緒賀半島【三題噺集】

緒賀けゐす

ジャックと鯉のぼり

 今回のお題

「プリン」:trim(@t_hirosaki)さんから

「巨人」:シャル819(@char819、カクヨム名義:シャル青井)さんから

「錦鯉」:みなみ(@hitoriboch000)さんから



 ――――――――――――――――――――



 昔、ある国のある農家の息子にジャックという少年がおりました。母と二人暮らしのジャックの家は決して裕福ではなく、その日食べるものくらいはどうにかやっていけるという、まぁそんな具合の家庭でございました。


 さてさてある日、ジャックの母親はジャックに牝牛を市場に売ってくるように仕事を頼まれました。その牝牛はジャックの家にいる唯一の牛であり、その乳はジャック達にとって貴重な動物性タンパク質です。しかしもうすっかり年老いてしまい、子も生めず乳も出なくなってしまったので、草を食ませても草が無くなるだけとなってしまいました。ジャックはその牝牛に対しそれなりの愛着を持っていたのですが、それ以上にお金が必要なことを理解しておりました。


 こうして頼まれた翌日、ジャックは牝牛を連れて街の市場へと出向き、牝牛を売ってきました。袋に入ったお金は、ちゃらちゃらと軽い音を鳴らします。牝牛と暮らしてきた日々を思うと、随分軽くなってしまったなぁとジャックは思いました。


 すると街からの帰り道の途中、ジャックの行く先で男が背中を丸めて座っておりました。その男はみすぼらしい見た目でした。伸ばしたままの無精髭、煤の付いて汚れた衣服、そして被っていた赤い帽子には、「C」のロゴが刺繍されておりました。


「かーっ! ダメだね今年は! 全っ然だな!」


 抜けた前歯を露わにし、男はげらげらと自嘲気味に笑います。手に持った酒の瓶には“ワンカップオーゼキ”の文字。それをぐっとあおっては、ゲホゲホとむせているのか笑っているのか分からない咳をします。


「大丈夫ですか? おじさん」


 気が付くと、ジャックはその男に話し掛けておりました。


「あぁ!? これ見てどこが大丈夫だってんでい……ヒック」


 男はしゃっくり混じりで返すと、自身の後ろに停めてある荷車を指差しました。


「錦鯉が売れねぇんだ錦鯉が!」

「ニシキゴイ?」


 聞き慣れぬ単語に、ジャックは首を傾げます。


「錦鯉ってのは、綺麗な見た目した鯉のことだ」


 なるほど、鯉ならジャックも知っています。トミージョン手術のあと肘が爆発して死んだ父が、昔鯉の話をしてくれたのを覚えていました。


「ほれ」


 男はよっこらせと腰を上げ、荷車に掛けてあった麻布を剥がしました。そこには幾つもの桶が積まれており、その一つ一つに一匹ずつ、ジャックが見た事も無い鮮やかな魚――錦鯉が泳いでおりました。

 赤・黒・白の三色のまだら模様のものがおります。収穫前の小麦畑のように、全身が黄金色に輝いたものもおります。他にも、様々な色と模様を持った鯉がそこにはおりました。けれどその中でジャックの目を引いたのは、その中の大半を占めている真っ赤な色の鯉でした。

 まるで研ぎ立ての鎌の刃のように太陽の光を照り返す、金属光沢感のあるソウルレッドの鱗。その輝きは美しく、まるでザクロかルビーの宝石が泳いでいるようでした。ジャックの目は釘付けです。


「わぁ……!!」

「そいつはな、『タナキクマル』っていうんだ」

「タナキクマル?」

「あぁ、ここ最近出てきたやつでな、去年まではそれ一匹で羊が二十頭買えるくらいの値段が付いたんだ」

「二十頭!?」


 ジャックはまたまた目を丸くして驚きます。それは今牝牛を売って貰ってきたお金が十倍になっても、今目の前で口をパクパクするこの魚一匹買えないということです。

 しかしここで、男は威勢を無くして再び路肩に座り込みます。


「去年までは、って言っただろ? すっかり流行は過ぎちまってな、タナキクマルはもう売るより食っちまった方がマシなレベルになっちまったんだ」

「どうして?」

「まぁマルのFAだなんだって理由は色々あるんが、根本的にゃあ領主様の方から御触書が出たからさ。『こんな魚なんかに金を使い込むな』って具合によ。それまで青天井だった値段に上限が付けられちまったせいで、これまで熱心に買ってた金持ち達の購買意欲が削がれたって算段だ。一気に売っちまうのもあれだと思って一年取っといたら、このざまさ――ケッ」


 痰を吐き、カップの残りの酒を男は飲み干しました。


「ふぅん……」


 ジャックには話の内容はよく分かりませんでしたが、この鯉達がもう売れなくなったということは理解できました。


「懐かしいぜこの感じ……いつものが帰ってきたな……」


 感傷的になりながら、男は錦鯉の入った桶を優しい手つきで撫でます。その哀愁漂う横顔に、ジャックは何かしなければいけないような気がしてしまいました。


「ねぇおじさん、これで買えるのってどのくらい?」


 男の顔の前に、ジャックはお金の入った袋を突き出します。男は呆けた顔でそれを受け取ると、中に入っていた数枚の銅貨を手のひらに出しました。


「これじゃあ一匹だって……っても、どうせ売れねえからなぁ……いいや、全部持ってけ」

「え、ホント!?」

「いいんだいいんだ、どうせ俺はもう終わりだからな!」


 かくして、ジャックは手持ちのお金で十数匹の錦鯉を購入しました。荷台いっぱいの錦鯉を楽しそうに眺めながら、ジャックは来た道を荷車を押して帰りました。


 さてさて、こうして錦鯉を持ち帰ったジャックでしたが、その後のことは何も考えておりませんでした。ジャックの家の近くには池や川などありません……ついでに言えばそこまで考える必要すら無かったというのが、このお話。桶に半日入れていた錦鯉は、ジャックが家に着いた頃にはみんな腹を上にしてぷかぷかと浮いて死んでいたのでした。


 ジャックは泣きました。ただでさえ牝牛のお金が鯉に変わった事に腹を立てた母は仕方なく鯉を捌いてスープにしようと思いましたが、あまりに身が泥臭くて食べられたものではないと分かると、ジャックを殴って蹴ってでボコボコにし、錦鯉の死体を窓から外に放り投げてしまいました。ジャック、めちゃくちゃ泣きました。



  *  *  *



 翌日。日が昇ると同時に、ジャックは青あざの残る体を引きずりながら家の外に出ました。すると、そこには驚きの光景が。

 赤を基調とした大きな柱が、家の脇から伸びて天を貫いているではないですか。ジャックがさらに近付いてそれを見てみると、それはタナキクマルを大多数として無数に集まった錦鯉でした。しかも各々はしっかりと生きており、上に上がっていこうと体をうねらせています。


「鯉の、滝登り――」


 昔、父からそういう話を聞いたことをジャックは思い出しました。東にある国の伝説に、鯉が流れの激しい滝を登り切るとドレイクになるという話があるのだとか。どこまでも上に続く鯉の柱は、まさに滝であり、ドレイクでありました。

 これはどこまで続いているのだろう――ジャックは目一杯首を曲げて上を見ますが、錦鯉の果ては見えません。


 よし、じゃあ登ってみるかあ。


 そんな軽い気持ちで、ジャックは錦鯉の柱を登り始めました。



  *  *  *



 雲の上には、金網に囲まれた大きな広場が広がっておりました。そこではオレンジカラーが印象的な衣服に身を包んだ集団が、何やら小さな球を投げたり、木の棒で打ったりなどしていました。

 ……いや、小さな球、というような表現では誤解を生むでしょう。彼らがぐっと握っている球はジャックの頭ほどの大きさで、振っている木の棒もジャックの背丈よりも大きなものなのですから。

 つまるところ、彼らは巨人の軍団でした。


 その様子を、ジャックは建物の陰から観察します。

 まさか、自分達の住む地上の上にこんなところがあって、あんな人間が住んでいるとは。ジャックは驚き、動くのも忘れておりました。


「ん? ちょっとキミキミ。ダメだよ勝手に入っちゃー、ここ関係者と取材陣しか入れないんだから」


 背後から声を掛けられたことで、ジャックは我に返って振り向きます。そこには街の商人のような衣服に身を包みハンチングを被った、優にジャックの倍はある大男が立っていました。


「あの、ここは何ですか?」

「ん? あぁ、君迷子なのか。ここはベースボールスタジアムさ」

「ベースボール、スタジアム?」


 ジャックが聞いたことの無い言葉に眉を寄せると、男は驚いた様子でした。


「何だ、今どきベースボールを知らないとは珍しい子供だな。ああやってピッチャーという人がボールを投げて、バッターという人がそれをバットで打ち返すんだ」


 棒を振る素振りを交えながら、男はジャックに説明します。なるほど、言われてみれば彼らは何かしらのルールに沿ってやっているように見えてきました。


「お兄さんはベースボールをしないんですか?」

「僕? 僕は記者だからね。この後このチームのマネージャーであるハーラ氏に取材に行くんだ。ほら、あそこでグータッチしてる人がハーラマネージャーさ」


 男の指差した先には、筋骨隆々なジャック三人分程もある巨人二人が何やら話しているようでした。その様子を遠目で見ながら、男は素早く手に持ったメモ帳に何かを書き込んでいきます。


「へぇ……」


 ジャックは驚いていました。目に入るもの、何もかも知らないことばかりです。もしかしたらお母さんの機嫌を直せるものがあるかもしれないなと、幼心にジャックはそう思いました。


「さ、坊やは戻らなきゃだ……というか、坊やは一体どこから入ったんだい?」

「僕? 僕は下から来たんだ」


 そう言ってジャックが地面を指差した途端、男は眉を吊り上げました。


「下? まさか、地上から来たっていうのかい?」


 男はとても驚いているようですが、ジャックには何が何だかです。そんな状況を飲み込めていないジャックを察してか、男は屈んでジャックの目線に合わせてきました。


「いいかい、すぐに帰るんだ。ここは地上の人間が来ていい場所じゃない。地上から来た子供だってバレたら、すぐに殺されてしまうよ」

「え、何で?」

「下は不浄な土地だってのが、この天上の国の昔からの価値観なんだ。ああ、君を見つけたのが僕で良かった。他のヤツだったら今頃君はもっと上のところまでいてしまっていたよ」


「さ、こっちだ」と男はジャックに付いてくるよう指示します。そんなことを言われては怖いので、ジャックは大人しく付いていくことにしました。スタジアムの近辺にある建造物は、木造とレンガ造りのものが入り混じっています。けれど、その入り口のどれもがジャックの背丈の三倍にもなることに変わりはありませんでした。


 人気ひとけの無い道をしばらく付いていくと、男はとある場所で物陰に曲がります。ジャックもその後を追い、建物の間へと入っていきました。

 瞬間、ジャックの胴体が何かに掴まれました。


「うわーっ!!」


 悲鳴を上げて暴れますが、じたばたと振り回す足は地を蹴りません。記者に掴まれたジャックは、そのまま持ち上げられていました。

 記者の男がジャックを見るその目は、獲物を狩る肉食獣のそれでした。


「何だよ! お前は僕を助けてくれるんじゃないのかよ!」

「あははは、誰もそんなことは言ってないさ。ただ殺してしまうまでの時間が、その場ですぐか、誰もいないところでゆっくりかの差だと僕は言ったんだよ。それに、地上の人間は不浄というのは嘘でね。俺達にとっちゃ一番のご馳走なんだな」


 舌なめずりをしながら、男はギチギチと万力のようにジャックを掴む手に力を加えていきます。


「この、離せ……!!」

「久しぶりのご馳走だ、誰が逃がすもんかよ。ああしかし、どうやって食べようか……丸焼きも捨てがたいな……ああしかし、ぐちゃぐちゃにしてプリンに混ぜるのも悪くないな。ううむ、どうしたものか……」


 開いた口の端から、よだれがだらだらとこぼれ落ちます。そして考えが料理に飛んだのか、男の手がわずかに緩みました。今がチャンスだと、ジャックは思い切り体を動かしました。


「あむっ!!!」


 そして、ジャックは男の指を思い切り噛みました。


「いてえええ!!??」


 不意の痛みに、男はジャックを捕まえていた手を離します。着地したジャックは、一目散に来た道へと走り出しました。


「あ、こらこのクソガキ!!」


 後ろから男が追ってきます。巨人というだけあって、一歩の歩幅はとても大きいものです。しかし、農家の息子と記者勤めの社会人というジョブの差は、それよりも大きなものできた。ぐんぐんと、ジャックは記者の男に差をつけて逃げました。



  *  *  *



「はあ、はあ……」


 肩で息をしながら、ジャックは手頃な建物に身を隠しました。とりあえず、記者からは逃げ切れたようでした。


 頭に酸素が上ってきたところで、ジャックは自分が逃げ込んだ建物の中身に注意を向けます。鉄製のロッカーらしきものが、壁一面に並んでおります。その近くに置かれたベンチは、座面がジャックの目線ほどまでの高さです。


「ん? なんだろ、これ」


 ベンチの上、ジャックはバケツのような容器を見つけました。目一杯つま先立ちをし、ジャックはベンチからそれを下ろしました。


 ブリキのそのバケツには、黄色くてプリンっ、とした何かが入っていました。こんなもの、ジャックは見たことがありません。

 瞬間、ジャックの鼻に甘い香りが飛び込んできました。こんなに美味しそうな匂いがあるのかと思うほどの、ジャックの食という本能を震わせる香りでした。そしてその匂いは、どうにも今手に持っているバケツの中のプルプルからしています。


「ゴクリ……」


 いざ決心すると、ジャックはそれを指で少しすくい、口の中に入れました。


 刹那走るそれは、味蕾を穿つ稲妻でした。口の中に広がるのは、甘く、甘く、甘い味。舌の上でとろけるそれは、ねっとりとした心地好い口当たり。食べる前からしていた甘い香りも、口から鼻腔を通り抜けることでさらに強烈なフレーバーをジャックに提供します。これは甘味の昇り竜……いや、甘味の鯉のぼりや……!!


 あとは必死でした。周囲になんか目も暮れず、ジャックはバケツに顔を突っ込んでその黄色い何かを思いのままに貪ります。ものの数分で、ジャックはバケツサイズのそれを完食してしまいました。


「げぷっ……」


 さすがに、甘いものを一度に食べ過ぎました。お茶の一杯でも飲んで、口直しをしたいなとジャックは思いました。


「だから、もっとスイングの時の軸を意識してさ? 腰で打つ感じよ腰で――」


 しかしここで、ジャックのいる建物の入り口の方からがやがやと声が聞こえてきました。それも一人ではなく、どうやら大人数。


「ど、どうしよ……!?」


 どこか隠れるところはないかと、ジャックは部屋を見渡します。

 するとなんと都合の良いことでしょう、壁一面にロッカーが並んでいるではないですか。これを使わない手はありません。

 直ぐ様、ジャックは並んでいるうちの一つの扉を開け、その中に身を潜めました。何だか汗臭いですが、しばしの我慢です。


「いやーしかし、もう手術の影響も残ってないみたいで何よりだ」

「オー、センキュー」


 戸棚の外では、何やら話しているようでした。ちょうど光が漏れてる部分があったので、ジャックはそこを覗いてみました。


 そこにいたのは、さっきのスタジアムでベースボールをしていた巨人の選手たちでした。ユニホームを脱ぐと、ロッカーを開けて中に入っている衣服と着替えていきます。


 なんと、ここは彼らの更衣室だったのです。もしロッカーの扉を開けられてしまえば、ジャックには逃げ場がありません。ロッカーたくさん、当たりは一つ。ジャック驚愕、ひいてはジャック危機一髪でした。


「オーノオオオオオ!!??」


 すると、扉の向こうから部屋が震えるほどの悲鳴が聞こえてきました。なんだなんだと、ジャックはまた穴を覗きます。


 悲鳴の主は、彫りの深い顔をした特に大きな巨人でした。巨人の右肘には大きな傷痕が見えます。その巨人が掲げているのは、先ほどジャックが平らげた黄色いやつが入ったバケツでした。


「ワタシノ! ワタシノプリンガ!?」


 どうやら、ジャックが食べたのは男の物だったようでした。練習後の楽しみにでも取っておいたのであろうそれは、既にジャックのお腹の中。激昂した男の手にぐぐぐと力が加わると、ブリキのバケツはぺちゃんこに潰れてしまいました。

 アカン、これアカンやつや――ジャックの背中をひやりと冷たい汗が流れます。


「おいおい落ち着けゲレ、また買いに行けばいいだろ?」

「コレ、金ノ卵使ッテル高級ナヤツ!! メッタニ買エナイ!!」


 他の巨人がなだめに入るも、ゲレと呼ばれたその巨人は怒りを抑えられません。ベンチを蹴り飛ばし、潰れたバケツをジャックの入っているロッカー目がけて投げつけてきました。ガシャアアン!! と金属どうしのぶつかる音に、ジャックは耳を塞ぎました。

 すると、ジャックの視界がいきなり明るくなりました。今の衝撃で、ロッカーの扉の金具が壊れてしまったのです。中に隠れていたジャックは、瞬く間に巨人達から丸見えとなってしまいました。


「……げぷ」


 恐怖が度を超したジャックは、思わずげっぷをしてしまいます。巨人達の汗臭さと自分のげっぷの甘ったるさが高濃度で混じり合い、強烈な不快臭へと変化していきます。


「おえええええ……」


 耐える術も無く、ジャックは今しがた食べた黄色いプルプルだったものを全て吐いてしまいました。ロッカーの中から更衣室の床へ、黄色い粘性のある液体が滝のように流れ落ちていきます。

 その様子を、ほとんどの巨人はポカンとした表情で見ていました。しかし、当人たる巨人だけは違いました。


「オマエガ、食ベタノカ……?」


 悪魔か、オーガか。確固とした殺意を放つその巨人は、もはやジャックを嬲り殺すためだけの存在へと変化を遂げました。

 巨人は一番近場にあったボールを手に取ると、下半身を十分に活かしたフォームでそれを投げました。その先にいるのは、もちろんジャックです。

 胃の内容物を吐いたことですっきりしたジャックは、咄嗟のところで頭を引っ込めます。ジャックの頭すれすれのところを通り、巨人の投げたボールはロッカーの中に命中しました。大きな金属音がジャックの鼓膜をつんざき、振動が下から伝わってきます。あんなものをまともに受ければ、体のどこであれジャックには致命傷となるでしょう。


「許サナイ……食ッテヤル……」


 眼光が尾を引くほどの殺気にあてられ、ジャックは身震いします。

 でも、このまま何もしないで終わるつもりもありませんでした。

 巨人がジャックをその大きな手で鷲掴みにしようとした瞬間、


「えいっ!」


 ジャックは自分の吐瀉物を手で掬い、巨人の顔に掛けました。


「ウゲッ!!」


 巨人が怯んだところをみて、ジャックはロッカーから飛び降り、巨人の股下を駆け抜けます。何人かの巨人達もジャックを捕まえようとしましたが、ジャックはどうにか躱して部屋を出るのでした。



  *  *  *



 地上の人間が出た。

 それは天上の国の巨人にとって、幻ともいえる食材の到来を意味していました。いきなりのことに状況を読み込めなかったベースボールチームの選手達でしたが、ジャックが地上の人間であることに気が付くと、皆が皆ジャックを血眼で探し始めました。


 周辺をうろつく選手達の気配を感じながら、ジャックは人気ひとけのない物陰でやっと一息をつきました。


 来たときは母に土産の一つでもと画策していたジャックでしたが、今は自分の骨一つでも戻れるかすら分からないのではと感じていました。とにかく、自分の命が一番。登ってきた、錦鯉の柱へと戻ることが最優先です。


 しかし、ジャックはここまで必死になって逃げてきたため、経路を覚えていませんでした。スタジアムまで戻ることができれば帰ることができるかもしれませんが、スタジアムは彼らのホームグラウンド。わざわざ捕まりに行くようなものです。


「ど、どうしよう……」


 そんな、絶体絶命の危機にジャックが頭を抱えていたときでした。


「おっ、やっぱりいたじゃねぇか! おーい坊主!」


 心情とは真逆の陽気な声に、ジャックは直ぐさま顔を上げます。そこにいたのは、巨人ではありませんでした。

 最初に目に入ったのは、「C」のロゴが入った赤色のキャップ。


「き、昨日のおじさん!?」


 なんと、そこに立っていたのはジャックに錦鯉を売ったあの男でした。昨日と同じ煤の付いた服を着ており、背中にはバッグを背負っていました。そのバッグは、何が入っているのかパンパンに膨れていました。


「どうしてこんなところに?」

「いやぁ、昨日酔いが醒めたとこでさすがに分の悪い取引だったことに気が付いてよ、お前さんを探してとっちめようと思ったのよ。街で聞き込みしたら、どうにも町外れの家のジャックって子供じゃねぇかって話でな。夜が明けてからお前さん家まで行ってみれば、何があったのか俺の錦鯉が天にまで伸びていて、それを登っているお前さんを見つけたわけだ。一体何をすればああなるんだ?」

「そんなの、僕が知るわけないよ」

「ま、それもそうだな……それで後を付けて見ればこんなところに辿り着いちまってよ。こんなところ珍しいものしかないだろうと、行商の血が騒いだワケよ。それでお前さんのことは一端放っておいて、辺りを物色することにしたのさ」


 ほら見ろと、男は背負っていたバックを下ろし、中をジャックに見せます。

 そこに入っていたのは、一つの大きな金の卵でした。ジャックの顔よりも大きなそれは、表面は傷一つ無い滑らかな曲線を描き、目映い程の輝きを放ちます。


「うわぁ、綺麗……!!」

「だろ? こりゃ相当な値段が付くに決まってるんだ。……だけどよう、持ち主に見つかっちまってな」

「ああ……」


 つまり、男の状況もジャックと似たようなものということでした。ジャックからも、ここまでの経緯と、今の状況を男に話しました。


「なるほど、どっちもピンチってわけか。なーに、帰り道くらい俺が覚えている。後はその道を戻るだけだ」

「戻れるの?」

「無理だな」


 ジャックの淡い希望を一刀両断、男はきっぱりとそう言ってしまいました。


「ここまで逃げてくるところでも見たが、あの巨人の数じゃ捕まるのが目に見えてる。少なくとも、正攻法じゃ無理だ」

「じゃあ、邪道を考えなくちゃ」

「邪の道か、鯉の道ならあるんだけどな……ほら、ここまで来やがった」


 そういって、男は自分達の目の前まで泳いできた錦鯉の頭を撫でました。


「――って」

「「ええええええええ!!!???」」


 二人は驚愕の声をあげます。ジャック達が雲の上まで登ってこれたその手段である錦鯉が、いつの間にか路地裏にいたるまでの地面という地面を埋め尽くしていました。

 そして、二人は衝撃の瞬間を目にします。

 ぶるぶると身震いをした錦鯉が大口を開けると、なんとその口の中から一回り小さな錦鯉が出てきたではありませんか!!


「ふ、増えやがった!?」

「魚って卵から生まれるんじゃないの……??」

「いや待て――魚の中には卵を口の中で守って、孵化するまで子育てをするやつがいると聞く。こいつらはその究極系かもしれないな」

「究極過ぎない?」

「しかし、これは俺達にとってチャンスだ、行くぞ!!」


 この機を逃すまいと、男は膝丈程までにかさを増した錦鯉の中を進み始めました。置いて行かれるのは嫌だったので、ジャックもその後に続きます。


「お、いたぞあそこだ!!」


 すると、すぐ近くにいた巨人がジャック達を見つけました。捕まえようと、巨人がこちらに進もうとします。しかしその巨人は足を動かすことができず、バランスを崩してその場に倒れ込んでしまいました。足下を覆うタナキクマルの群れが、巨人の足の自由を奪ったのです。


「あ、こらやめろ、ちが、うわあああああ……!!!」


 やがて、倒れ込んだ巨人は増殖するタナキクマルのソウルレッドカラーに完全に覆われてしまいました。

 ジャックと男は、ただただ呆けた顔でその様子を眺めるばかりでした。


「……行くか」

「……うん」


 その後も何人もの巨人がジャック達を見つけては襲いかかろうとしましたが、その全てがタナキクマルの濁流に飲み込まれてしまいました。錦鯉の中でも、どういうわけか巨人達を襲うのはタナキクマルだけでした。

 最初は膝丈程だった錦鯉も、いまではジャックの胸の高さにまでかさを増しています。流れの緩やかな場所を選んでは、そこを必死に掻き分けて進みます。ひと掻き、またひと掻きとする度、むせ返るほどの魚臭さがジャックを襲いました。


 そして日が傾いて空が茜色に染まりだした頃、二人は登ってきたところまで戻ってくることができました。発生拠点というだけあって、錦鯉の増殖スピードは一層すさまじいものでした。錦鯉の口から出てきた錦鯉が、すぐにむくむくと膨らんで次の錦鯉を吐き出していく光景が視界をいっぱいに埋め尽くしていました。


「よし、ここを下りれば地上だ!」


 男はここまで大事に守ってきた金の卵入りバッグを担ぎ直し、垂直方向に連なる錦鯉に掴まりました。ジャックも続きます。


 やっと家に帰れる――そう思った瞬間でした。


「見ツケタアアアア!!!!」

「っ!?」


 叫び声にジャックが振り返ると、そこにはゲレと呼ばれていた、あのプリンっとした食べ物の持ち主であった巨人がいました。彼は自身に襲いかかってくるタナキクマルを、自慢の腕力と金属製の棍棒のようなものバッタバッタ――否、バットバットと薙ぎ払いながらこちらに近付いてきます。棍棒を振り回す腕は筋肉が隆々と浮かび、顔は悪魔のような表情をしておりました。

 ジャックも直ぐさま、下へと続く錦鯉へと向かいます。


「おじさん、巨人が来る!」

「何ィ!? 急いで下りるぞ!!」


「ウガアアアアア!!!」


 しかし、巨人もまたスピードを上げてきました。タナキクマルが弾け飛ばされ、ついに巨人は地上へと下りる錦鯉の滝に辿り着きました。

 そしてあろうことか、巨人は垂直ともいえる角度を


「ウソぉ!?」


 自由落下のエネルギーをそのまま走力に加算し、巨人は瞬く間にジャック達に追い付きました。そして棍棒を投げ捨て、空いた手でジャックを捕まえにかかりました。ジャックは必死に横に逃げ、巨人の手をかわしました。勢いよく突っ込んできた巨人はそのまま通過してさらに下へと走っていきますが、十数メートル下ったところで錦鯉の中に思い切り手を突っ込んで止まります。結果として、ジャック達は進路を塞がれてしまいました。


「ちくしょう、回り込まれたか!」

「許サナイ……俺ノ、俺ノプリン……!!」


 打開策はないものかと、ジャックは巨人を観察します。


「グッ……」


 すると、巨人が何やら錦鯉に刺した右腕の肘を気にしていることにジャックは気付きました。そういえば、あいつの右肘には傷痕のようなものがあります。


『いやーしかし、もう手術の影響も残ってないみたいで何よりだ』

『オー、センキュー』


 彼らがロッカールームに入ってくるときのやり取りを、ジャックは思い出します。手術――あの傷は、何か手術を行った痕……。


「――もしかして、あれって」


 ジャックの中の、古い記憶が蘇ります。それはまだジャックがひとりで街に向かうなど到底無理だった、父親が生きていた頃の記憶。

 頭を撫でてくれるごつごつとした手と、そこから視線を上げた先にある、痛々しい傷痕――。


「っ! おじさん、卵! 卵をあいつの右肘に!」

「あぁ!? それでどうなるってんだ!?」


 ジャックの突然の指示に、男は当然驚きます。


「いいから! 早く!」

「ああもう、しょうがねぇなまったく……!!」


 男はどうにかバッグの上を開けます。

 巨人を見ると、錦鯉に突っ込んだ右手が中々抜けずに苦労しているようでした。今がチャンスです。


「そらっ!」


 男が狙いを定め、バッグを傾けました。中からキラリと輝く金の卵がこぼれ、そのまま真下にいる男の腕へと飛んで行きました。


「グ、ウガアアアアア!!!」


 しかしもう少しで直撃というところで、巨人の腕が錦鯉から抜けてしまいます。落とした金の卵は、逆に巨人にキャッチされてしまいました。


「オ返シ、ダ!」


 巨人は左手で錦鯉に掴まりながら、不安定な体勢で握り締めた金の卵をジャック達に向かって投げつけてきました。豪速球と化した金の卵がジャックを捉えるかと思われた、次の瞬間――


 カキィン!


 それは、甲高い金属音でした。気が付くと、ジャックの目の前にはメタリックレッドが広がっていました。

 遅れて、ジャックは状況を理解します。突如ジャックの目の前に現れたのは、本流から枝分かれして伸びたタナキクマルの群れだったのです。それが巨人の投げた金の卵からジャックを守ったのでした。

 いや、それだけではありません。滝状に異常増殖する過程で遺伝子に突然変異を起こしたタナキクマルの系統が、骨格と鱗に金属を含有するようになっていたのです。何匹もの変異型タナキクマルが集まったそれは、金の卵を容易く打ち返すほどの強度を持つようになっていました。


 打ち返された金の卵は巨人の投げた卵の球速以上に速度を増し――そして巨人の右肘にクリーンヒットしました。


「ウギャアアアアアア!!??」


 肺腑に響く断末魔とともに、巨人の右肘が赤色光を放ち始めます。


「おじさん、しっかり掴まって!」

「言われなくとも分かっとる!」


 二人が錦鯉にぐっと掴まるのとほぼ同時に、巨人は目映い光の中に姿を消しました。直ぐさま、二人をとんでもない熱風が襲います。


 トミージョン手術を行った肘が爆発するその光景を、ジャックはどこか懐かしい気持ちで見ていました。しかし、ぼうっと見ていられるのもわずかな時間でした。巨人のいた部分が崩壊したことにより、地上へと繋がる錦鯉が支えをなくし倒れていきます。


「うおおい!? ちょっと待て!」


 男は急いでそっちに移ろうとしますが、間に合うことはありませんでした。ジャック達は、とうとう本当に地上へと続く道を失ってしまいました。


 ――というわけでもなく。


 うなだれる男とジャックの間を、真っ赤な長いものが飛んで行きます。それは切れた錦鯉の滝を一周すると、それは鋭い眼光でジャックを見ながら止まりました。


 タナキクマルと同様の、光沢のある力強い赤の鱗。さっきの巨人の背丈のさらに倍はあろうかという長さに、ジャックが楽に乗れるほどの太さ。顔は魚というよりトカゲに近く、口からは鋭く立派な牙が見えていました。


「……ドレイク


 片田舎の少年でもあり得ないということがわかるくらいには、それは伝説としての威厳を誇っていました。険しい滝を登り切った末に、超常なるものへと昇華した存在。

 その出で立ちに、ジャックは涙を流し、畏敬の念を抱かずにはいられませんでした。



  *  *  *



 結論しては、ジャックと行商人の男はドレイクの背中に乗って無事地上へと戻ることが出来ました。二人を地上に降ろした後、ドレイクは再び空の彼方へと飛び去っていってしまいました。

 命からがら逃げ帰ってきた二人でしたが、何も収穫が無かったわけではありませんでした。まず行商人の男は、あの金の卵を打ち返した変異系統のタナキクマルを二匹捕まえることに成功していました。しかしあの時のように勝手に増えるようなことはなく、形質以外普通の鯉へと戻ってしまっていました。幸い捕まえた二匹はそれぞれ雄と雌だったので、これから増やして一攫千金だと男は笑いました。


 それならジャックはというと、家の裏であの巨人にぶつけた金の卵が落ちているのを発見しました。残念ながら落下の衝撃で中味はぐちゃぐちゃに飛び散っていましたが、金でできた卵の殻は全て集めることができました。それを売ったことにより、ジャックの家はとても裕福な家となりました。お前の分だよと母親に渡されたお金で、ジャックは数頭の牛を買いました。


 丘で牛を放牧しながら、ジャックはいつも空を見上げます。

 どこか空を泳ぐであろう、真っ赤な鯉のぼりに思いを馳せながら。























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