1.9 朝の会話②

「サシャ! ユーグさーん!」


 不意に響いた、知らない低い声に、思わず身を震わせる。


「やっぱ居ないか。聖堂かな?」


 首を伸ばし、下を見ると、開け放たれた玄関扉の横の壁に細い影が淡く映っていた。


「遅かったですね、グイド」


 誰だろう? トールが首を傾げる前に、サシャの叔父ユーグの声がトールの耳に響く。


「院長先生のお加減が悪かったのですか」


 部屋に入ってきたもう一つの細い影に、最初の、小さい方の影が首を振るのが見えた。


「伯父……あ、違った、院長先生が寝坊しただけなのに、ジルドの奴、じゃなくってジルド師匠が騒ぎ立てて」


「それは災難でしたね」


 明らかに怒っている声に、小さな腹の虫が混じったのが、トールの耳にまで聞こえてくる。


「卵はサシャが集め終わっていますから、何かお腹に溜まるものを作りましょう」


「あー、助かるー」


 カシャカシャと、何かを混ぜる音の後から、香ばしい匂いがトールの鼻をくすぐる。これは、……パンケーキだ。都会に憧れる妹の光が良く作っていたから、間違いない。鼻をひくつかせ、トールは小さく肩を竦めた。卵白を泡立てて生地を作ったり、餅を牛乳に浸してボリュームを増やしたり。妹が、本やインターネットから拾ってきたレシピで作っていたパンケーキの殆どは、焦げた味しかしなかったように、思う。


「サシャは?」


 思い出を何とか振り払うトールの目の端で、小さい方の影が、首を傾げる。


「聖堂の掃除をしていますよ」


 パンケーキをフライパンから皿へと移す音を、トールは小さく確かめた。


「全く」


 パンケーキを頬張りながら毒づく、グイドという名の影が発する言葉も。


「ジルドの奴、伯父上の後釜に座ることしか頭に無いんだから。居候でしかないアラン師匠までこき使ってるし」


 サシャが通っているあの修道院の責任者、修道院長は、現在、慢性的な病気で伏せっている。グイドは、その院長の甥であり、院長の世話をするために生まれ故郷である夏炉の国からこの北向の国の辺境に来ている、修道士になるための修行をしている『修練士』。食べながら喋るグイドと、そのグイドに一言だけの相槌を打つユーグの会話から、何とかそれだけを把握する。


夏炉かろの政情が安定して、転地ができれば良いのですが」


「無理無理」


 寒い北辺の地ではなく、温かい場所で療養した方が院長の身体にも良い。ユーグの言葉に、グイドの影が首を横に振る。


「混乱していない夏炉なんて、夏炉じゃない」


 どこの世界も大変なんだな。肩を竦めたグイドの影に、トールもふうと息を吐く。パンケーキを食べ終わったのか、グイドの影が立ち上がるのが見えた。


「卵や細工物も、サシャが修道院まで届けることができれば、あなたの負担が減るのですが」


「あー、それも思うだけ無駄」


 溜息のようなユーグの言葉に、グイドの影が今度は大きく首を横に振る。


「あのテオって奴、隙あらばサシャを傷付けようとする輩だし」


 昔手酷く振られた恋人に似てるからって、他人であるサシャを虐めるなんて。テオを心から馬鹿にしたグイドの声に、昨夕サシャを睨んだ面頬の奥の瞳を思い出す。あの瞳の色は、確かに、サシャを憎んでいる感じだった。背筋の震えに、首を横に振る。今のトールで、あの瞳の色から、サシャを守り通すことができるのか? 自分が『本』であることが、……悔しい。トールは思わず唇を噛み締めた。


「テオもテオだけど、ジルドもサシャをこき使いすぎだよ」


 そのトールの耳に、グイドの、怒りと呆れに満ちた声が響く。


「ジルドの奴、サシャを修練士にするつもり無いんだろ?」


「サシャが、エリゼと同じ道を行きたいと思うのなら、下人げにんのままの方が、修練士になって修道会の規則に縛られるよりは良いと思いますよ」


「うーん」


 そのグイドを宥めるユーグの理知的な言葉に、トールも小さく唸った。ユーグは、サシャの将来をしっかりと考えている。


 その時。


「あ、グイド」


 聖堂の掃除が終わったのか、サシャの明るい声が、トールの耳に届く。


「卵と、叔父上の細工物は、そこの棚の上にあるよ」


「おう。ありがとな」


 そう言って笑うグイドの声に、再びの腹の虫が混じる。


「まだ、足りませんでしたか?」


「サシャの腹の虫じゃないのか?」


 心配するユーグの声に、グイドの笑い声が大きくなる。


「違うと思う」


 小さく首を振ったサシャの声に、トールも思わず笑顔になった。


「ところで、サシャ」


 笑い声の後に、グイドがサシャに問う声が響く。


「昨日、ジルドの奴、じゃなくって、ジルド師匠とアラン師匠から『祈祷書』をもらったんだって?」


「あ、うん」


 ちょっと待ってね。その言葉のすぐ後に、サシャの白い顔が、トールの目の前に現れる。


「おはよう」


 トールを見てにっこりと笑ったサシャは、挨拶を返そうとするトールを片手でしっかりと掴むと同時に素早く梯子を下りた。


「これ」


 トールの視界に、浅黒い肌と敏捷そうな瞳が大写しになる。


「お」


 こいつが、グイド。トールのページを捲るしっかりとした指に繋がる影を、トールは子細に観察した。細いが、サシャよりもしっかりとした体型をしている。サッカークラブに誘えば、小野寺と同じように相手の隙を突いてゴールを決めてくれそうだ。


「これ、本物の『祈祷書』じゃないか!」


 グイドは、悪い奴には見えない。トールがそう判断すると同時に、驚いた顔のグイドがサシャにトールを返す。


「ジルドの奴、よくサシャにこれ渡したな」


「師匠のことを悪く言ってはいけませんよ、グイド」


「はいはい」


 窘めるユーグの言葉に、グイドはばつが悪そうに肩を竦めた。


「でも、これ、どう見たって、普通の『祈祷書』だよな。修道士が持ってる」


 サシャの手の中に戻ったトールを、グイドの太い指がなぞる。


「図書室に置いてあったって、アラン師匠から聞いてるけど」


「はい」


「『星読ほしよみ』の奴らが忘れていったとか?」


「でも、誰の名前も、書かれてないのですが」


 疑問を発したグイドに、サシャはトールの裏表紙を開いて見せた。


「確かに」


「これ、本当に、もらっておいて良いのでしょうか」


 頷いたグイドに、今度はサシャが問いを発する。


「良いんじゃないのか?」


 サシャの問いに、グイドはにやりとした笑いを返した。


「名前、書いてないんだし、アラン師匠が『良い』って言ったんだろ?」


「はい」


「だったら」


 躊躇いを見せるサシャの肩に、ユーグが手を置く。


「その『祈祷書』は、あなたのものですよ、サシャ」


 早く帰らないと、ジルド師匠に怒られるのではないですか。あくまで冷静なユーグの言葉に、にやりとした顔のままのグイドが綺麗に編まれた籠に手を伸ばす。


「それじゃ、また明日」


 細い手足に違わず敏捷に部屋を去るグイドの影に、トールはほっと息を吐いた。

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