1.30 思いがけない否定②

 森を貫く、凍った小道を、サシャの小さな足がとぼとぼと進む。


[温泉、行く許可が出て、良かったじゃないか]


 なるべく明るく話したつもりの、トールの言葉にも、小さく頷きを返すだけ。


〈まあ、しかたがない、よな〉


 現在、サシャが置かれている状況は、同情に値する。小さく揺れるサシャのエプロンの胸ポケットの中で、トールは大きく頷いた。


 サシャの叔父ユーグによって修道院へ行くことを、森から出ることを禁じられてから、三日経っている。修道院に現れないサシャを心配して森の聖堂を訪れたグイドにも、ユーグは「サシャはここから出さない」の一点張り。サシャを森に閉じ込める理由を、ユーグは全く口に出さなかった。


 理由が分からなければ、対処の仕様が無い。自分の唸り声を、自分で宥める。そのことはサシャも理解しているのだろう。何も言わず、謝るだけの叔父ユーグに、サシャは文句一つ言わなかった。それでも。


「リュカ、心配してるかな?」


 新しい友人の名を、サシャが小さく口にする。


「トールに教えてもらったふわふわのパンケーキ、焼いてあげたい」


 森の聖堂に閉じ込められていた三日の間、トールはサシャに、妹がしばしば作っていた卵白を泡立てて作るパンケーキの作成方法と、掛け算を足し算に変換する対数を用いた計算方法を教えた。形は違うが、この世界の数字は、トールの世界と同じ十進法に基づいている。計算も、主に暗算が主だが、星を観測し、暦を作る時に必要となるという理由で、この世界では重要視されているようだ。ゼロもあるし、小数や位取り、そして三角関数も、古代からきちんとした研究と実践が行われていると、修道院の図書室にあった本の中には記されていた。


「トールって、難しいこといっぱい知ってるんだね」


 対数を教えるために指数のことを話した時の、一瞬だけ明るくなったサシャの顔が、脳裏を過ぎる。トールが示した筆算や算盤の絵にも興味を示したサシャだったが、やはり、どんなにジルドにこき使われようとも、修道院で本を読んでいた方がサシャの気質に合っているらしい。


[お母さんの本は無いのか?]


 閉じ込められている三日の間に、トールは、森の聖堂にある本が、トール自身と、ユーグ叔父が持つ子供用の時祷書のみであることを知った。大学の先生であったトールの母は、自分の研究室にも、そして家にも、数え切れないほどたくさんの本を置いていた。この異世界では本は貴重品である。とはいえ、帝都の大学で勉強をしていたというサシャの母なら、その時に学んでいた物事に関する『本』を一冊は持っているのではないか。トールの問いに、サシャは悲しげに首を横に振った。


「分からない」


 サシャの母親が亡くなり、遺品を整理した際、どこを探しても、母が持っていたはずの本は見つからなかった。見つけたのは、あの、冬の国の人に渡した二つの釦のみ。


[ごめん、サシャ]


 小さく呟かれた、サシャの言葉に、謝罪の言葉を口にする。


「ううん」


 確かに母は、本を何冊か持っていたはず、なのに。耳にしたサシャの小さな言葉を、トールは小さく思い出していた。


 とにかく、ユーグがサシャを森に閉じ込める理由を探るのが先だ。気持ちを切り替えるために大きく頷く。そのためには、まず、ユーグの気持ちが和らぐのを、気長に待つ。それまでは、計算の話、特に対数の話と算盤の話でサシャの気を逸らしておこう。トールの世界でも、確か、地面に指で掘った溝に石を置いた算盤が古い時代からあったらしい。この場所には木があるから、ユーグの器用さがあれば、幼い頃に母方の祖父の家で見た、軸に珠が連なった算盤を作成することができるかもしれない。祖父が使っていた算盤の滑らかさを思い出し、トールはそっと涙を堪えた。母方の祖父母の家に暮らしていた時、祖父はトールに少しだけ、算盤の使い方を教えてくれた。母の仕事の都合で引っ越してからは、サッカーに夢中ですっかり忘れていたけど、今でも少しだけ、使い方は覚えている。それを、サシャに教えることができれば。


[大丈夫、頑張ろう]


 未だ俯いたままのサシャの胸の鼓動を聞きながら、トールは大きく頷いた。

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