブロンドではなく、栗色に近い髪色とブルーグリーンの瞳、父親譲りの端正な顔立ちの中に恵子から引き継いだ女性的な繊細さがある。そのままモデルとしても通用するほど均整の取れた体型や体質を天性のものとして備えていた。

しかし多くの女性ファンを惹きつけた理由は、育ちの良さからもたらされる品の良さの中に時折見せる翳りや憂いが、ギアーを支える若き天才アーチストの苦悩のようにも見え、女性の母性を大いにくすぐったからだという評論家の分析があった。

ギアーのほかのメンバーもシュリーに一目置き、尊敬するようになっていった。そのため人気の高いシュリーに対しやっかむ者はメンバーの中にはいなかった。それが返って、シュリーを取り巻く熱狂的なファンを過熱させ、シュリーを追い詰める結果にもなった。

デビューアルバムは全英第一位となり、ますます人気が高まっていった。一年後にはセカンドアルバムが発売され、すべてシュリーが手がけた楽曲によって構成された。ヨーロッパ各地でライブやコンサートを行い、いよいよアメリカへの進出が本格的になった。この頃には、ユステール社がギアーの宣伝のため全面的にバックアップをしていることが公にされた。ギアーを取り上げる雑誌などでは、シュリーがユステール社の御曹司であることを記事にし、音楽の才能、カリスマ性、家柄について誇大なイメージで書きたてられることが多くなった。シュリーは常に注目の的となり、さまざまな期待や要望に応えなければならなくなっていった。がんじがらめになっている自分に気付いた時には、すでにそこから抜け出せなくなっており、気を紛らわすために酒を飲み、薬に手を出すようになった。ワールドツアーが決定したのは、そんな絶頂期だったが、シュリーの精神状態が最も不安定な時期でもあった。ツアーはサードアルバムの発売と同時に始まり、アメリカからヨーロッパ、オーストラリア、そして日本を最終としてスケジュールが組まれた。

シュリーにとっては待ちに待った日本行きだったはずだが、ほとんど精神的に破綻しかけていたせいもあり、当初の目的は意識の中から薄れかけていた。

ツアーで日本にやってきたとき、シュリーは無意識のうちにメンバーたちと離れ、東京都内をさまよっていた。英次を見つけ出したときにもすぐには会わず、何日か遠くから観察しながら決心がつかずにいた。

ある日の夕方、レコード店に入っていく英次たちの姿を見た。シュリーはふらふらと店に近寄った。ギアーのサードアルバムがしばらく前に日本で発売され、ツアーのポスターとあわせてショーウィンドウに飾られていた。シュリーは店に入った。

「『ギアー』のサードアルバム『スノウデビル』だ。これ最高だぞ。」

 和也が熱弁をふるっている。

「また、始まった。和也は本当に『ギアー』が好きよね。」

「良子、これは絶対聴く価値ありだ。おまえも買ったほうがいいよ。」

「洋楽ってよくわからないのよねー。」

「ぜったいいいから、だまされたと思って聴いてみろよ。」

 二人のやりとりを英次は笑いながら聞いている。

「英次、お前もだぞ。今度の旅までには絶対買えよ。」

「なんで旅までに買わなきゃならないのよ。」

 良子が英次に代わって答える。

「まあ、お楽しみってところかな。なあ芦川。」

「だよなー。今度のフォックス探しの旅は楽しみだなー。」

 和也と芦川の二人だけが顔を見合わせながらうなずきあって納得している。二人は示し合わせて「ギアー」札幌公演のチケットを入手していたのだ。

 シュリーは彼らの背後から近づいた。そして、和也が持っていたアルバムを突然取り上げたのである。

「おい、なんだこいつ。」

 和也は背後から突然取り上げられたので、驚いて後ろを振り返った。そこには革の黒づくめの上下を身にまとい、黒いサングラスをかけた背の高い男が立っていた。無精ひげに長い髪を無造作に一まとめに結び上げている。この様子では誰もギアーのシュリー・ユステールだとは気付かないだろう。しかし外国人であることは一目でわかった。英次は和也を制して言った。

「このアルバムが欲しいのですか。こちらにもたくさんありますよ。」

 英次はいかにも優等生の生徒会長らしく丁寧な口調で言うと、レコードが並べられているラックを指し示した。シュリーは英次を真正面から見つめた。英次も見返したが、その間合いは初対面としては不躾なほど長く感じられ、英次は目を逸らした。

「アリガトウ。」

 シュリーは和也から取り上げたレコードを英次に押し付けるように返すと、そのまま踵を返してその場を離れ、店から出て行った。

 出会いは最悪だったが、その後、フォックス探しの旅の後を追いかけたシュリーを、仲間として受け入れてくれたのは和也がきっかけだった。その時点で和也は目の前にいる男がシュリーであることに気付いていた。「ギアー」のコンサートがシュリー抜きで行われ、北上しつつあることも新聞を読んで知っていたからだ。


 シュリーは再び寝入っている和也の横顔を見た。和也によって居場所を得たシュリーは、彼らと共にその後の人生に大きな影響を与える旅に出た。そして二十年以上もの月日が経とうとしているのに、その旅は終わらずに続いている。これほどまでにフォックスに惹かれ、この仲間たちとともにここにいるのはなぜなのか。今度こそその理由が明らかになるだろうか。そして少しは楽に生きられるようになるのだろうか。

 闇はいよいよ深くなり、列車は静寂につつまれながら北の星を目指して進んでいった。闇は時に安心感を与える。シュリーはただ闇に身をゆだね、鼓動のように規則正しく伝わってくる列車の振動を感じながら夢見ることなく深い眠りに落ちた。

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