第18話 翔子の思い
和也が入院してから二回目の週末を迎え、翔子は面会時間の開始から病院で過ごしていた。和也が記憶を失ったという事実は、彼女に想像以上の打撃を与えていた。シュリーとの一件以来、和也とまともに向き合うことはなくなっていたのだが、どこかで時間が経てば以前のような関係に戻ることができるという都合の良い楽観的な思いがあった。婚約を破棄するでもなく、式を延期することで時間稼ぎをしながら状況の変化を待っていたのだ。
和也の記憶が失われ、自分の心変わりを忘れて欲しいと祈っていたのは自分なのではないか。しかしそれは共有した時間が、和也の記憶とともに消し去られたことでもあり、日につれてその実感が増すにつれ、翔子の絶望感は募っていった。
「松田さん、僕はいつ回復するかわからない。だから婚約を解消して、あなたは自由になったほうがよいと思うのです。」
和也は前日の夜、突然言い出した。翔子はその言葉に悲しみよりも怒りを感じ、即座に否定した。和也はそれ以上何も言わなかったが、天井を見つめる彼の様子に、翔子は今までにない隔たりを感じずにはいられなかった。負けず嫌いの翔子は何事もなかったかのように今日も昼前からやってきた。和也の母と、翔子と同じ年の妹が翔子よりも早く来ていたせいもあってか、ふだん通りの様子で和也は翔子を迎え入れた。
「翔子さん、いつも申し訳ないですね。私たちがなかなか来られないものだから。」
和也の母は足腰が弱っていて毎日病院に来られないことを気にしていた。妹の志保は小学校の教員で、週末になると母を車に乗せ、二時間ほどかけて病院にやってきた。
「大丈夫ですよ。私も仕事が終わってからしか来られないのですが、午前中は英次さんも来てくれますし。」
「本当にあなたのような婚約者と友達にも恵まれて、この子は幸せですよ。」
「お兄ちゃん翔子さんに感謝しなさいよ。元気になったら恩返ししてあげないと。」
和也はあいまいな微笑を浮かべていた。もちろん家族も和也の記憶がなく、自分たちのことさえも覚えていないことを理解している。あえて普通に会話することで記憶の回復が促されることを信じ、自分たちの不安も消そうとしているのだろう。
「私、買い物に行ってきます。和也、あなたの好きな雑誌を買ってくるわね。何か他に欲しいものない?」
いずれ家族になるはずの二人に会うことは自分と和也のつながりを確認する機会ともなったが、昨夜の会話を思い出すとその場を取り繕って一緒に過ごすのは困難な気分だった。
「『ギアー』というグループのCDを一枚買って来てくれないか。」
「えー、お兄ちゃん、たくさん持ってるじゃない。言ってくれれば私も家から持ってきたのに。」
志保が口を挟む。志保も小さいときから兄の影響を受けて洋楽をよく聴いていた。
「わかったわ。この間発売になったばかりの『ギアー』のベスト盤を買ってくるわ。」
「へえ、ベスト盤なんて出たの。翔子ちゃん、詳しいのね。やっぱり兄貴の影響?」
「違うの。この春に『Fox Tail』が上演されて、『ギアー』の曲が注目されているのよ。だから人気便乗の『ベスト盤』発売だって同僚が言っていたわ。」
「そういえば、翔子ちゃんの出版社から出てる『エンターテイナー』の7月号でロックの80年代特集やっていたわね。」
「そうなの。私も一部担当したのよ。その時に少し『ギアー』のことを調べたりして。」
「読んだ読んだ。私はいまひとつビジュアルに走った『ギアー』って好きじゃなかったのよね。兄貴は信者みたいなものだったけど、私はもう少し後のメタル系が好きだったの。」
「まったくこの子はとんでもない格好をして外を歩いていたんですよ。鎖のような危ないものを腰に提げたりして。」
今度は志保の母が口を挟む。この母子は性格が良く似ている。そして明るく積極的なところは翔子との共通点でもあった。以前の和也ならこのあたりで二人をなだめるところだが、今は大人しく二人のパワーに圧倒されて、すっかり蚊帳の外である。翔子は思い出話に花を咲かせる二人から抜け出すように和也に合図を送ると病室を出た。
翔子は駅近くにできた大型の商業ビルに向かった。話題の店が多く入っていることもあり、開店間もない真新しいビルは大勢の人が買い物に来ていた。最近は和也との面会時間が終わってもまっすぐにマンションに帰らず、このような人の多いところで一人時間をつぶすことが多くなった。なぜか雑踏が心地よい。部屋に帰ると、現実が急に迫ってきて、気が滅入るのだ。実家からもしきりに式の延期に関する詮索の電話がかかってくる。今は和也の入院が口実になっているが、先への不安がぬぐえない。
CDショップはすぐに見つかった。店員に「ギアー」のベスト盤の場所を案内してもらう。80年代に発表されたアルバム3枚と「Fox Tail」のサウンドトラック、そして今回発売されたベスト盤が棚に並んでいた。ベスト盤のジャケットは「Fox Tail」のクリスタルFoxのデザインに似ていた。天に昇るFoxの場面が使われていた。「ギアー」の原曲と今回の舞台版アレンジの曲が2対1くらいの割合で収録されていた。
来日後もシュリーが舞台以外の仕事をしていることを知ってなぜか違和感を覚えた。自分の存在が与える影響を考え、英次のことを気遣ったため長年日本にやってこなかったシュリー。アメリカでは実名を伏せてはいても音楽というビジネスでは成功を収めている。そして今回も相当の決心をして来日したのだろうが、仕事だけは順調にこなしている。シュリーはなぜ再び日本に来ようと思ったのだろうか。翔子は華々しい経歴とシュリーの素顔の間にあるギャップを感じていた。そして、いつもの記者らしい好奇心に駆られる。
「それだけ、偶像が一人歩きしているってことだよ。」
数日前、似たようなことを話題にしたとき、山本は翔子にそんなことを話した。山本によれば、ロック音楽が政治的主張をした時代からビジネスへ移行する時代の狭間に「ギアー」は位置していたので、作為的な強調をしなければならなかったのだという。その最も象徴的な役割を果たしたのがシュリーだったのだ、と。翔子は山本の意見には同調しつつも、なぜか一人の人間としてのシュリーの行動や思考に思いをめぐらせてしまう。英次の兄であり、和也が敬愛するアーチストであることも間接的なきっかっけにはなったのだろうが、シュリーという対象を調べているうちにその思いは強くなっていた。
ベスト盤の解説を読みながら歩いていたので、前から近づいてくる人物に気付かずにいた。自動ドアの前まで来たとき、前をさえぎられ、思わず見上げた先にシュリーの顔があった。翔子は突然のことで言葉を発することができなかった。シュリーが見舞いに来ていることは知っていたが、翔子が来る時間とは重なることがなく、病院で会うのは初めてのことだった。3ヶ月ぶりの再会は突然で心の準備ができていない。翔子は手に持っているベスト盤のことを思い出し、思わず言い訳がましく言った。
「和也に買ってきてと言われたの。」
シュリーはその言葉を聞き流した様子だった。
「少しだけ、話したいのですが。」
日本語で話すシュリーの声は翔子が抱いている人間シュリーの優しさに近い印象を与えた。シュリーは相手の返事を待たず、踵を返すと元来た方向に歩き出した。翔子はただそれに従い、ついていくしかなかった。
病院の裏には小さな公園がある。天気の良い日には、和也もここまで散歩に出ることがあった。周囲に点在するケヤキは少しだけ色づいて、季節の変わり目であることを教えてくれた。シュリーは空に向かって勢いよく育ったケヤキの若木の近くまで来て向き直った。
「あなたにはとても失礼なことをしてしまった。本当に申し訳なかった。」
以前のような瞳の中のゆらぎは見えず、言葉には心から後悔しているという響きがこめられていた。
「カズヤのフィアンセだということを知っていたら、何も隠す必要はなかった。」
シュリーは幹に手を当てながら伸び上がる枝の先を見上げた。そのしなやかな肢体は、まるでケヤキに同化するように無駄がない。木の葉の隙間から差し込む光が頭上から栗色の頭髪をすべり落ち、彼の身体から放たれるオーラのように見えた。
(違う世界に住む存在…)
翔子は何度もこの言葉を繰り返し、自分を納得させようとしていた。だが、こうしてシュリーを目の前にしてしまうと、その言葉は無力であることが痛感される。
「昔から取材されることにあまりよい思い出がない。『ギアー』の時代は誤解されることが多かったものだから。」
翔子は同意するように黙ってうなずいた。
「日本にいる人たちを巻き込みたくないという気持ちがあって、アメリカでは極端に自分自身を隠し通していた。自分の存在を消したかった。特に父に知られたくないということもあってね。」
「ユステール氏に?」
翔子は「父」という言葉に思わず問いかけた。シュリーに興味を持った大きな要因が、父ユステールにあったからだ。
「父が真実を語らなかったことで、私は生前の母に息子として言いたかったことを伝えることができなかった。父はそれを埋め合わせるつもりで、『ギアー』を自分の財力と地位とをもって成功に導くのに一役買った。当時、私は具体的な内容は知らなかったが、しだいに父の『ギアー』に対する影響力の強さを感じるようになった。アメリカに渡ってからはっきりとその事実を知った。」
イギリスやアメリカが中心の当時の音楽業界の中で、実力があるとはいえ、その他の国から大物のロックグループを排出するにはまだ時期が早かった。そんな中で「ギアー」が世界的に売れたのには裏があった、と本人が告白しているのである。しかしこれに対して翔子は強く反論したくなった。
「ユステールブランドの力がいくら大きかったからといって、あなたの音楽がすばらしいものだということに変わりはないわ。」
シュリーは翔子の言葉の強さに少し驚いたようだが、微笑んで答えた。
「ありがとう。でも同じくらいの実力をもったグループは他にもたくさん存在していたのも事実です。当時私は父の影響力を煩わしいものとして拒否し続けた。アメリカで実名を伏せたのは、エイジたちに迷惑をかけたくないという思いが一番だったが、自分の力がどれほどのものなのか知りたいということもあった。」
「ユステール氏を恨んでいるの?」
「いや、今はそのような感情はない。ずいぶん前にこじれてしまった関係は修復の仕様がないけれども。そんなことよりも、あなたには迷惑をかけてしまった。本当に申し訳なかった。」
シュリーは深く頭を下げた。翔子はただ戸惑うだけで言葉を返すことができない。目の前のシュリーから伝わってくる誠実な言葉の響きが、非情にもあの時の言葉や表情の一つも本心ではなかったと告げているように聴こえる。
「もし、わたしが和也のフィアンセでなかったら…。」
翔子の問いかけに一番驚いたのは、翔子本人だったろう。しかしどうしても確かめずにはいられなかった。シュリーは顔を上げると翔子を見つめた。一瞬あの瞳の揺らぎが見えたような気がした。
「カズヤは私にとって最も大切なファンの一人であり友人です。彼の記憶が戻って何もかもが元に戻るように、私はできる限りのことをしたい。そしてあなたが再びカズヤとともに幸せな笑顔を見せることができるように。それを心から望みます。」
翔子は買い忘れたものがあると言って、シュリーと別れると元来た道を早歩きで引き返した。わかっていたことだったが、やはり気持ちが落ち込んだ。和也の記憶が失われたことと、どちらが重たいかといえば、もちろん答えははっきりしている。しかしこんなにもシュリーに対してこだわっていたことを知り、和也への後ろめたさがますます募った。
日曜の見舞い客が増えることを予想して、翔子は少し多めにケーキを買い込み、気分を整えながら和也の病室に戻った。案の定、来客が増えていた。シュリーの他に、高校時代の和也の同級生、安曇良子が来ていた。
「良子さん、こんにちは!」
翔子は気分が明るくなった。安曇良子は翔子の憧れの女性なのだ。
「翔子ちゃん、お久しぶり。お邪魔してまーす。」
良子はデザイナーとして活躍している。特に三十代を中心とした働く女性のためのファッションを手がけており、翔子のクロゼットは良子のブランドで埋め尽くされていた。
「和也ったら私に向かって何ていったと思う?『オバサンになったねー。』ですって。ひどいと思わない?」
良子が来たことで病室は一層明るさを増していた。しかしながら、ファッションのカリスマ相手に「オバサン」と言った和也も和也である。
「だって、翔子さんが見せてくれた写真は、良子さんがもっと若いときのものなんだよ。そのイメージしか頭にないんだからしょうがないでしょう。」
「だいったいお兄ちゃんはデリカシーがないのよ。昔から女性の気持ちがよくわかってないんだから。」
「そうだよ、和也。女性に向かって『オバサン』はないだろ。私の年になったって怒るね。」
和也は女性陣から総攻撃を受けている。後ろでシュリーはしのび笑いをしている。良子が突然シュリーの方に向き直った。
「ちょっとシュリー、何かいってよ。私、二十年前と比べるとどう変わったかしら?」
良子に突然ふられて、シュリーは一瞬目を丸くしたが、腕を組みなおして、良子の全身を上から下まで真面目な顔をして眺めた。側にいた翔子はまるで自分の身体を見られたように動悸が早まり、床に視線を落とした。
「リョウコは変わらない。ティーンエイジの時よりは女性らしさが増したけれども。」
女性陣は一斉に拍手をした。
「さすが、できる男は言う事が違うわー。」
志保は大きく肯きながら横目で兄を見る。
「うふふ。お上手ね。でも一番変わらないのは、シュリー、あなたね。」
二人の会話に意識を集中していたせいか、その声の微妙な変化に気付き、翔子は顔を上げた。さきほどの少女のようにやわらかい良子の笑顔が、見たことのない深い憂いを湛えた寂しげな表情に変化していた。ただ昔を懐かしむ思いだけではないと翔子は感じた。
「翔子ちゃん、このケーキ、人気パティシエのお店でしょ。おいしそうー。」
志保は翔子の提げている包みを見つけて歓声を挙げた。
「あ、そうなの。みんなで食べたいなと思って。」
翔子は我に返ってケーキの包みを両手で前に差し出した。
「やったー。私、お湯沸かしてくる。」
「私も手伝うわ。」
良子はいつもの口調に戻っていた。
「いいの、良子さんは兄貴と話してやって。昔のメンバーが集まるのってなかなかないでしょ。」
「ここに英次さんがいたら同窓会だね。」
和也の母が口を挟んだ。その言葉に一瞬病室が静まった。
「お母さん、余計なことを言わないの。ほら、お茶入れるの手伝って。」
志保は無理やり母親を連れて廊下に出て行った。
「英次君、今日は来ないよ。仕事だから。」
「わかっているわ。和也。」
翔子は会話を打ち切るように強く言い放った。
「翔子ちゃん、気にしないで。私ならもう気にしていないの。報告しようか迷ったけど、私再婚するかもしれないの。」
翔子は驚いて良子の顔を見つめた。
「相手は仕事上で知り合ったカメラマンで、価値観が同じ人。今はとても幸せよ。」
良子の声は事務的に付け加えたように翔子には聞こえた。
「おめでとう。リョウコ。」
シュリーはやさしい微笑みを浮かべながら良子を祝福した。
「おめでとうございます。良子さん。」
和也も声をかける。
しかし翔子だけは素直に祝福の言葉をかけることができなかった。英次の元から良子が去ったのは昨年の秋のことだ。和也と出会った頃、翔子はいつも和也から二人のことについて聞かされていた。二人の仲を修復しようと和也は必死だった。もちろん今の和也はそのことを思い出せない。そしてシュリーも目の前の良子が自分の弟の妻であったことをおそらく知らずにいるのだ。良子の寂しげな表情は、英次の兄であるシュリーに会ったからなのだろうか。良子は考え込んだが、すぐに気分を乱された。廊下で二人の母子が大声で話しながらこちらに帰ってくるのが聞こえたからだ。
「お待たせしましたー。翔子ちゃん、ケーキ皿とフォークね。」
「良子さん、ご結婚されるそうだよ。」
和也は屈託のない表情で妹に報告した。
「えっ、本当なの、良子さん。」
志保も翔子以上に驚いた様子だった。
「そうなの。来月、入籍予定なの。この年だから、式も二人だけで。ハワイでね。」
「えー、うらやましい。素敵ねー。お母さんハワイだって。」
「おまえも、早く相手を見つけて結婚してちょうだいよ。」
「うるさいなあ。お兄ちゃんより先に行ったら家が寂しくなると思って遠慮してるのよ。」
その場のちぐはぐな空気は、いつの間にか志保のペース乗せられ、再び病室は笑いに満たされた。
「翔子ちゃん、大丈夫なの。」
1階まで送りに来てくれた翔子に良子は尋ねた。
「大丈夫ですよー。最初は驚いたけれど、慣れてきちゃいました。和也の記憶が戻るのを気長に待ちます。」
翔子は笑顔を作ったが、不自然であることはすぐに見て取れた。
「ねえ、今晩時間ない?毎日、和也の看病だけじゃ疲れてしまうわ。話したいこともあるし、一緒にご飯食べようよ。」
良子も翔子に何か話したげな様子だった。
良子は昔から和也と気が合い仲も良く、フォックス探しの旅のときから二人で英次を支えるという共通した役割を意識して担っているようなところがあった。良子は英次とは愛情を育み、和也とは友情を交わした。そして三人には切っても切れない縁があると信じてきた。だが、英次と別れ、和也の記憶が失われたことで、昔の仲間と過ごした日々が遠く感じられる。新しい生活を始める転機と思うこともできたが、一抹の寂しさを感じていた。
「ぜひ、ご一緒させてください。私も相談に乗っていただきたいことがあって…。」
その夜、二人は銀座で待ち合わせ、和風懐石料理を食べながら打ち解けた時間を過ごした。
「翔子ちゃん、シュリーはだめよ。」
もの言いたげな翔子がなかなか相談事を切り出さないので、良子はずばりと言い切った。
「え、何で。」
あまりにもはっきりと言われたので、誤魔化すこともできず、翔子は箸を宙に止めたままになった。
「私もそうだったから。」
「良子さん…も?」
「一ヶ月くらい前かしら、和也から電話があって…。何かを相談したい様子だったけれど何も言わなかった。『翔子ちゃんと喧嘩でもしたの?』って聞いたら、慌てて否定してたわよ。これは何かあったな、と思って。」
和也と良子が気の置けない関係であることは、自分が付き合いだした当時から知っていた。翔子にも色恋抜きの男友達はいる。だから二人が自分の知らないところで話していても特に心配することはない。
「彼はやっぱり一言で言ってスターなのよ。女性の理想像の一つなんだと思う。」
卓上の皿には紅葉を飾った創作料理が盛り付けられていた。良子は日本酒を一口含むと、小さな声でおいしい、とつぶやいて切子のグラスをそっと置いた。
「シュリーは私が英次と暮らしていたことを知っているのかしら。きっとまだ知らないわよね。」
「おそらく…。」
「じゃ、もちろん私たちがなぜ別れたか、その理由も知らないわよね。」
和也にその理由をたずねたことがあった。しかし、和也は自分にもよくわからないと言った。
「二十年前のフォックスの旅でシュリーが合流したとき、私はとても嫌だったの。何を考えているのかわからなくて、英次を怒らせるようなことばかりする。でもいつの間にか私はシュリーから目が離せなくなっていた。好き、という感情なのかどうか、それさえよくわからないまま、彼に惹きつけられていたの。」
良子の言うことがとてもよく理解できる。自分もシュリーという人間はよく知らない。でも気持ちだけはシュリーの方向を向いてしまう。
「札幌のコンサートが終わったあと、シュリーは居なくなって、英次と和也と私の三人になったとき、正直言って本当にほっとしたのを覚えているわ。でも、彼は再び現れた。誰も予期しない時に突然、フォックスが現れたのと同時に。
そんな偶然性もあって、最初に惹きつけられたときよりも、彼の存在感が私の中で増してしまったの。もちろん表面上はそんな自分自身を否定して彼を避け続けたけれど。」
現在のシュリー以上に、あの頃は強く鋭くその分の魅力が外側にあふれ出していたように思う。高熱を出したシュリーを看病するために二人きりで小屋に残された日のことがよみがえる。
「シュリーは『お前は英次を支えきれるのか』と言ったの。」
熱で弱っているはずのシュリーは、傍で看病していた良子を引き寄せた。十七歳だった良子は驚いて逃れようともがいたが、シュリーの腕の中で無駄な抵抗だった。
「それって…。」
「私たちも英次もシュリーが本当はどういう人なのかを知らずに一緒に旅していたから。シュリーも孤独だったのだろうけれど、英次に対してもっと素直に接していれば、早くからよい関係を築けたはずなのにね。」
良子はシュリーが英次と浅からぬ縁で結ばれていることを当の英次よりも先に知った。いかにも子供っぽい嫉妬にすぎないのだが、当時のシュリーは孤独で愛情に飢えていたから、あのような表現しかできなかったのだと今なら理解できる。
「私も、シュリーにそう言われて、『英次のこと守ってみせる』なんて正義感を掲げたりして。シュリーに惹きつけられているのに、英次を守るために敵対をするなんて、笑ってしまうでしょ。若かったから純粋だったしね。
その後、私はシュリーのお父様のユステール先生のおかげでフランスへ留学することができたの。留学から帰って、英次と再会して、彼と付き合いだしたのは二十代の半ばだったわ。お互いに仕事が忙しくなってあまり会えない時期もあったけれど、それなりにうまくいってた。私には当時あまり結婚願望がなかったから、それほど深いところを探り合わなくてもバランスが取れていてちょうど良かったのかもしれないわね。」
翔子も二十代は仕事が楽しくて気付いた時には結婚適齢期といわれる平均年齢を過ぎていた。少し焦りを感じた頃、和也に出会ったのだ。
「数年が経過して、仕事が軌道に乗り始め、忙しさは増したけれど、気力も充実していたし、結婚してもいいかな、と思ったのよ。そんなときに英次からプロポーズされたの。このお店で。自分も周りも全く自然なこととして受け止めていたわ。だから最初はとても楽しかった。彼と一緒になって本当に良かったと思ったの。」
再婚するような話をしていたけれども、本当は英次への気持ちが強く残っているのはないか。だから今日この店に自分を連れてきたのではないだろうか。
「ある時、ユステール社から仕事のオファーがきて、私にとっては大きな仕事だったからどうしてもやりたかったの。英次に相談したら、快く長期の出張に送り出してくれたのだけど、パリで仕事をしているうちに体調に異変が起こって入院したのよ。子供が授かっていたの。でも無理しすぎて流産してしまった。」
初めて聞く話だった。和也は知っていたのだろうか。
「誰のせい、というわけでもないし、まだチャンスもあるのだから、そのことで関係が崩れてしまうとは思いもしなかった。でも、それ以来、英次が以前と変わったことは確かだったと思う。彼は仕事のストレスも重なってふさぎこむようになっていったの。」
あいつにはもっと違う仕事の方がいいんだ、と和也はよく言っていた。英次が何度か仕事を休み、軽い鬱症状と診断されていることも和也は心配していた。
「英次が珍しく酔って帰ってきた日の夜、今まで一度も聞かれたことのない質問をされたの。」
昼間、病室で見せたあの表情だった。
「『シュリーが生きてここに居たら、僕とシュリーのどちらを選ぶ?』」
今にも泣き出さんばかりの良子の表情を見て、未だにその言葉から受けた衝撃を完全に忘れていないことを翔子は了解した。
「結婚してからはもちろん、付き合いだしてから一度も私たちの間ではシュリーの話題は出なかった。意識して避けていたことは確かだったわ。私がユステール社とのつながりの中で仕事をしていることは英次も承知だったし、ユステール氏の話はしてもシュリーの話は全く出たことがなかった。私も、おそらく英次も、シュリーは『もはやこの世にいないのではないか』と思っていた。なのに、突然そんなこと聞かれて、私はその場で明確に答えることができなかったのよ。」
「仕方がないです。そんなこと突然聞かれても。」
「でしょ。」
良子は深くため息をついた。
「でも、言葉には出さないだけで、英次はずっと私がシュリーのことを忘れていないのではないか、とどこかで疑っていたのかもしれないわ。」
「英次さん、そんな人じゃないと思いますけど。」
人当たりの良い優しい英次の姿しか浮かんでこない。
「そうかもしれないわね。私の考えすぎかもしれない。でもその時以来お互いに会話することすらなくなっていった。だから私から家を出たの。」
良子の表情は今までになく憂いに満ちていた。
「英次は早くに両親を亡くして苦労も多かったけど、学生時代は本当にまっすぐで前向きで大きな夢を持つ人だった。確かにシュリーに気持ちがぐらついたこともあったけど、私たちの時間の長さに比べたら吹けば飛ぶような軽さだったはず。それなのにあんな質問されて、しかも笑って否定することすらできなくて、シュリーのことに蓋をして見ないふりをしてきたのが間違いだったのかもしれないわね。」
「今のお話を聞いていると、良子さんの問題というよりも、英次さんの心の問題だと私は思います。人の羨むものをすべて持っているようなシュリーが自分の肉親だと突然言われても、確かに受け入れられなかった若い頃の気持ちはよくわかります。でもそれを引きずって一番大切なものまで失ってしまうなんて。」
翔子は話しながら、自分の身を振り返っていた。和也は英次とは違い、一時的な気の迷いなど自分は気にしないと言ってくれた。それは英次と和也の性格の違いとも言えるが、実の兄であることと敬愛するアーチストでは存在のあり方自体が違っている。あれこれと思い巡らしているうちに、翔子はシュリーにこだわっている自分がばかばかしくなってきた。何が大切なのかということが冷静に見えてくる。
「私たちの関係はその程度のものだったってことなのよね。シュリーを持ち出されて動揺してしまう私も私。シュリーを避けて一番やりたいことから逃げ出した英次も英次。だからご破算になるしかなかったのよ。」
良子は酔いも手伝ってか、再び気分が落ち着いた様子である。
「翔子ちゃんが本気でシュリーのことを好きになったなら仕方がないけど、一時の感情ならば、だめよ、和也のことを手放しちゃ。」
「私、わかっているんです。和也の記憶が失われて、何が一番だったかということを思い知らされました。でもシュリーに会うと、落ち着かなくなって、さっきの良子さんの話の通りなんです。」
「本当に。シュリーは表舞台から身を引いたけど、そのまま活躍し続けていれば、私たちに関わることなんてなかったかもしれないのにね。」
「確かにそうですね。スターのままでいてくれれば、あこがれても誰も文句言わないですよね。」
「そうよ。今は日本に来て、英次や和也の傍にいるけれど、またいつか帰って行ってしまう存在。シュリーは。」
英次とのことを乗り越えて、再び幸せを掴もうとしている良子が、自分を励ましてくれていることに勇気付けられた。
「和也の記憶が戻るまで、ゆっくり考えるといいと思うわ。翔子ちゃんにとっての幸せが何なのかってことを。時にはしたたかになることも必要よ。」
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