第2話 静かな部屋
記憶障害の患者には、個人情報をあまり伝えずに、少しずつ思い出せるよう情報を小出しにするやり方もあるらしい。しかし早いこと記憶を取り戻したかったので、今知っている情報をなんでもいいから教えてくれるように頼み込んだ。先生も思案したようだが、変に隠すのは逆にストレスを貯めてしまうと思ったのだろう、知っている情報を教えてくれた。
名前は
「とりあえず今こちらが、把握していることは以上です。」
「ああ、ありがとう先生。ただ教えてもらっといて悪いんだが、全く思い出せねえな。唯一覚えていたのは、俺が年寄りだってことぐらいだな。」
「代理人を立てて、もっと詳しい情報を役所から集めましょうか?」
「頼むよ。洗いざらい調べてくれて構わない。」
「それでは後で、必要な書類にサイン等してもらう必要があると思いますので、お願いしますね。」
「悪いね、忙しいだろうに面倒かけちまって。」
「いえいえ、もどかしさもあると思いますが、焦らずにじっくりと頑張っていきましょう。」
先生は優しい口調で、そう言った。
「それでは検査の準備等ありますので、私は一旦失礼しますね。」
先生は、部屋を出ていった。
「私も一度失礼します。なにかあったら、ナースコールを押してくれれば、すぐに来ますので。」
看護士の高橋さんも部屋を出ていこうとした。
「あ、高橋さん。」
高橋さんは立ち止まらない。
「高橋さん!」
「あっ、すいません。どうしました?」
「すまんすまん、耳の穴がこそばゆくてね。後でで構わないから、綿棒を持ってきてもらえるかい?」
「綿棒ですね、すぐ持ってきますよ。」
「悪いね、ありがとう。」
高橋さんは部屋を出ていき、ドアが閉まった。
部屋に一人になった。静けさとともに孤独感が襲ってくる。未だに自分の記憶が無くなってしまっていることに、もどかしさと気持ち悪さを感じる。今の私は74歳。人の74年分の記憶なんて、たくさんの出来事が詰まっているに決まっている。一人暮らしだったようだが、独身だったのだろうか。そういう情報は、近いうちに役所に代理人が行けば知ることができるだろう。もし結婚していたのだとしたら、俺は愛していた人のことも忘れていることになる。
(辛い。俺は、生きてるうちに記憶を取り戻すことができるのだろうか。)
そう思った途端、とてつもない恐怖感が襲ってきた。今が74歳だとすれば、俺の命は残り短い。平均寿命なんかを考えれば、残り10年程度。もっと短い可能性もある。
(誰を愛したのか、自分が何に喜んで、何に悲しんだのか…。わからずに死んていくのか…。)
背筋が凍る思いがした。思い出せないなんて、俺の人生は何だったんだ。そんなに無意味なものだったのか。身寄りも今のところ見つかっていないと、先生は言っていた。つまりは俺がこんな状態になって、心配して駆けつけてくれる人が居ないってことだ。一人も。そう、一人も居ないってことだ。
(そんな人生、思い出す必要なんて……。)
そのとき、病室のドアが開き高橋さんが綿棒を持って戻ってきた。
「栗原さん、大丈夫ですか?」
「ん、ああ、なんでもない。さすがに今の状況に戸惑っててね。」
「そうですか…。先生も言ってましたが、焦る必要はないと思います。。」
「そうだな、けどそうは言ってもな。老い先短い身なもんだから、全く焦らないって言われたら嘘になるな…。」
うなだれる私に、高橋さんが言う。
「…記憶がもしですよ、もし戻らなかったとしても、それが原因で残りの人生を悲観する必要って無いと思うんです。栗原さんが、これからの人生を最高に楽しんで、もちろん記憶が戻るのが一番いいのかもしれませんけど…。ああもう、よくわかりませんけど人生これからですよ!」
「その励まし方って、看護士的にはどうなんだろう?」
そう言うと、高橋さんは少し顔を赤くした。
「いいんです。人生楽しんだもん勝ちです!」
なぜか胸を張って言っている。良いおっぱいだ。
「なんだかよくわからんけど、元気出たよ。ありがとう。そうだな、人生楽しんだもん勝ちだよな。まぁ記憶は思い出せるに越したことはないが、思い出せたらさらにラッキーって感じで、余生を謳歌していきたいもんだ。」
「そう、その意気です。」
「高橋さんって、看護士っぽくないって言われない?」
「よくわかりますね。」
「誰でもわかると思うよ。」
高橋さんは、頬をプクッと膨らませた。あざと可愛いもんだ。
「楽しい新しい人生の門出を祝って、私が膝枕で耳かきしてあげましょうか?」
「えっ?!」
「嘘ですよ。それだけ大きな声が出てれば、体調はもうバッチリですね。」
「あんまり老体をからかわんでくれよ。びっくりして死ぬかと思った。」
「そんなこと言ってる人は大丈夫ですよ。さあ、私はそろそろ行きますんで何かあったら呼んでくださいね。」
「ああ、ありがとう。」
「多分検査は午後からなので、午前中はゆっくりとしていてください。テレビでも点けます?」
「いやいいよ、この部屋の静かな感じは好きだからね。」
「静かなのが好きなら、もう少しおしとやかに話しましょうか?」
「できるの?」
「無理ですね!」
そう言うと、笑顔で高橋さんは病室を出ていった。耳かきはしてくれなかった。
高橋さんが出ていった後の病室は静けさを取り戻し、さっきまで暗く見えていた部屋は、太陽が高くなってきたのか明るくて温かい感じがした。
記憶喪失ライフ 伊介弥太郎 @isukeyatarou
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