1.31 思いがけない否定③
森の中の温泉は、当たり前だが凍ってはいなかった。
いつも通り服を脱ぎ、温泉の横にある崩れた壁の上に、トールを一番上にして服を置く。震えながら温泉に足を浸すサシャの、いつになく頼りない背を、トールは辺りを警戒しながら見守った。
温泉の周りは湯気で温かそうだが、少し離れた場所は、氷で白く染まっている。動くものは、サシャ以外に見えない。今のところ、サシャを害する気配は無い。そのことに、トールは正直ほっとしていた。……トールの世界の『幻影』が、見えないことにも。不意に目の端を通り過ぎた俯く喪服の人影を、トールは頭を強く横に振ることで追い払った。トール自身の所為で泣く人々の姿は、……見たくない。
[そういえば、さ、サシャ]
足だけを温泉につけ、水面を見つめるサシャに、声が出ないことを承知の上で明るい声を掛ける。
[ここは温泉だけど、古代人の神を奉る神殿とかもどっかにあるのか?]
トールが置かれている崩れた壁には、最初に見た時と同じ「エジプトの壁画のような」頭は動物で身体は人間である物体が複数描かれている。これらは、おそらく、快楽を優先してその身を滅ぼした、サシャが足を浸けている温泉を作った古代人が信奉していた神々、なのだろう。では、ここは神殿なのだろうか? トールの問いに、サシャは簡潔に答えてくれた。
「修道院の裏手、星の観測所に行く道の途中に遺跡があるよ」
その遺跡には、トールが置かれている崩れた壁に描かれたものと同じ、翼を持つが首から上が無い神や獣面人身の神々の像が、崩れた形のまま放置されている。明快なサシャの言葉に、トールは目を瞬かせた。そのような場所もあるのか、行ってみたい。無意識に出た言葉を、トールははっとして飲み込んだ。……当面の間、ここからは出られない。もしかしたら、一生。
その時。
「サシャ!」
聞き知った声と共に、大柄な影が、トールとサシャの間に割って入る。
「早まるなっ!」
その影の持ち主、アラン師匠が、裸のサシャをぎゅっと抱き締めたのが、トールの位置からでもはっきりと、見えた。
「森から出られなくて落ち込むのは分かる、サシャ」
アラン師匠の太い指が、戸惑うサシャの白い髪を撫でる。
「しかし自ら命を絶つのはダメだ。ユーグが悲しむ」
「あ、あの、アラン師匠……?」
「ユーグは俺が説得する。だから」
「あの」
少しだけ緩んだアランの太い腕の中から、サシャが小さく言葉を返す。
「僕は、その、身体を、洗いに来た、だけ、なのですが……」
「え?」
サシャの言葉に、今度はアランが言葉を失った。
「え?」
もう一度、サシャを見下ろしたアランがゆっくりと、サシャの裸の身体から腕を放す。先程までは確かに上気していたはずのアランの頬が、今はすっかり血の気を無くしてしまっている。そのギャップに、トールは思わず、腹を抱えて笑ってしまった。
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