佇むおんな
青瓢箪
佇むおんな
そのおんな。
正三郎は足を止めて、山桜の下に佇む着物姿のおんなを焦点を定めずに眺めた。
春の宵。
目の前に横たわる隅田川には酔ったような生温い風が吹いていて、川面には向こう岸の明かりが映り込みゆらゆらとしている。
春宵一刻値千金。花の下で酒の一杯でも呑みたくなる夢のような景色だが、おんなの佇むその周りだけが全く別の風景のような気がして、正三郎は背筋に冷たいものが走った。
この世の者では無い。
その予感は今まで幾度も感じたものである。
正三郎は再び茶屋である竹屋に向かって歩み始めた。
竹屋からもれる橙色の灯りは温かく、現世がうつつのものであると感じさせ、正三郎を安心させた。
竹屋に行くにはそのおんなの前を通らねばならない。正三郎は頰を強張らせながらもそのおんなに近づいた。
この世の者ではない者に近づくときは正三郎はいつも首筋がひやりとする。しかし、相手が正三郎に何かをすることはなく、正三郎も相手のそばを通り過ぎるだけである。正三郎はただ見えるだけであり、相手はただ存在しているだけだ。この先もそうなのだろう。なら何故自分だけにそのようなものが見えるのかと正三郎は思う。
おんなは俯いているだけである。
正三郎はおんなの姿を見ないようにして前を通り過ぎた。おんなが顔をあげてこちらを見た気配はなかった。
竹屋の前でこっちを見ていた店の女が正三郎に声をかけた。
「酒かい、茶かい」
「蒟蒻くれ」
答えて、正三郎は茶屋に入ると長椅子に腰を下ろし、背の荷物を下ろす。
深くため息をつき、被っていた鳥打帽をとり、首を曲げて右手で首筋と肩を揉んだ。
左手に代えて右肩を揉んでいると、味噌をつけた温かな蒟蒻を茶屋の女が運んできた。
首が前に出た背の曲がりかけた女は老いており、正三郎は実家の母を少し思い出した。
「あんた、おんなが見えてるんだろ」
竹串に刺さった蒟蒻を食んだ途端、目の前の老婆が発した問いに正三郎は目を泳がせ、老婆に視線を止めて頷いた。
「見ていて分かったよ。たまに見える奴がいるんだ。幽霊おんなをね」
老婆は笑い声を立てると、正三郎の向かいの長椅子に座った。
「毎年、花の咲く時期だけ、あのおんなが出てくるんだ。私が子どもの頃から居るよ。柳の下じゃないんだねえ」
「なんで」
「さあ、幽霊の考えることなんざ私にはわからないよ。この世に恨みでもあるのかねえ。俯いてせっかくの花も見ずに。花見のために化けて出たわけじゃあないね」
老婆は次に来た客の相手をしに、ゆっくりと立ち上がった。
正三郎は蒟蒻の歯ごたえと味噌の風味を味わいながら、眼前の隅田川を眺めた。
「ご馳走さん。美味かった」
金を払い、再び鳥打帽を頭に乗せ、風呂敷に包んだ荷を背負うと正三郎は立ち上がった。
おんなはまだそこに居た。
正三郎は先程のような悪寒は感じずにいたが、流石におんなをじっくりと眺めることはできず、行きのようにおんなの前を通り過ぎた。
隅田川の渡しに向かって土手を下りる。
ガス燈の下を歩いたとき、正三郎はふいに笑みがこみ上げた。
あのおんなは、これからも花が咲くたびに現れては佇むのだろうか。
天下泰平の江戸が終わり、文明開化のこの時代に。
目まぐるしく変わる世の中に、正三郎はのみこまれ、眩暈を起こすように感じることがある。水面で口をぱくぱくと開ける金魚のようにたまに息苦しくなる。
変わらないものもあれば、いい。
あのおんなは時代の移り変わりを見ることなく俯いたまま、現れては消え、現れては消えるのだろう。
来年も、確かめに来よう。
正三郎は下手くそな口笛を吹きながら、草履の下のごろごろした道を歩き、星の瞬きはじめた空を鳥打帽から仰ぎ見た。
川から吹く風は柔らかく心地よかった。
佇むおんな 青瓢箪 @aobyotan
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