1.4 荒れ野を帰る②

 サシャの横の枯れ草が、大きく揺れる。


「あっ!」


 枯れ草の間から飛び出してきた細い影を確認する間も無く、サシャはトールをぎゅっと抱き締め、荒野を蹴って走り出した。


 だが。サシャの足より、細い影の方が素早い。サシャの前に回り込み、通せんぼをするように両腕を横に伸ばした細い影に、サシャの足は急ブレーキを踏んだ。


 サシャの腕の間から垣間見える、鉄の面――おそらく、戦国時代の資料に出ていた『面頬』というものだろう――で顔を隠した細い影の暗さに、戦慄が走る。しかしトールの背が震えるよりも早く、サシャは止めたはずの足を横に伸ばし、身を屈めて細い影の脇を走り抜けた。


[サシャ!]


 サッカーの試合で、三人いたガードを身を捻ってかわしゴールを決めた小野寺おのでら以上に、敏捷。サシャの素早さに、驚嘆する。しかし敵も然る者。無理な動作にバランスを崩したサシャに、細い影が素早く手を伸ばす。更に身を屈めることで敵の腕をかわすと、サシャは細い影の足を蹴り、細い影が怯んだ瞬間に森への道を一目散に駆け抜けた。


[サシャ!]


 森へ駆け込んだ途端、木の根に足を取られて地面に倒れたサシャに、思わず叫ぶ。


[大丈夫か?]


 トール自身も木々の間に転がってしまったが、『本』なので痛さは感じていない。それよりも、あの襲撃者は? 焦りのままに、木々の向こうを見透かす。


[サシャ! あれ!]


 森の手前で立ち止まっている細い影に、トールは思わず声を上げた。


「大丈夫」


 そのトールに、起き上がったサシャが僅かに微笑む。


「テオは、この森には入れない」


 サシャの言葉通り、トールが見ている前で、立ち止まったままの細い影が諦めたように踵を返す。


 とにかく、サシャが無事で良かった。トールはほっと息を吐いた。


 その時。


[……え?]


 サシャの横に見えた、見知った二つの背に、鼓動が一瞬だけ止まる。この背中は、知っている。『小野寺』と、『伊藤いとう』。二人とも、トールがあの町に引っ越してきた時に知り合った、掛け替えのない、存在。その二人が『見えた』だけなら、トールもここまでは驚かなかっただろう。しかし、トールに見えていたその二つの影は、確かに、手を繋いで歩いていた。二人で肩を並べて歩くことはあったが、小野寺と伊藤は、手を繋いで歩くことはトールが知る限り無かった、はず、なのに。泣きそうな感情が、胸に広がる。互いに好意を寄せているのに、その好意を相手に伝えることができなかった伊藤の背中を押したのは、トール自身。その結果だと分かっていても、……悲しい。


「トール?」


 トールを見下ろす紅い瞳に、はっと意識が切り替わる。


 いつの間にか、親密な二人は、トールの視界から消えていた。


「大丈夫?」


[ああ]


 サシャの声に、何とか頷く。


[サシャこそ、怪我は無いか?]


「うん……」


 トールの言葉に、サシャが両手を見つめる。


「手、すりむいちゃった」


 トールを掴むと、血で汚れてしまう。数秒考え込んだサシャは、しかしすぐにエプロンの裾についた土を払うと、そのエプロンでトールを包み込んだ。


「これで良し、っと」


 灰色のエプロンの端でトールを拭き、微笑むサシャに、尋ねる。


[あいつ、どうしてサシャを襲ったんだ?]


「分からない」


 トールの問いに、サシャは小さく首を横に振った。


 あの、面頬で顔を隠した細い影の名は、テオフィロ。この前の夏に、先程トールが見た『砦』に配属された下級兵士。独り言のように、サシャが呟く。三日に一度の割合で、サシャが修道院へ向かう朝、または先程のように帰り道を狙って、嫌がらせのようにサシャを襲ってくる。修道院の院長の世話をしているグイドという名の修練士に逃げる術を教わり、またアラン師匠が再三砦に申し入れを行っているにもかかわらず、テオの嫌がらせは一向に止む気配は無い。


「テオの嫌がらせは、嫌だけど」


 トールを見下ろしたサシャが、小さく首を振る。


「でも、……勉強したいから」


 修道院の手伝いの合間に勉学を続けていれば、北向きたむくの都で勉学ができる修道院の推薦をもらうことができるかもしれない。母と同じように、勉学ができる大人になりたい。だから、頑張る。小さくも力強いサシャの言葉に、心が熱くなる。勉強がしたい、知識を得たい、母や父と同じような大人になりたい。トール自身も、同じ気持ちを、確かに持っていた。


 だから。


[そうか]


 『人』の姿をしていたなら、サシャをぎゅっと抱き締めていただろう。万感の思いで、頷く。


[頑張ってるんだな]


「う、……ん」


 サシャの瞳から零れ落ちた涙が、トールの表紙を濡らした。


「あ」


 少しだけ汚れた袖で自分の頬を拭ったサシャが、同じ袖でトールを拭う。


「ごめんなさい。濡らしちゃった」


[良いって]


 再び、袖で頬を拭ったサシャに、トールは大きく微笑んだ。


[サシャの夢、手伝いたい]


 俺に手伝えることがあったら、言ってくれ。想いをそのまま、表紙に浮かべる。


「ありがとう」


 もう一度、袖でトールを拭き、サシャも小さく、微笑んだ。


 そして。


[……あ]


 トールを抱きかかえて立ち上がったサシャに、小さく尋ねる。


[もう一個、聞いて良いか?]


「良いよ」


 更に赤くなった紅い瞳を、サシャはトールに向けた。


[あいつ、なんで森に入らなかったんだ?]


「この森では、悪いことを企んでいる人は悪い幻覚を見るんだって」


 だが。静かな木々の間に響いたサシャの声に、身体が固まる。自分は、確かに、……小野寺のことを。


「この森にある、古代人の遺跡の所為だって、アラン師匠が教えてくれたけど。……どうしたの? トール?」


[あ、ああ、……別に]


 首を傾げるサシャに、何とか頷きを返す。


[それより、早く帰った方が良いんじゃないか?]


 木々の隙間に見える空は、一層、暗みを増している。


「あ、そうだね」


 トールの言葉にサシャは小さく微笑むと、エプロンごとトールを胸に抱き締め、森の中の家路を急いだ。

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